完:百獣の王とは誰がつけた名前か
「どう、思い出した?」
「思い出した。確かにあの時、あなたに夢の話をしたような気がする」
「気がするんじゃないよ、確かなんだよ」
「ニャー」
アーサーが、公隆の腹の上で鳴いた。いつの間にか草原の向こうに、森ができあがっている。
改めて周りを見ると、小さな生き物たちが、せっせと生きるために食べ物を探して飛び回っている。驚いた。夢の中でも、彼らは『生きている』のだ。ぴょん、と飛び跳ねながら、膝上に乗っかってきたうさぎの毛並みを、なんとなく梳いてみる。柔らかい。感触もリアルなのか。
「雛ちゃん」
「なあに」
「ここがどこだかわかるかい」
「……あなたが言っていたイドの世界でしょ」
「そう。けれど君はこの空間をまだ夢だと思っている」
図星だ。
「君にとって、夢とはなんいだい」
彼は立ち上がりながら、昔と同じ質問を繰り返した。すたすたと歩いていって、キリンの首を撫ぜる。あたりには動物たちで溢れていて、猫の尻尾がピンと上を向いていた。猫はその時々によって尻尾を揺らして不機嫌を表したりするけれど、上に伸びている様子を見ていると、そうとう彼らはここの空間を楽しんでいるらしかった。
「本当は、夢は存在するんだ」
公隆が遠くで叫んだ。そしていつの間にか連れてきたパンダとシロクマと豹を、横一列に並ばせる。そして「頼んだよ」と公隆が声をかけると、パンダが口を開いた。
「眠い。すっごく眠たいよ、今すぐ寝てしまいたいなあ」
豹がパンダの方に向いて、その大きな口を開く。
「おい、寝るなよ。ここは寝る場所じゃねえんだよ」
「まあまあ。喧嘩してないで、一緒にコーヒー飲もうよ」
止めに入ったのはシロクマだった。思わず公隆の方を見ると、うんうん、と満足気に頷いて「ありがとね」と言って三匹を解散させた。いったい何が言いたかったのだろう。雛は、うさぎを膝から降ろすと、毛のついたカーゴパンツをパンパンとはたいた。その間に、彼がこちらによってきてにっこりと微笑んだ。
「つまり、こういうことさ」
「ごめん、わかんない」
「つまり、人間とは、あの三匹がしていた会話によって成立しているわけなんだよ」
パッとそこに現れたホワイトボードに、彼は『自我』『超自我』『イド』と書き込んだ。それを見ながら、彼はペン先で、とんとんとその文字を示す。
「ここでいう自我とは、シロクマくんのことだ。彼は、心の中心的な存在であって、合理的、理性的、現実的な機能を有している」
まるで雛ちゃんだね。と笑いながら、自分もまさにその通りだと思った。だって物や動物がいつの間にか溢れている世界を見たことが一度もないからだ。ここは現実的な場所ではない。雛はそこに違和感を感じていた。つまり、雛は現実的な考え方を持っているのだ。
彼は「次に」と、ペンで指さしたのは『超自我』の部分。
「これが豹くんなんだけれど、この人はちょっとやっかいだ。暴力的だし、ちょっと怖いし。まあそれは置いといて、超自我が成しているのは、シロクマくんに対して、何をし、何をなすべきではないか、と、教えてくれるところ。だから、シロクマくんとパンダくんは、豹くんのおかげで、理性を保てている。ここまではわかった?」
「なんだか大学の講義を受けているみたいで、つまらない」
「そんなこと言わないで。夢がなくなっちゃうだろ」
「あなたのこだわりがね」
「そう。で、次に『イド』を作り上げたのはパンダくんだ。彼は本能的に欲求をエネルギーとしている。だから、シロクマくんは、理性を保てと指示してくれる豹くんがいるけれど、その理性がなくなってしまえば、眠くなるし、食べたくなるし、欲しくなる」
それがこの世界さ。
彼は能弁に喋り終えると、さっさとホワイトボードを片付けはじめた。いつの間にか周りの景色が変わっていて、遠くのほうを見ると、そこには宮殿と城下町があるのがわかった。彼のことだから、どうせ古い書物でも読んで、こんな感じだろう、と、想像したに違いない、いや、そこに行く夢を追いかけているに違いない。
「つまりこの世界を作っているのはパンダな訳ね」
「そういうこと。僕の中ではそうだけど、君の中じゃ、ハゲタカがそうかもしれない」
「ハゲタカなんて言わないで」
「夢がないなぁ」
ぼやく後ろ姿を眺めて、雛は数歩、足を踏み出してみた。草原の世界は悪くない。そしてこの世界が彼の中の深層心理に、雛が居るのだということは、彼の説明によってちゃんと理解した。この世界は本能であふれている。
例えばそこに一個のおまんじゅうがあったとして、公隆が食べるのか、雛が食べるのかが問題になっていた時、伸ばそうとしていた手を引っこめるのが理性。気にせず「じゃあもらいますね」と何のためらいもなく食べてしまうのが本能。
「けど、どうしてこの世界に連れてこられたの。私」
「昔、君は将来が見えないと言っていた」
「うん」
「もう一度訊いてみよう。雛にとって、夢とはなんだい」
彼は風に吹かれながら、大きく両腕を横に伸ばした。飛び込んでこいってことなのか。けれど、シロクマが私の身体をぎゅっと抱き締めて動かないようにした。うしろで豹特有の鳴き声がする。きっと彼がシロクマくんに命令したのだろう。雛の理性をちゃんと持たせておくようにと。
「夢は、夢だと思う」
私は慎重に言葉を選んだ。なにせこの空間はパンダに守られている。もし彼の理性を失ってしまったら、雛はパンダに殺されるかもしれないからだ。そんなこと、考えたくないけれど。それでも、雛は高校時代に訊かれたことの答えを、口にだした。
「眠る時によくわからない物語を見るのが夢、叶えたいものがあることが夢、ロマンチックな夜景を見ながらでもなんでもいいけど、自分がされたら嬉しいことを想像するのが夢。夢は、現実にはないもの。そして、それは自分でもわかっていること。夢は夢を見るためにあるものであって、夢を現実に変えるために『夢』を見ている」
雛はふうと、息を吐き出した。相変わらずシロクマくんと豹くんは後ろで待機しているけれど、それは向こうも同じことだ。理性は人間にとってのストッパーなのだ。
目の前の男がにっこりと笑った。上機嫌の時に良く見せる笑顔だった。
「そうだね、夢とはそういうものだ」
「きみくんもそう思うでしょう」
「そうだな、僕も小さい頃は、プロの野球選手になりたいと夢を見ていた」
「どうしてあなたの中で、夢にこだわりを持っているの」
目の前の彼は、さあ、なんでだろう。と眉を八の字にしながら微笑んだ。同時に、く、と肩をすくめる。彼が言っていることは矛盾していた。質問をしておきながら、彼自身の中で明確な答えはないらしい。
「雛ちゃんにとって、夢は空想なんだ」
「夢は物じゃない」
ざあ、と風が吹いて、いつの間にか現れていたコスモス畑の花を揺らす。良い香りが辺り一面にふんわりと広がった。公隆はその花を一つ掴むと、雛に差し出してきた。
「ほら、触ってみて」
「うん」
雛は素直にその花束を彼の手から受け取った。とても色鮮やかなコスモスたちが、風にあわせてダンスをする。夢の中にいるはずなのに、夢の中の物は触れるのだ。けれど、眠っている時に見る夢だって、触れるし、匂いもわかるし、感触だって自覚しながら、レールの敷かれた物語をたどっていくのだ。コスモスは確かに綺麗だけれど、夢は空想の世界だ。
「目に見えないものは、無いに等しいんだよ、きみくん」
「けれど君は、僕からコスモスを受け取ったろう。感触も、匂いも、全部、その手と身体で感じることができたろう」
「うん。だけど、きみくん、それこそ、夢は『夢』を見るためにあるものなんだよ。『夢』は現実に手で掴めるものじゃない」
そう言うと、彼はそっと微笑んだ。「君の理論は完璧だ」と言って、石畳の上を、笹の森に囲まれながら歩く。手を繋がれて「じゃあ、逆に訊いてみよう」と彼は言った。
「この世界はイドで、僕の深層心の中であると言ったけれど、もしこの空間が夢だったら、君はどうする」
笹の葉の向こうで、カナカナカナとひぐらしが鳴いている声がする。静けさにかこまれたこの空間が、もし夢だとしたら。もしも、夢だとしたら、雛が思い描いている理想を叶えたい。けれど、ここは彼の世界だ。そして雛は、今、彼の中に居ると言っても過言ではない。この状況下では、夢は叶えられないのだ。
「あなたの夢でしか、ここの世界では叶えられない」
「つまり、そういうことなんだよ」
雛は首をかしげた。やがて見えてきたのは、お寺だった。雛はここを知っている。京都の観光名所、清水寺だ。いつもは観光客であふれかえっているそこは、人っ子一人、そこに存在することはなかった。
「僕の夢は、誰もいないこの清水寺に行くことだった」
「ここには誰もいない」
「君の言ったとおり、僕の夢は僕自身でないと叶うことができない」
シロクマと豹とパンダが現れた。いつの間にか、この空間は草原へと戻ってきていたらしい。ふと見上げると、名前も知らない大きな木が一本、とても太い幹でバランスを取り、そこに生えていた。キリンがその木からりんごをもぎ取り、口の中で咀嚼している。どうやらこれは、りんごの木らしい。公隆がアルパカと戯れながら、大声で叫んだ。
「その木は、僕自身なんだ。そして果実は、僕の夢。だからキリンが……ちょっと待って……こら、服をかじるんじゃない……もう!」
「それで」
「それで、キリンがりんごを食べたのは、僕の夢がひとつ叶ったから、彼らはそれをエサにして食べている」
日常では、夢は叶わないことのほうが、多いけれど。と、公隆が、未だ彼の服をかじっているアルパカを引き連れて、こちら側にやってきた。そして満面の笑みで言う。
「人間って、面白いんだ」
と。そして、その木に寄りかかって、彼はパンダを呼び寄せた。
「僕は少し眠るよ」
シロクマと豹がすごすごと帰っていく。彼らの仕事は終わったのだ。その背中を見送りながら、視界の端っこで青い毛並みの何かが蠢く。驚いて隣を見たが、公隆がそこで寝ているだけだった。
雛もこの眩しい光を浴びながら草原で寝そべるのが夢だった。そう、夢なのだ。ここではなんでも夢が叶うんじゃないかと勘違いしそうになるが、大人しく、雛は彼の隣でそっと目を瞑るのだった。