93、あるいはその条件が
弥三郎とアンナが再び東方辺領騎姫よりの招聘を受けたのはその日の夜のことだった。
城中では御前試合の興奮冷めやらず、そんななかで当初の予定通り、ヴァレルガナ方の論功行賞が行われようとしている。彼らが再び西塔の居室を訪れたのはそんな頃合だった。
「――巫女殿、ご安心召されよ」
自らの傍らから決して離れようとしない森の魔女に弥三郎はそう声を掛ける。折れた左腕をだらんと吊るし、脇腹には未だ血がにじんでこそいるが、その声には確かな力が満ちている。満身創痍、そう言っても過言ではない有様、しかしそれでも、その意気たるや軒昂そのものだ。甲冑こそ帯びてはいないが、腰には愛刀を佩び、全身には清澄な気が漲っている。例えこれから何が起ころうともまだ戦えると、その佇まいをもって示していた。
「……心配はしてない。でも、離れないから」
だが、それでもアンナは彼から離れない。あの御前試合で弥三郎が命を懸けたのは、主である自分のため。例えそれがすべてではないにしろ、自分もまた命を懸けねば誰よりも彼女自身が納得できない。
短い廊下には昨晩と変わらず精鋭の騎士達が配置され、護衛としての役割をこれ以上なく果たしている。もし、変化があるとすればただ一つだけ。彼らにとっての下方弥三郎という異民族の客将への認識、ただそれだけが明確に変質していた。
「――む」
弥三郎を視界に入れたその瞬間、居並んだ騎士達が手に持った剣を天へと掲げる。それは彼らにって最大の敬意を示す動作、皇族か直属の君主のにのみ向けられるものが弥三郎へと向けられた。
言葉はない、だというのに、あらゆる動作と佇まいから揺ぎ無い尊敬が漲っている。もはや、彼らにとって弥三郎はただの異民族ではない。自分達のなかでも最強にして最高の騎士であるアステリオ、それと引き分けた戦士。それだけで彼らにとって、弥三郎は特段の客人だ。
武、戦場に生きる彼等にはそれ以上の価値基準など存在しない。その基準で言うならば下方弥三郎は彼らにとっては最大の経緯に値した。
敬意に迎えられて、下方弥三郎とその主は廊下を進む。無論、それを理解できぬ弥三郎ではない。戦士としての敬意、強敵への尊敬とそれに裏打ちされた礼節。彼にとっても馴染み深いもの。
「――良くぞ参られた」
「うむ、アステリオ殿もお役目ご苦労」
廊下の終端、辺領騎姫のおわす居室へと繋がる扉、そこにに立ちはだかるのはクリュメノス帝国最強の騎士、アステリオ・イーグバウだ。天井にも届くであろう総身には昨夜と変わらず、豪奢な甲冑を身に纏っている。甲冑に付いた僅かな刀傷だけが昼間の激闘を物語っていた。
二人の交わす言葉には互いへの敬意が満ちている。例え命のやり取りをしても、お互いに殺意を持って刃を交わしたとしても、互いの武勇、その冴えへの敬意が一切揺らぐことはない。むしろ、互いに命を懸けて戦ったからこそ、両者の間には確かな友情が存在していた。
「…………姫君がお待ちだ」
「おう、ではまたな、アステリオ殿」
「…………また」
昨夜と違い、足止めをすることもなく、アステリオは二人を通す。無論、この二人が何故この場所に呼び出されたのか、彼でさえ知らされてはいない。しかしそれでも、この二人が、いや、下方弥三郎がミネルヴァを害することはない、とアステリオは信じている。あの御前試合にて己の右腕を犠牲にしてまで踏み込んだ、この武士は決して暗殺などという真似はしない。もしこの男がミネルヴァの首を欲するのならば、それは戦場での事。それも正面からの一点突破、戦の正道にのっとって挑みかかってくるはずだ。
そうして、下方弥三郎とその主たる森の魔女は再び東方辺領騎姫の居室へと足を踏み入れる。部屋の様子に昨夜との違いは無し、強いて違いを上げるとしたらこの場には昨夜と違い、ユスティーツァとアンナが居合わせていないという事だろうか。押し潰されるような厳粛な空気が二人を向かい入れた。
「――東方辺領騎姫殿下のお見えです」
これまた昨夜と同じ様に、部屋の中心に掛かった帳の前で二人は平伏する。昨夜目通りが叶ったとはいえ、異民族の客将と森の魔女に過ぎない二人では東方辺領騎姫とではあまりにも大きな身分の隔たりがある。本来ならばこうして居室に招かれることそのものが奇蹟といっても過言ではない。
「――面を上げよ」
数秒の後、響き渡ったその声が響き渡る。昨夜のようなアイラの声ではない、間違いなくかの東方辺領騎姫の声だ。しかし、昨夜やこれまでとは違う。声色そのものが物語る怒りと不興、何もかもを拒絶するような冷たささえそこには含まれている。
「…………っ」
「――巫女殿」
そのあまりの冷ややかさに魔女の心中を恐怖が過ぎる。僅かに芽生えたそれをすぐさま弥三郎が取り去る。この程度の怒りに動揺していては君主の傍近くに控えることなど不可能、ましてや戦場の狂気をいわんやだ。
東方辺領騎姫の怒り、それは確かに凄まじいが、それでも今の弥三郎にとっては微風にも等しい。
それ以上にここで物怖じするような軟弱さは弥三郎は持ち合わせていない。昼間の試合、その勝敗に文句があるのは観客たちだけではないのだ。
「フン、アステリオの金棒もまるで堪えておらぬようだな」
弥三郎の顔を一瞥すると、ミネルヴァは開口一番そう言い放つ。その顔には不機嫌さと怒りが同居し、彼女の美しさがその酷薄さをさらり強めている。大の男ですくみあがるような迫力がそこにはあった。
昨夜とは違い儀礼用の甲冑を身にまとい、椅子に腰掛けたその姿はまさしく覇者。この姿の彼女を東方辺領騎姫として疑うものはただ一人としていはしまい。
「いえ、アステリオ殿の武、まっこと見事なものでござりました」
それでも弥三郎は涼しげにそう返す。昨夜のような欺瞞はそこにはない。彼自身相対したあの騎士の技量はそれこそ身に染みている。決して口にすることこそないが、自身よりも武の冴えは上であると認めているほどだ。
「……当然だ。アステリオは妾が選んだ戦士ぞ、例え相手がオラーナ山の人鬼とて討ち取ってみせるわ」
その返答に少し気を良くしたのか、椅子にミネルヴァはわずかに表情を緩める。
彼女にとって自身への賛辞は当然のもの。生を受けたその時から栄誉と繁栄は約束されていたのだからそれもそのはず。しかし、自身の配下や作り上げた軍団への賞賛はまた別のもの。むしろ、それらこそが全てを手に入れた東方辺領騎姫の一番望みと言っても過言ではないだろう。
つまり、弥三郎の返答はある種ミネルヴァという将にへ向かっての最適解とも言えた。
「……まあいいわ、前置きはここまでぞ」
しかし、次の瞬間にはミネルヴァは表情を引き締め、言葉を切る。彼女にしては珍しく単刀直入な、歯にものを着せぬ話し方ではなく、胡乱な言い回し。ミネルヴァをよく知るものでなくても、違和感を覚えるほどにいまの彼女はらしからぬことをしている。
その原因は自身に向けた困惑と怒り。昼間の試合に水を差したことに誰よりも腹を立てているのは彼女自身だった。
「妾は昨夜、そなたが試合に勝ちを納めればそれで罪を差し許すといった。負ければその場でその首を刎ねるともな」
まるで罪を告解するような重々しさと死罪を告げるような厳粛さで彼女はそう言葉を紡ぐ。そこには自身の言葉を曲げることへの苦々しさが確かにあった。
当然、弥三郎たちにもそれ以上の緊張が走る。彼らにとっても彼女の言葉はなりよりも大きな意味を持つ。場合によってはここで命を散らすことになるのだ。緊張がないはずがない。
「――しかし、此度の試合の結果はどちらでもない引き分け。無論この結果はすべて妾の言によるものだ」
さも忌々しそうにそう言い切ると、瞼を瞑り、大きく息を吐く。不本意極まりないが、もう既に事を成してしまった以上はどう繕う事もできない。特に彼女のような立場にあれば直子と自身の言葉をたがえることは許されない。引き分けと定めてしまった以上は引き分けであり、あの試合の勝敗に弥三郎とアンナの命が掛かっていたという事実もまた揺るがしがたいものだ。
「ゆえにそなたらにそなたらの罪を減じ――」
ゆえに頭を悩ます。戦場にて幾人もの強敵を打ち倒してきた彼女をして初めてのこと。ここに至るまで東方辺領騎姫は一度として自身の判断や言を疑ったことは一度としてなかったのだ。
結論は決まっている。あの時引き分けと宣言したその時点で、もはや彼女には下方弥三郎の首を取るつもりはない。彼という戦士を惜しみ、欲したからこそのあの行動だったのだ。ここで殺してしまっては本末転倒、そして、それ以上に公平な勝負に水を差して、その上で裁定をくだすような恥知らずな真似は絶対にできない。
考えるべきは、どのような理屈を用意するか、ただそれだけ。ただ許すと口にするのは簡単だが、彼女の矜持と立場がそれを許さない。煩わしいことではあるが、それが彼女が戦場にて将であり、東方辺領騎姫であるための最低限の条件だった
「――命は助けてやろう。聖女の首も差し出さずともよい」
「……寛容なるお裁き、感謝の念に絶えませぬ」
寛容。弥三郎の言葉は確かに間違ってはいない。弥三郎の命を助命し、聖女の首もそのまま。これでは罪を減じたというよりは無罪放免だ。苛烈でしられる東方辺領騎姫にしては寛容に過ぎる裁定といってもいいだろう。
しかし、それを真正直に受け止めるような下方弥三郎ではない。相手が相手、かの東方辺領騎姫の言だ。警戒してしかるべき。いや、疑ってしかるべきだ。
「だが、それでも妾に嘘を吐いた罪は簡単には許しがたい」
「……左様で」
ようやく本題かと、弥三郎は歯噛みする。引き分けとなった非はあちらにあるとはいえ、それでも立場は此方が弱い。どんな理不尽な条件を押し付けられるにせよ、受けるしかないのが彼らの現状だった。
「そこで、だ。その罪を償うまでそなたらに妾の配下として働いてもらうことにした。どうだ? 悪くない条件であろう?」
そうして嗤うように、東方辺領騎姫は詞を紡ぐ。ただの気紛れと酔狂、その二つが彼らの運命をどうしようもないほどに絡み合わせたのだった。




