ただの泡なので、食べられる事だってあります
それは俺にとってとてつもない衝撃的な場面だった。
以前からただの泡は、池の鯉に恋をして——は断じてないが、池の鯉を愛でており、ちょくちょく池まで泡の一部が通っていた。というか、一部分離して諜報活動もできるこの状況、一体どういう仕組みなんだろう。だがこれに関しては考え始めたら負けな気がする。ただの泡は、俺の常識では測り切れない。
そして話がそれるから元に戻そう。
そう。彼女は家臣たちが献上したことにより数を増やした鯉達を、コイドルと呼び毎日愛でに行っていた。鯉たちはどうやらただの泡が近寄ると、それを認識しているらしく、池から顔を出すようになっているのは前々から見かけていた。
まあ、相手は鯉だ。
俺とただの泡は、種族的に大きな壁があるが、鯉だって同じこと。むしろ錦鯉は例えどれだけ美しい鱗を持っていようと、喋らないので俺達よりより深い溝があると言っていいだろう。会話ができなければ相互理解できないため溝は埋められない。
それにただの泡だって、コイドルを鑑賞しに行っているだけだと言っていた。うん。趣味まで口を挟んでは、束縛が過ぎるというものだ。
というわけで、広い心で許していたわけだが……。
「って、おおおおおおい!!」
なんという事だろう。泡が池を橋の上から覗き込んでいるなと思った瞬間、そのまま身投げした。文字通り、身投げだ。ぼちゃんと池の中に入った泡に、俺はギョッとして大慌てて駆け寄ったが、時すでに遅し。
泡の姿はなかった。代わりに鯉達がパクパクと口を開けている。
た、……食べられた?
嘘だろ? おい。嘘だと言ってくれ!!
「お、王太子殿下?! おやめください。どうされたんですか?!」
俺は鯉達にただの泡を吐き出させようと池に飛び込んだが、鯉を捕まえる事ができなかった上に、家臣達が大慌てで俺を引きあげた。
その時の俺は、水に濡れた状態で人目もはばからず涙を流していた。
まさかそんな。ただの泡が食べられるなんて……。こんなことになるなら、コイドルを愛でるのをやめさせればよかった。
そんな後悔が胸の内で渦巻く。
ぐしょ濡れとなった俺は、家臣達に風呂に投げ込まれ、そこでさらに泣いた。この風呂は、ただの泡との出会いの場所だ。思い出が沢山詰まっている。
こんなことなら、思う存分筋肉を見せてやり、一緒の風呂に入ればよかった。
「ただの泡……。どうしてなんだ」
『何がでしょうか?』
「どうして、鯉に食べられたんだ——えっ?」
『あっ。駄目でした? ただの泡は毒ではないし、けっこう栄養価も高いと思うんですけど』
風呂でぐずぐず泣いている俺の近くに、少量のただの泡がいた。
「た、ただの泡?!」
『はい。そうです。最近増える事も可能になったただの泡です』
「ふ、増えるのか?」
『はい。どこまで減っても大丈夫かは実験してませんが、王子と想いが通じ合った時から、おおよそ24時間で多少減っても元のサイズに戻ります』
……マジか。
ただの泡の生態がさらに謎に満ちてきている。でも、そういえば、本体は部屋の金魚鉢の中にいるんだった。
食べられた瞬間が衝撃すぎて、記憶から抜け落ちていた。
『なので、王子も食べたければどうぞ』
「だが、断る!」
いや。鯉に食われるぐらいならと思わなくもないが、まだその禁断の愛の域に達したくはない。
その後ただの泡には、自分の体ではなく、パンくずを鯉へのおひねりにしろと命令しておいた。




