85、あるいは此処よりの縁
炎の中で燃え尽きた、それは偽りであり、事実でもある。城下の火、ヴァレルガナ方が放ったそれは城下の半分を焼き尽くした。事前の仕込が上手く行き過ぎたために、火の勢いを制御し切れなかったのだ。故にあの炎の中で戦った者達の亡骸はそのほとんどが誰が誰かの区別もつけられず、野晒しのまま。あの激戦の中、聖女の亡骸もまた灰となっていても、それはおかしなことではない。
「――ふむ」
弥三郎のその方便に麗しの東方辺領騎姫はそう呟いたきり黙りこむ。けれども、悩んでいるのわけでも、考え込んでいるわけでもない。それはその瞳を見れば明らか。そこに浮かんでいるのは好奇と嗜虐の色。まるで獲物を見定めるような狡猾さで彼女は下方弥三郎を見詰めている。その様すら見惚れるような美しさを讃えているのは恐ろしくさえあった。
「――――」
それでも堂々と、弥三郎は彼女と向かい合う。ミネルヴァが何を知り、何を知らないのか、それは弥三郎の預かり知るところではない。そのどちらであるにせよ嘘を突き通す以外にはないのだ。隣にある主がため、共に戦場を駆けた輩のため、あるいは今此処にある己のため。例え相手がやんごとなきお方であろうとも、神仏の類であろうとも己を突き通す覚悟はできている。
いざとなれば、主だけでも無事に逃がす。それは揺るぎはしない。元より己が我侭、独断であるのだ。詰め腹を切って落とし前を着ける。それで全て済むとも思えないが、主の助命だけは取り付けることはできるはず。それも叶わないならば、後は野となれ山となれ。共に戦ったヴァレルガナの面々にまで累が及ぶ事を考えれば心苦しいが、事此処に至ればもはやなりふり構ってはいられない。それが武士というもの、主のためならば命ですらも惜しくはない。
「――残念よな、直に顔を見て一言ゆうてやろうと思っていたが、灰となったのなら仕方があるまいて」
そんな決意ですらも見透かしてか、あるいは嘘を嘘と見抜いた上で、東方辺領騎姫は彼女はそう言ってみせる。弥三郎からすれば拍子抜けではあるが、少なくともそこには一切の偽りの気配がない。
まるで知己を惜しむようでもあり、お気に入りの玩具を失った童女のようでもある。彼女にとって、かのコンテフルナの聖女は生涯初めて土をつけられた相手。同じく戦場に立つ乙女でありながら、対極に立つものとして彼女達はある種の因縁に結ばれていた。
だが、彼女がどう望んでいたとしてもそれがこのクリュメノスという軍の意思ではない。もし彼らが聖女の亡骸を手にすればどうなるかなど、考えるまでもない。討ち取られた敗軍の将の亡骸がどのような顛末を迎えるか、弥三郎とて幾度となく見てきた。それはこのオリンピアにおいても変わりはない。見せしめ、兵に民に、あるいは敵に己が武威と力を示すために利用される。
弥三郎とてそれは幾度となく行ってきたことだが、それでも此度だけはそれを許せなかった。理由などないただそれだけ、そして一度こうと決めれば決して退かないのが武士というものだ。
「だが、失態であったな、ヤサブロウ。その方が聖女の首を獲っておれば、此度の一番手柄だったものをのう」
「――は、面目次第もございません」
弥三郎とてなにもかもを方便で押し通せるとは思ってはいない、しかし、それでもこの場を乗り切れればそれでいい。これ以上長々言葉を交わしたとしてただ綻びを晒すのみ。炎に撒かれて首は灰となった、それで押し切るほかなかった。
「そう、失態である。その上――」
しかし、彼女はただ人ではない。数多の戦を潜り抜け、そのほとんどで勝利を収めてきた常勝の戦姫であある。こと嘘偽りを見抜くことに関しての彼女の慧眼は並大抵のことでは欺けはしない。
無論、此度の方便も同じこと。天啓ともいうべき直感が弥三郎の偽りを狂いなく見据えていた。
「妾に嘘を申すとはな。罪は重いぞ、シモカタヤサブロウ」
「――ッ」
正しく早業。女の身とは思えない技の冴えとともに、剣が抜き打たれる。その速さたるや弥三郎でさえもかわすことは能わなかったほどだ。
もし、そのまま振り抜かれていれば弥三郎の首ですらも打っていたはずのそれは、しかして、薄皮一枚を切り裂くにとどまる。切っ先に宿るは確かな怒りと好奇、返答次第ではこのまま首をはねるとそう言い切っているようなものだ。
「……巫女殿、お鎮まりを」
「っでも……」
「ここはお任せあれ」
首元に刃を突きつけられながらも、弥三郎の冷静さは微塵も揺るぎはしない。自身を守る為、詞を発しかけたアンナを視線と言葉で制すと、確りと刃と向かい合う。決して刀の柄に手を掛けることはしない、死を目前にしてもその身一つ、ただそれだけが彼の真の刃だ。
命をかける事、一命を賭す事は彼にとっては常の事。今更刃を突きつけられたとて恐れる事など何一つとしてありはしない。むしろより一層覚悟が決まるというもの、例えこのまま首を刎ねられたとてこの方便を貫き通し、主を守れるのなら自身の勝ちだとそう確信できる。かの東方辺領騎姫が見抜けなかったことがあるとすればその一点、下方弥三郎忠弘という武士の本質に他ならない。
「答えよ、何故妾に偽りを申した? 返答次第ではその首、此処で落とすことになるぞ」
「偽りなど申しておりませぬ」
返答次第では首を落とす、それは返答次第では此処で命を拾うこともありうるということ。無論、嘘と認めてしまうわけにはいかない。意地を張り通す、例え発した言葉は偽りであろうとも心胆を構え、佇まいを誠とすれば押し通せる。そう信ずる以外にはない。此処で退いては武士の名折れ。首を落とされようとも言葉を曲げることはしない。例え相手が東方辺領騎姫であろうとも、だ。
「ほう、妾の言に否と申すか?」
「否も何も偽りを申しておらぬと申し上げたまで。偽りと申されるのなら、その証をお示しいただきたい。でなければ某とて承服いたしかねる」
「――――」
偽りというならば証を示して見せろ、それは当然といえば当然の道理。如何に東方辺領騎姫といえども何の証もなく人を裁くことなどできはしない。ましてや弥三郎は彼女の家臣ではなく、ヴァレルガナの客将。本来ならば何か命を下すような権利は彼女は持ち合わせていない。それが軍の、戦の軍律というもの。それは、軍の頂点たるミネルヴァであっても、いや、頂点であるからこそ厳格であらねばならない。
将とは兵の模範たるもの、将の乱れは兵の乱れ。大将が行いを乱せばそれこそ軍の乱れとなる。それを何よりも理解しているのが、この東方辺領騎姫。彼女が物心つく頃から叩き込まれてき心得がそれ、上に立つものとして把握しておくべき第一がそれだ。決して曲げたことはないし、曲げようと考えたこともない。
確かにミネルヴァは弥三郎の嘘を看破して見せたものの、それ以上ではない。彼等が聖女の亡骸を隠した事の証左はないはず。もしこの場を切り抜ける策があるとすればただその一点のみを頼りにするかしない。
「どうしても得心なされぬとあれば致し方ありませぬ。某とて武士の端くれ、意地があり申す。あくまで偽りであると申されるなら――この首を落とされよ」
だからこそ堂々と弥三郎は死を賭してみせる。懐かしさえ覚えるこの女将軍には偽りは通じない、それは重々承知。なればこそ、こうして正面から一歩も引かずに向かい合うほかない。ただの開き直りではなく、命を掛けた開き直り。弥三郎はただそれだけのことに己が身命を託して見せたのだ。
「――ふっ、ほざいたな」
興が載った、そう言わんばかりにミネルヴァの頬が緩む。二十年の人生において彼女の言葉に正面から否と言ってみせた人物は一体どれほどいるだろうか。おそらくは三人とはいわすまい、ましてや身分も地位も低い異民族に刃向かわれるなど経験したのことない事態だ。
先程まで感じていた怒りを好奇が塗りつぶしていく。この異民族の将は命を懸けている、偽りを突き通すために己の首を差し出そうというのだ。そのような輩は今まで見たことも、聞いたこともない。男であれ女であれ、兵であれ将であれ、貴族であれ平民であれ、何人であっても傅かせてきたのが名にしおう東方辺領騎姫。その自分に抗うものがいる、業腹ではあるが、それが愉快でたまらない。
柄を握る指に思わず力が入る。このまま首を討ってもこの男はそれでもこのような目をしていられるか、それが確かめたくて仕方がない。事は簡単、後ほんの少し力を込めるだけでいい、それですべてを確かめられる。
無論、そうすればヴァレルガナとの間に大きな確執が生まれるであろうという事は百も承知している。それでも確かめずにはいられない。思うがままに振舞う、それが彼女という将のあり方。弥三郎が決して、この一線を退くことがないように彼女もまたそのあり方を曲げることは絶対にしない。
いや、あるいはだからこそ、彼女を押し止めるものがある。
「――その方、あくまでも偽りではないと申すのだな?」
「然り。この下方弥三郎、誓って嘘偽りなど申してなどおりません」
「ふ、豪胆な男よな」
その命を死の間際に晒しながらも、弥三郎には一切の焦りも、恐怖もない。それは隣にいるアンナにも感じられること。だからこそ、恐ろしい。彼女にできることはただ弥三郎を信じることだけ。こんなにも近くにいるのに、何もできない。彼を愛しているはずなのに、なにもできない。ただその事実が歯痒く、哀しく、どんな辱めよりも彼女を打ちのめす。森の魔女、常人には決して扱えない智慧を受け継ぎ、詞を手繰り、万象一切を差配するはずの彼女は、この場において全くの無力だった。
けれども、運命はただ進む。彼女の思惑や想いはただの波紋、その流れを変えることは誰にもできはしないのだ。
「では、その誠。妾の眼前にて証明してみせよ」
「――なんと?」
「機会を授けようというのだ。なに、難しいことはない、ただ勝てばよいのだ、平素の如くな」
それは正しく気紛れというほかない提案だった。アルカイオスの黒雷とクリュメノスが東方辺領騎姫の会談、そして、その後に行われたそれは後世において北の壱等星の如く栄え輝いている。
黒雷公の御前試合、伝説となったその出来事は所以、それはかの東方辺領騎姫と下方弥三郎の最初の勝負でもあったのだ。




