続:百獣の王とは誰がつけた名前か
「ほあ……」
自分でもすごく間抜けな声が出たと思う。漏らした空気と一緒に声帯から出てきたその音は、ばっちり隣にいた人物に聴かれていたらしい。ぶふ、と大きく噴き出した彼は、肩を震わせて必死に真顔を保っていたけれど、笑いたいのをこらえている顔っていうものは、誰にもお見せできない代物なのだと、十七年生きてきて初めて思った。彼の表情筋が大丈夫かすごく心配になる。
「どうしたのさ、大きな溜め息吐いて」
「……人には言えない悩み事も多い時期なのよ」
「なるほど。そういうお年頃ですか」
高校生活はもう一年を過ぎてしまった。これから考えなければいけないこと、それは一つしか残っていない。
そう、進路だ。
将来の夢は未だに見ることができなかった。周りの友達はみんな、獣医だの、教師だの、保育士だの、ミュージシャンだの。それぞれの中で大きな夢を抱いて、それに向かって前進している。その背中を見ても尚、自分の中で「これだ!」と思えるようなものが何一つ見つからないのだ。自分の将来像が、何も見えない。
「いつも思いつめています。って顔しているよね。雛ちゃんって」
「そう?」
「うん。心配だな」
そりゃどうも。そういえばよかったのに、思わず口をつぐんでしまった。隣のメガネくんは、他人の心配もできるのか、そしてその対象は雛なのか、と思ったら、なんにも言えなくなってしまったのだ。無意識のうちに彼の瞳を見つめていたらしい、メガネはちょっと頬を火照らせて「やだな。僕の顔になにかついてる?」と余計に顔を近づけさせてきた。冗談じゃない。
「その眼鏡、似合ってない」
「え」
特にそんなところに問題があるわけじゃない。けれど単純な脳細胞の公隆は、フレームのない眼鏡を外して、無言でそれをじい、と眺めるという簡単な作業を始めた。雛は顔を前にむけると、複雑で難解な数式が、黒板の上を支配している。
「私、黒縁の眼鏡が似合う人、すごく好きなの」
「え」
「夢があって、とても素敵だと思わない? 世の中にそれが似合う男の人なんて、漫画の世界だけなんじゃないかしら」
カチャ、と軽快な音を立ててその眼鏡は元いた場所へと帰っていった。神妙な目付きが顔にびしびしと突き刺さって痛いけれど、あえて彼のほうを見ようとは思わない。これは雛の価値観であって、フレーム無しの眼鏡が好きな女性だって五万といる。
「雛ちゃんは、よく夢を語る人だよね」
「夢……」
「君にとって、夢とはいったい、なんだと思う」
また難しい質問をされてしまった。つい最近、そう、歴史の時間に、そんな話をしたばかりのような気がするのだけど、彼はもう、そんなこと覚えていないのだろうか。
「夢は夢よ」
「明確な答えをちょうだい」
彼は眼鏡を取って、私に渡してきた。なんとなくそれを受け取って、前で淡々と授業を進めていく教師を、ぼんやりとした視界で捉える。彼の度数は、自分にとってかなりきつめのものだった。
「あなたは夢にこだわりを持っている」
「そうだね」
「それとおんなじよ。私の場合はこだわりではないけれど、夢は、現実にはないもの。そして、それは自分でもわかっていることよ。皆は夢を現実に変えるために『夢』を見ている。夢って、そんなものじゃないかな」
私は眼鏡を外すと、そっと彼の胸ポケットにそれを突っ込んだ。もう彼には必要がないものだと勝手に判断したからだ。公隆はそれをケースに仕舞い込んで、改めてこちらを見る。彼の双黒の目が、どことなく青く見えて、濃紺の目だと思った。とても純粋で、とても綺麗な目をしている。
「君は、つまり夢とはそういうことだと、僕に言ったね」
「ええ」
「君は僕と相性が良いと思うんだ」
「そりゃどうも」
授業を終わらせるためのチャイムが鳴り響く。彼が差し出した手を叩いて、公隆が小さな声で「痛いなぁ」とぼやいたのがわかった。
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