94、あるいはその譲歩が
その言葉を耳にした瞬間、アンナの中に猛火のような衝動が狂い猛った。怒り、嫉妬、憎悪、それら全てが混ざり合い、勢いを増す。ミネルヴァが戯れのように口にした詞は彼女にとっては決して看過しがたいもの。ただの冗談として受け流すことはできないし、ましてやその詞に頷くことなど決してできようはずもない。
理由は単純明快。誰かに、あるいは森以外の何かに忠誠を誓うことは森の魔女としての掟に大きく反する。ましてや自分達の先祖を迫害し、一度は滅亡に追い込みかけたクリュメノスに忠誠を誓うなど例え魂が腐っても絶対にありえない。
「…………っ」
しかし、決してそれがすべてではない。クリュメノスに、いや、この女が望んでいるのはアンナではなく弥三郎だ。幾ら人の感情には疎い彼女でもそれくらいのことは当然予見できる。だからこそ、なおのことそれが許せない。
この女、ミネルヴァが弥三郎を見る目線には確かな熱が篭っている。無論、それを自身の抱くような情愛と同列などとは決して思わないが、それでも情であることには変わりが無い。弥三郎がそれに答えなければ意味はないことは重々承知している、それでもこの目の前の美姫が弥三郎に対してそんな目線を向けていることそのものが許せないのだ。
彼、下方弥三郎はあくまで森の魔女の従者。他の何者にも仕えることはないし、ましてや、感情に応えることなど決してありえない。少なくともアンナにとってはそれが事実。揺るがしようない絶対の理といってもいい。
そんなアンナにしてみれば他人の従者に横から粉を掛けるなど言語道断の恥知らずだ。故に、この提案を了承することなど決してありえない。そのはずだった。
「――仔細をお伺いしたい」
「――え?」
「ほう? 従者の方は乗り気のようだな」
僅かな沈黙のあと最初に言葉を発したのは下方弥三郎だった。投げかけられたのは一つの問い、アンナにしてみれば全く意外な問いかけが弥三郎の口から発せられた。
まるでこの提案に対して、さものり気であるかのような、そんな返答だった。
「なに、扱いはここでのものとなんら変わりはない。まずは客将として妾に仕えてもらう、戦場において功を上げれば褒美も出すぞ」
「…………なるほど」
それだけ聞くと、弥三郎は考え込むように視線を伏せる。彼の心中で渦巻くのは疑問とそれ以上の困惑。言葉を引き出しはしたものの、その思惑が何一つとして読めないでいたのだ。
条件だけで論ずるならばむしろ寛大といって然るべきもの。東方辺領騎姫の旗下で武勇を振るう機会を得るなどオリンピアの戦士ならば一度は憧れる栄誉だ。その上、比較的に個人の裁量が許される客将として、しかも、戦功を上げれば褒章を出すというのだから破格の条件といってもいいだろう。
「…………」
「ようは、貴公のせいで紛失した聖女の首に代わる戦功を妾の元で上げよ、と申しておるのだ。何を迷うことがある」
それでも弥三郎は簡単には頭を縦には振らない。ミネルヴァが求めているのは弥三郎の武勇だけではなく、その忠誠。二君に仕えるのは武士としてあるまじきこと。本来ならば一顧だにすることすらなく切り捨てるべき提案だ。
ヴァレルガナとグスタブが求めたのは武勇であって忠誠ではなかった。だからこそ、弥三郎もその誘いに頷いたのだ。今回とは話が違う、ましてや、今生の主を目の前にして頷けようはずがない。
だが、それでも、首を横に振ることすらもできない。もし一考だにせず断ってしまえばそれこそ昼間の試合が無に帰してしまう。彼女の怒りを買うことなど今の彼等にはできはしないのだ。
「…………巫女殿」
「……っ」
詞を求めて、弥三郎がアンナへと視線を向ける。今にも泣き出してしまいそうな彼女に、決断を求める。状況は未だに逡巡を許してはない。この東方辺領騎姫は今答えを求めている、答えを出すならば今この場所で出すしかないのだ。
渦巻き荒れ狂う感情とはまた別にアンナとて現状は理解している。弥三郎が命懸けで勝ち取ったこの条件、それを活かすためにはどのような屈辱であっても甘んじて受け入れなければならない。そうでなければ全てが水泡に帰してしまう。弥三郎と彼女自身は無論のこと、このアウトノイア城とさらにはアルカイオス王国そのものの運命が再び危機にさらされることになるのだ。
ここで意地を張り通すことは百害あって一利なし。それは重々承知している。仮に主従揃って客将として仕えることになったとしても面従腹背に立ち回ればいい。もっともらしく仕えるふりをして許しを得たらそのまま離れてしまえばいい。そのこともよくわかっている。
この条件は僥倖と言ってもいい。主導権はこちらの手にあり、賢く立ち回ればそれで十分乗り切れる。
だが、問題はそんな道理ではないのだ。許せない、憎い、妬ましい。血に刻まれた怨恨と人間としての当たり前の感情が混じり合い、業火となって裡に蠢いている。これを切り捨てることは彼女には、いや、人の身であるなら誰にもできはしない。
「……少し、少しだけ、時間が欲しい」
「巫女殿……」
ようやく口にしたそれは最大限の譲歩。断腸の思いで下した苦渋の決断、すぐさま、胸をかきむしりたくなるような後悔が押し寄せてくる。
だが、もう決めてしまった。その上、口にしてしまった。ならば、もう取り返しようがない。どれだけ公開してももう遅い。言葉を重んじ、詞を支配するアンナには自分の言葉を覆すことは出来ない。
決して愚かな選択ではない。ここで申し出を断ればどうなるかなど火を見るよりも明らか、ここでにべもなく断ることこそが最も愚かな選択肢。
それは頭で理解してるが、それと心情とはまったく別のこと。折り合いなどつけられようはずもなかった。
もっともその譲歩ですらミネルヴァの心持一つで容易く覆されてしまう儚いものでしかない。あの御前試合での弥三郎の奮闘も所詮はその程度のものでしかなかったのだ。
殿上人とはそのようなもの。声一つで命を奪い、また、救いもする。彼等には刀も槍も必要ないのだ。
「よいぞ、差し許す。妾とて今すぐ功を上げよなどという無茶を言うつもりはない。然るべき時、妾が望むときにそなたらが妾の元におればよいのだ」
意外なほどあっさり、ミネルヴァは許してみせる。度量を見せたようでもあるが、彼女にしてみれば約定を取り付けさえすればそれで充分。
アンナと弥三郎は決して約束は違わない、それをミネルヴァは見抜いている。いや、二人の人格を見抜いている以上に、自身の慧眼を信じていた。
もっとも、今すぐは二人の力を必要としていないというのも事実。東方領騎士団が如何に精強とはいえ、強行軍の無理は確かに蓄積している。逃げるタイタニアへの追撃は今すぐにでも行いたいが、そうするわけにもいかない所以があるのだ。
兵站路の整備を考えれば一月、いや、二月は休息は最低限必要。ヴァレルガナ及びアルカイオス王国との折衝を考えれば、もう一月は欲しいところ。二人の力が必要になるのは、もっと後だ。
「……では、殿下、これにて」
「うむ、下がってよいぞ。用があれば呼び出す」
いずれにせよ、いつかはその時が来る、来てしまう。一度約定を交わしてしまえばそれを破ることは二人には出来ない。
今更、あり方も信念も揺らぐことはない。だからこそ、その運命は巡ってきた。森の魔女アンナと下方弥三郎、二人の未来には大きな暗雲が渦巻いているのだった。




