ただの泡ですが、この展開にはびっくりです。
俺は馬を進め、ただの泡と一緒に事故現場にやってきた。
事故の現場は、移動の休憩場所にいい、少し開けた場所だ。幼い俺を連れて、馬車での長旅。俺の体調に気遣い休憩もこまめにとられたから、何らおかしくはない。
そして視察に行くためにはこの魔物が出る道を通らなければいけなかった。
『魔物が出る場所なのに休憩を設けていたんですね』
「俺は子供だったからな。トイレも大人より近かったはずだ。ただあの時の俺はたぶん、眠っていたな」
大人よりも我慢が物理的にも効かないのが子供だ。世間一般の子供よりは躾けられてはいたと思うが、生理的なものはどうにもならない。
俺は眠っていたが、一応止まって母達も休憩をしていた。
魔物は出るが、そのための護衛も用意してあるので、一時的に馬車から出るぐらいは許されていた。
「何故あのタイミングで目が覚めたかは分からない。ただ、ふと目を覚ました俺は、母達を探して馬車を出たんだ」
使用人が王妃様達は、あちらで野花を見ていらっしゃいますと言ったのは覚えている。だから俺は母と乳母を探しに外へ出た。
「そして母が足を踏み外して、あそこの崖から落ちる姿を見た。その時乳母は、何もしなかった。ただ母が落ちてく姿を見ていた」
驚きすぎて体が硬直してという様子でもなかったと思う。……俺も幼い頃の記憶なので、勝手にそう思っているのかもしれない。でも乳母の表情がまったく変わらなかった事だけは今でも忘れられない。
『他の使用人の方は、助けに向かわなかったのですか?』
「……ああ。母が落ちたタイミングで、魔物が出てしまったんだ」
あの瞬間、俺は泣き喚き、母の元へ行こうとした。しかし使用人が幼い俺を捕まえて離さなかった。当たり前だ。あの崖から俺まで落ちては問題だし、魔物が出たのだ。王子である俺をみすみす殺させるわけにはいかない。
彼らが優先すべきだったのは、王妃ではなく王位継承権第一位にいる王子だったのだ。
「そうだ。あの日、俺は、初めてドラゴンを見て……。それよりも母の事が衝撃すぎて、しっかり覚えていないが」
人間よりもずっと大きなドラゴンが現れた瞬間、俺は馬車に入れられ、王宮へと戻った。
護衛を連れてはいたが、ドラゴンを相手する事など想定していなかったのだ。そもそも、ドラゴンなど、人間が相手できるような魔物ではない。
そしてしばらくの間、この森自体、進入禁止となった。もしもドラゴンが町まで下りてきてしまったら、とんでもない被害が出る為だ。ドラゴンを討伐するリスクや手間より、この場所を使用しないとした方が都合が良かった。
それから数年経って、安全が確認されたため通行できるようにはなったが、高い崖から落ちた上に、数年間放置された王妃が生きている可能性はない。その為王都に墓が建てられ、遺骨は人々の安全を優先させ、探さなかった。探した事により、再びあのドラゴンが出てきてしまったら困るからだ。
『落ちた崖、結構高いですね』
「おい。気を付けろよ」
『大丈夫です。ただの泡なので、落ちても壁をつたって登れますから』
こういう時のただの泡の言葉は心強い。これがシャボンの姿だったら、崖の近くに立たれるだけで気が気ではなかっただろう。
死なない安心というのは大切だ。
『いっそ、一度、下に降りてみますか?』
「……下りれなくはなさそうだな」
『私一人でも大丈夫ですよ?』
「いや。命綱としてロープも持ってきたから俺も行く。一人残される方が、精神的にキツイ」
『分かりました』
ただの泡が戻ってくるかどうか、ここで待つのだけは、やりたくない。
母が落ちた記憶がフラッシュバックして、息ができなくなりそうだ。
俺は馬を木に繋ぐと、さらにロープを木に巻き、俺自身にも巻きつける。そして少しづつ崖の下へと降りて行く。よし。何とかなりそうだな。
俺がゆっくりと降りる横をただの泡がうにょうにょと壁をつたって下りて行くのが見えた。……確かに安心だな。
ただの泡のままの方が、死なないくていいなと思ってしまうぐらいには、安定感がある。
しかしただの泡が人間の姿にならない場合は俺もただの泡と一緒に魔物の住む森に移り住んだ方がいいだろう。ただの泡は俺が王宮にいて王子をした方がいいという考えだが、別れるという選択はない。
王宮に未練はないが、彼女がどうしてもその方がいいというのなら、王子として生きて行けるよう調整することになる。そうなると、やはり彼女が自由に動くにはシャボンの体でいる事が必要不可欠だ。ただの泡ではいられない。
「なあ、俺が料理したり、獲物を狩る事ができるというところを見せたら、辺境でのスローライフに賛成してくれるのか?」
『……できるんですか?』
「もちろん。もしも戦場に出なければならない時に、一人でゲリラ戦になる可能性がないとは言いきれないだろ? 野営の基本は学んである。ただ、凝った料理は無理だ。しかし今からでも努力をすれば十分に学べると思う」
大物が得られなくても、いざという時は蛇やトカゲも食べられるし、火もおこせるように実地で学んである。
『うーん。どうしても王子が王宮での生活が嫌になった時に、その案は考えませんか? 王子は、その、うーん。ううううん』
「どうした?」
『できるだけ王子が幸せになれる方向で考えたいんですけど、あまりに王子ができすぎるというか、王宮での王子の仕事量を考えると、他の人を切り捨ててしまった方が楽な生き方ができるような……。でも、やっぱりあんなに慕われて愛されているのにその選択をさせてしまうのはあり得ないというか』
「俺は君が幸せになる方向で考えて欲しい」
俺の為に頭を悩ませてくれるのは可愛いが、どちらかというと俺のことより、ただの泡の事の方が大切だ。
そんな話をしているうちに、足が地面についた。高いは高いが、奈落の底と言うほどの高さではなかったな。しかし上からここまで転がり降りれば、色んな部分を欠損し肉団子になっている可能性が高い。
……そう思うと、母の遺体を見なくて済んだのは良かったかもしれない。
「流石に十年以上経てば、衣服も残ってはいないか」
残っていても、それが母のものかは分からないかもしれない。俺もさすがにあの日母がどんな服を着ていたか覚えていない。
『……王子。魔物が、こちらを伺っている気配がします』
「そうか。襲ってきそうか?」
理性がある魔物か、それともない魔物か。大切な事だが、俺にはすぐに判断できない。
『分かりませんが、一匹こちらに来ました』
そうただの泡が言った瞬間、ぶわりと突風が俺達を襲った。
そして俺の上に影が落ちる。反射的に見上げた俺は、突如現れた存在の大きさに目を見開いた。
『いきなりの大物ですね』
俺の真上に現れたそれは、幼い日見た、ドラゴンだった。




