3.百獣の王とは誰がつけた名前か
初めて彼が雛と目を合わせた瞬間に、そのぽってりとした口から出したのも「ライオン」というワードだった。余程、百獣の王が好きらしい。そう言って少し笑うと、公隆は「違うって。青いライオンさ。それは誰がつけた名前だい?」とのたまった。もう意味がわからない。
ライオンはライオンだ。そして百獣の王とは、全国民が、そして世界各国が承知しているライオンのあだ名ではないか。百の動物の世界を守る王。それがライオンだというのは、周知の事実である。
「それがおかしいんだよ。僕には不思議で仕方ないんだから。百獣の王とは、誰がつけた名前なんだい。ライオンは果たして、ほかの動物よりも王に在るべき存在なのか?」
そういえば言い忘れていたけれど、山村公隆は哲学を重んじる人間だ。常に論述と理論を頭の中で構成し、それを組み立て考える。普通の思考も、計算の上なのだ。
「小森という苗字がなぜ存在しているのかと同じじゃないか。だって森は、林がたくさんあるからこそ、森と言える」
「原住民が小森って苗字を好んだんでしょう」
「それなら別に森さんでも、大森さんでもよかったはずじゃないか」
「きみくん、それは、屁理屈って言うのよ。知ってた?」
「……君はどうやら頑固頭らしい……」
「はいはい」
そしてこれも付け足しておこう。彼は自分の考えこそが正しいと思い、尚且つ哲学的に考える事を、頭の柔らかさから来ていると思っている。だから単純に物事を考える人を頭が硬い人であると勘違いするから、まともに話を聞かないようにしたほうがいいのかもしれない。現に雛はそうしている。そうすることで、彼は大きく頷いて、その続きを生き生きした目で語りだすからだ。
ダンボールの中に仕舞われていた分厚い専門書を取り出して、彼にずい、と背表紙を見せる。
「前にもあったよね。こういうこと。その時君に聞いたのは、確か「夢」だった気がする。……そこにある本を……そう、それ。右手の一冊目だけ取ってくれないか、どうも。ありがとう」
パンパンと良い音を鳴らして、その本から埃を追いやった。行き場をなくしたそれが勢いよく空中に舞って、カーテンの隙間から漏れる光に反射した。思わず口を塞いで、息を止める。くしゃみを連発しそうだ。
「さて。君はこれをなんだと考えるかい」
「……分厚い本。きみくんの好きそうな専門書」
「ふむ。僕は特別、これを好きでいるわけではないけれど。いわゆる、そういうことだ」
どういうことだ。
「雛ちゃん、きみはこれを分厚い専門書と言ったね。僕が、これをなんだと問いかける前から、君はそうイメージしていた。無意識のうちに。人間っていうのは、そういう生き物だ」
公隆が立ち上がる。右腕を取られて彼の隣に立つと、公隆はにっこり微笑んだ。スリ、と足元を撫でて通るのは、アーサー。金色の瞳をしたその小柄な身体を抱き上げる前に、するりと腕の中から逃げ出してしまった。彼を追いかけてリビングの扉を開ける。
目の前に、大きなステンドガラスが出迎えた。そこは廊下につながる空間であるはずなのに。周りは何色にも輝いて、夕陽が射し込む先に、美しく綺麗な色合いが足元一面に映し出されている。余りにも眩しくて、思わず目を覆う。
「君はここを廊下だと思っていた。だって四年も住んでいたんだから」
「でも廊下じゃない」
「けれど無意識の世界が人間の全てじゃないということは、アーサーが証明している。雛、これの意味がわかる?」
「全く」
「うん。さて、無意識の世界を作り出したのは誰だったかな。……そう、精神分析を得意としてきたフロイト先生は、この世界を《イド》と名付けている。立派な名付け親さ」
少しずつ瞳を開いていって、どうかここが元ある廊下でありますようにと願ってみた。そしてそうならないことも、心のどこかでわかっていた。
イドというのは、完全な無意識の世界のことを意味している。善悪や損得の認識を欠き、時間や空間のカテゴリーもなく、矛盾を知らず、ひたすら満足を求める盲目的衝動から成っている。従ってイドはいっさいの構造を欠いた混沌の世界と言えるが、イドにはイドなりの構造がある。
それが今いる空間を示しているのだろう。意識を以てして無意識の世界を継続させる。
不思議と雛には抵抗感がなかった。そして驚きも。この世界が当たり前だと思ったのだ。これは自分が創り出している創造の世界。ああ、ここか、とも思った。なぜだろう。わからない。
雛は、右足を一歩前へ踏み出してみる。真鍮のタイルが足裏に冷たさを感じさせた。目の前にある階段をゆっくりのぼって行って、段上に見えたのは聖母マリアの像。幸せの象徴である白い鳩が、バタバタと頭上のシャンデリアを揺らして背後に消えた。
「君の無意識下では、ここは教会だ。……雛ちゃん、もしかして僕と結婚したいの……痛っ」
急いで彼の元に戻り、戯言をつぶやく公隆の後頭部を叩く。まったくなんてことを言い出すのだ、この男は。
ジンジンと痛む左の手を握り締めて、牧師さんが立つ祭壇に指を這わせる。実際に見たことはなくて、テレビ上でしか知らないその上に、例の大学ノートの姿が垣間見えて、慌ててそれに手を伸ばす。
「このノートは一体なんなの」
「それは秘密だよ」
それよりも、と、彼は続けた。祭壇の段差に座りながら、白い鳩を目で追いかける。雛はなんとなく、彼の隣に腰掛けてみた。
「そういえば、雛ちゃん、覚えてるかい」
「なにを」
「八年前のこと。僕たちが出逢った頃だよ」
「まあ……七割ぐらいはね」
足を三角に折りたたみながら、ゆらゆらと前後に揺れてみる。それがまるでだるまのようで、それに気がついた雛は揺れるのをやめた。隣では、相変わらず鳩の姿を追う公隆がいる。そう、鳩はそこに居るのだ。
そして公隆も。
「その時に、夢について語った事があった」
「そんな会話したの、あんまり覚えてないな」
「物忘れが激しいもんね」
「八年前は、高校の時でしょ」
覚えてなくて当たり前だ。この歳になって、幼稚園の頃のことを思い出せと言われても、無理である。それくらいに、彼が言っていることは難解な問題なのである。彼の出した質問の答えなんて、いくら推理したって解けやしない。
「忘れんぼだな」
「うるさいな」
公隆が立ち上がった。祭壇の階段を降りて、雛が隣に立つまで、そこで待つ。彼は忠実な犬のように見せかけて、実は気まぐれな猫の性格を持っている。以前、雛と公隆が買い物に出かけた時に「お菓子を見に行ってくるよ」と言いながら、彼が持ってきたのはおつまみのサキイカだった。「やっぱこれにする」そう言って、カゴの中にポンと入れたのは、つい最近の話である。
公隆から数歩遅れて隣に立つと、公隆はレッドカーペットの上を歩いた。空中から花びらが舞う。無意識に、結婚のイメージを思い浮かべた雛の幻想が、そこにハッキリと写しだされているのだろう。二人と一匹だけの世界だけれど、別にそこが窮屈でもなかった。
やがて彼が、大きな門を両手で開ける。眩しい光と共に、目の前に広がったのは、鮮やかな草原だった。
「ここは僕の世界だよ」
一歩足を踏み出してみる。草の感触がくすぐったい。
「夢みたいだね」
「昔の話をしようか」
「うん」
そして二人は、草原の真ん中まで行くと、そこに寝そべった。青い空が、浮遊している雲を引き連れて、全体に広がっている。風に揺られて動く草を見ながら、彼はそっと口を開いた。
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