86、あるいは一振りの刀
アウトノイアの城の中庭は古くから練兵場としても使われてきた。騎士たちが武芸を磨き、互いに競い合うのがこの場所のあるべき姿。この城をヴァレルガナ家が預かる以前からこの中庭、兵士たちの汗と血が染み付いているのだ。
そんな練兵場の様子を眺めるのは彼の密かな楽しみだった。修練の様子を眺め、気合の篭った声や鋼の打ち合う音を聞き、在りし日に思いを馳せる。病に犯される前は毎日のように彼はそこにいた。城主であり既に老境に差し掛かった身で、よもや兵に混じって剣を振るうというわけには行かないが、それでも戦の空気を肺に吸い込み、身体に漲らせることは彼にとっては重要な行為だった。
この場所で数多のもの見てきた。兵たちの哀切や将の歓喜と苦悩、彼の愛するものはこの練兵場に集約されていたといっても過言ではないだろう。
されど、長い彼の人生の中でもこのような光景を目にすることは初めてのことだった。練兵場を見下ろすこの物見台にまで届くような人の熱気。兵士たちと騎士達しか立ち入らないはずの練兵場に今は溢れんばかりの数の人足が集まっている。奉公人から料理人まで、いや、ヴァレルガナのものたちだけではない。クリュメノスの者達の姿も多く見られ、今この城にいるすべての人間がこの場所に集っているといっても過言ではないだろう。その有様たるや、正しく戦場の如し。舞い上がる土煙と時折上がる喚声。欠けているのは血飛沫と死だけだろう。
病に犯され、もはや走ることすらできない身体には中々に堪えるが、それでもこの息吹はアレンソナ・フォン・ヴァレルガナにとっては昔懐かしいもの。それにこれがこのような場に立つ最後の機会であるのなら見逃す手はない。
突然のことであり。驚くべきことではあるが、それでもこのような機会を得られたことは僥倖だ。その裏に一体どのような意図があり、経緯があるかもアレンソナを含めたヴァレルガナ方には全く分からないが、それでも挑まれれば応えるのが武人というもの。あの東方辺領騎姫の前で自らの武芸を披露する機会など早々得られるものではない。
ヴァレルガナ方とクリュメノス方での御前試合。神前を目的として突如行われることとなったそれは瞬く間に城中どころか城下にまで知れ渡っていた。試合の形式は単純明快、互いに五人の代表を選び、各々の武芸を競い合う。勝敗を重んじるのではなく、これから共に戦うものとして互いの力量を把握しておくのはこのオリンピアでも珍しいことではなかった。
ヴァレルガナ方が選抜した五人の代表、その中には客将であるはずの下方弥三郎の名が確かに記されていた。
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鞘から抜き、刀身に目を走らせる。刀身には歪みなし、しかし、刃毀れは多い。それもそのはずこのオリンピアに至ってから、いや、至る前から数多の激戦を潜り抜けてきた彼の傍らにあったのがこの刀。数十人、いや、数百人を切り捨てた。甲冑を断ち、剣と鍔迫り合い、盾をも切裂いた。その切れ味たるやこのオリンピアには比肩するものはないだろう。
それでも劣化と損傷はま逃れない。弥三郎の技があるからこそ、ここまで持ち堪えたものの、並みの使い手と並の業物であればもう既に折れている。
傷が蓄積しているのは刀だけではない。彼の身に纏う黒塗りの鎧にも激戦の痕が刻まれている。今だその美しさと鈍い輝きを失ってこそはいないものの、隙間無く刻まれた刀傷、焼傷どれだけの激戦を潜り抜けてきたかを如実に物語る。ある意味、甲冑の傷と欠けた刃は下方弥三郎という武人の歴史といってもいいのかもしれない。
あとどれだけもつか、それは弥三郎にも分からない。しかし、これが己の振るう唯一の刃、ただ信じて振るう以外にはないのだ。
「――まあ、致し方あるまい」
簡単な手入れをして、鞘にしまう。できることといえば、きちんと血糊を拭い、油を差す程度のこと。本来ならばきちんと手入れをして、打ち直すべきなのだろうが、そもそもそのための道具がない。振るう刀を変えようにも、このオリンピアには他に彼の振るうべき刀は存在していない。剣も槍も、あるいは無手でも戦えといわれれば戦うが、此度はそうはいかない。戦場で戦うようには振舞えない、それはある種の束縛ではある。
御前試合、弥三郎にとってもそれは初めてのこと。戦場にて命のやり取りを行うことは慣れている。元服して以来、毎日のように戦場で戦ってきたのだ。彼にとっては日常そのものといってもいいだろう。
だが、やんごとなきお方の前で武を披露するなど、今まで考えたことすらない。自身の武芸を疑ったことは一度としてないが、それでも、緊張がないといえば嘘になる。培ってきた武、戦場にて学んできた全てがこの場に相応しいものであるかどうか、それは弥三郎にとっても確信を持てるものではなかった。
「――ヤサブロウ」
「――ご安心くだされ、この弥三郎、必ずや勝ちを収めまする」
それでも、決して負けるわけにはいかない。この御前試合の勝敗に掛かっているのは名誉だけではない、己が命、主が命、そしてこのアウトノイアの城の命運そのものがこの試合では決せられる。
全てがこれからの試合に掛かっている。彼の、下方弥三郎の武芸如何ではすべての段取りが狂う。だからこそ、決して負けられない。どれだけ迷うおうが、困惑していようとも、平素の如くただ勝利するのみ。下方弥三郎という武人の本分をただ貫くことが唯一の道だ。
「――うん、絶対に無事で帰ってきて」
あんなの呟いたその言葉は弥三郎に向けてのものであり、また祈りでもある。今望むことがあるとすればただ一つ。彼の無事だけ。勝利など望むべくもない、彼は勝つ。それは分かりきったこと、弥三郎はいつ何時でも己が言葉に反したことはない。その彼が必ず勝利するといった以上は、必ず勝つ。ならば勝利する。だからこそ、祈るは彼の無事、即ち無傷での勝利だ。
彼の傷は、己の傷、彼の死は己の死。弥三郎が己が命を迷いなく主に差し出すように、アンナもまた惜しみなく己が命を彼に預ける。彼のためならば己が命など惜しくはない、ゆえに恐怖はない。彼の敗北と共に死ぬのならそれで後悔はない。
「――おい、ヤサブロウ、いるか?」
「おう、ヴァンホルト殿、此処におるぞ」
どこか疲れた声をしたヴァンホルトが入り口から声を掛けてくる。彼の身に纏うのは磨き上げられた新品の鎧。彼もまた御前試合の代表として選ばれたものの一人、この新品の鎧は儀礼のためのものだ。御前試合とは両軍勢の親善を期すものであり、また、互いの武の修練を確かめるためのもの。全て勝ちを収めてはクリュメノスに恥を掻かせることになるが、負け続けては武門の名折れだ。
無論、弥三郎を除いた四人にはアウトノイアの城において選りすぐりの者たちが選ばれた。ヴァンホルトもその一人、こと武芸というならばこの男は城でも随一の腕の持ち主だった。
「開始は一刻後だそうだ。まあ、急な話のわりには余裕があるほうだな」
「正しく。お互い全力を尽くそうぞ」
事情を知る弥三郎らとは違い、ヴァレルガナ側は不意打ちのようにこの御前試合を提案された。いや、提案というにも相応しくない。一方的に押し付けられたこれは半ば命令のようなもの。断ることなど不可能だし、会場を用意するのはヴァレルガナ方だ。急遽、練兵場として使われていた中庭を用意したものの、急備え。みすぼらしいものとまでは言わないが、相応しいかといえば頷きかねる。
「まあな。俺とお前で二勝は堅いが、まあ、三勝はしときたいな」
「左様か。なれば、少々手を抜かねばな。あまり簡単に勝ってはあちらに恥をかかせる」
自信にみちたヴァンホルトに対して弥三郎もまた不敵にかえす。二勝の確約、圧倒的な自負と弥三郎への強固な信頼。これに応えずして何が武士か、弥三郎の中で燃え立つ炎は彼の戦意そのもの。二重の意味でこの御前試合には負けるわけにはいかなかった。
意外なことに、弥三郎の御前試合への出場に異を唱えるものは一人としていなかった。無論、クリュメノス側からの直接の指名ということもあって疑問を呈するものこそいたものの、彼が城の代表として戦うことは人もいなかったのだ。彼の武を誰よりも知っているのがヴァレルガナの騎士たち、あのラケダイモニアの戦、このアウトノイアの城での篭城戦を通じて彼の活躍を直接目にしてきたのが彼らだ。武芸の腕だけで判断しても、彼が御前試合に立つに相応しいだけの人物であることは自信を持って太鼓判を押せる。
ヴァレルガナ方が快く了承したのは、それだけが理由ではない。彼と彼の主はヴァレルガナ家にとって大恩ある人物であり、騎士たちにとっては共に戦場を駆け抜けた戦友だ。
御前試合とはいえ、共に戦えるのなら僥倖というほかない。彼らにしてみればむしろ、クリュメノスの提案は渡りに船。それこそ確実に一勝を納める機会を得たようなものだった。
「――では、参るとしようか」
平素の如く刀を腰に差し、弥三郎は意気揚々と立ち上がる。緊張が消えたわけではない、依然彼の肩にはあまりにも多くの人間の運命が掛かっている。だが、それは今回に限ったことではない。将として戦場に立ち続ける限りは多くの命を己が決断一つに負う事になっていく。
ことの発端は己が我侭とはいえ、なんのことはない、いつもの通り、無心に戦うのみだ。
「……ヤサブロウ」
だからこそ、その背中を見送ることは身を引き裂かれるような痛みを伴う。アンナにとってこの瞬間こそが最も苦しく、最も口惜しく、最も切ない。女の身では、森の魔女たるこの身では彼の隣に並び立つことは永遠に叶わない。彼にとって彼女は守るべき主であり、彼女にとって彼は従者。その関係性は永遠に変わることはないと思うと、胸が張り裂ける。
この愛が届かぬと思うだけで心が押し潰される。しかし、彼に愛に応えよと命じればすべてが終わる、その予感が確かにある。故にできることはただ一つ、届かずとも、報われずとも、ただ愛し続けることのみ。せめてその背中だけは失わずに済むように。




