80、あるいは弔い
その亡骸は焼け残った家屋の一つ、誰の目にも付かない隅の部屋に安置されていた。埃に塗れ、ろくに手入れもされず半ば物置として扱われていたその部屋にあってなおその身体はその輝きを僅かたりとて失ってはいない。
ベルナデッタ・オルレアーナ。コンテフルナの聖女と呼ばれた彼女の亡骸はこの場所に確かに安置されていたのだ。
死後二日、下方弥三郎によって穿たれた胸の穴は彼女の死をこれ以上ないほどに証明している。彼女は間違いなく死している、誰が見ようともそれははっきりしたこと。否定しようがない厳然たる現実だ。
だというのに、奇跡はまだここに在る。その金色の髪は色あせることすら無く、白磁のような肌には染み一つ浮かばず、生者と同じだけの息吹すらも感じさせる。既に固まり岩のようになっているはずの体でさえ、生前の柔らかさとしなやかさを失っていない。まるで、眠っているような、ともすれば今にも息を吹き返しそうな、そんな錯覚さえ覚えてしまう。瑞々しい、二日という時は彼女から何一つとして奪い去ることはできないでいたのだ。
だが、それでも彼女は確かに死している。それは誰よりも、彼女を自ら手にかけた下方弥三郎が理解していることだった。目の前で未だに奇跡を宿すその躯を前にしても、この手に感じた切っ先の手応えは確かなもの。彼の刀、村正の刃は確かに彼女の心臓を貫いたのだ。
命を奪う生々しさと快感、そして言葉にできない寂寥は片時たりとも、忘れたことは無い。たとえ相手が年端のいかぬ女子であってもそれは同じこと。
「——巫女殿、お頼み申す」
「……わかった」
静かに決意を込めて弥三郎は自らの主へと声をかけた。暗い蝋燭だけをともしたその部屋には下方弥三郎と森の魔女だけ。アラストリア傭兵団の面々でさえこの場に立ち合うことは許されてはいなかった。
もし今まで数多に討ち取ってきた命との違いがあるとすれば彼女の首を取ることはしなかったこと。女子とはいえこの聖女は戦場に立ち兵を率いた立派な将。その首を取ることは名誉であり、掲げて誇るべき大手柄に相違ない。本来ならばヴァレルガナの面々に隠し立てなどせずに、後々の論功行賞の場で論ぜられるべき事柄だ。
それをしなかった。彼女の首を刎ねることはせず、手柄とすることをよしとしなかった。迅速に行動すべき戦場において彼女の亡骸を丁重に扱うようにとさえ命じた。城に痛撃を与えた怨敵をこうして二日もの間隠し通してしまった。
それこそなにを疑われたとしても弁明のしようさえない。裏切りでこそないが、不義理であることには違いないのだ。今からでも彼女をヴァレルガナに差し出すことは何一つとして間違ってはいない。
それは理解している。自身のやっていることが間違っているなど百も承知だ。今更問うことがあるとすればただ一つ、それが何故であるかということだけ。これだけの大それた事を働き、味方にまで聖女の遺骸を隠し通し、こうしてこの場に森の魔女までもを巻き込んだ由縁のみ。
『…………冥府の王に奉る』
祈りの言葉が静かに響いた。呼びかけるのは死と豊穣を司る神。儀式においても名を秘すその神は使者を正しく導く役目をも持つ。それに詞を届け、魂の安寧を奉ることは、森の秘奥の中でも最も重要な死者への弔いの儀式の一部。つまり森の魔女の為そうとしていることは鎮魂と葬儀。この聖女、自身の一族を迫害した巨神教の聖女を森の魔女は尊厳を持って弔おうとしていた。
当然彼女とて本意ではない。弥三郎に頼まれなければ、こうして儀式を施すことなど考えもしなかっただろう。
城に帰り、弥三郎に出迎えられ、心から安心した。あのヒサヒデと呼ばれたクリュメノスの軍師の言葉の棘、その傷の痛みを忘れるほどの歓喜と安堵が心を満たした。それは間違いない。そうして落ち着けると思った矢先に、弥三郎から頼み込まれた。自らが討ち取ったあの聖女、その葬儀を執り行ってもらいたいと。
何故と問うより先に、真っ直ぐに此方を見詰めるその瞳の真剣みに気圧された。まるで戦場に立ったときのような力強い覚悟の据わった視線に、否とはいえなかった。弥三郎が仮とはいえ主たる自分にそれほどの心構えで頼み込むのはよほどのことであると察するのは容易いことだったし、なによりもその他のみを断ることで彼を失望させることがどうしようもなく恐ろしかった。
だが、それでも疑問が消えたわけではない。何故この聖女が、この聖女だけが特別なのか、その問いが沈めた心中では未だに渦巻いている。彼が決して死者を蔑ろにする人間ではない事はよく理解しているが、それでもこの聖女への扱いは丁重にすぎる。いつもなら両掌を合わせて短い祈りを呟いて終わりだというのに、今回ばかりはこうして自分に葬儀まで依頼した。その由縁がまるで理解できない。一体、彼女の何が弥三郎にとって特別だったのか、それはアンナにさえ確かではなかった。
『――この者の魂を安らかなる眠りへと』
尋ねるより先に頭を巡らせてみても、そのことについて考えようとすると心が乱れて、簡単な詞すらも紡げなくなる。
この聖女、この女が弥三郎にとって特別であるという事がどうしようもなく疎ましい。憎いといってもいいかもしれない、この女が弥三郎にとって特別であるという事実がそのものがどうしようもなく許せない。今まで幾度となく感じていた感情の中でも一際大きく、膨れ上がったそれは一度でも認めてしまえばもはや手に負えないもの。幾人もの英傑や偉人を破滅させてきたその感情の名を嫉妬といった。
『肉は森へ、心は空へ、魂は御許へ』
直ぐにでもこの紡ぐ詞を変えて、この未だ奇蹟を宿す亡骸をとことんまで辱めてしまいたい。やり方は知っている、今までは口にする事を考えたことすらなかったその詞。神聖さすら感じさせるこの肉体を腐った肉と骨の塊にするくらいただの一小節で充分だ。
だが、それは駄目だ。感情に任せて言葉を紡ぎ、この亡骸を辱めればきっと彼はそれに気付く。失望か、怒りか、あるいは他の何かか、いずれにせよそれだけは耐えられない。彼に、下方弥三郎に失望されるくらいならば自ら命を絶つほうがいい。
だから今は何もかもを奥底に沈める。疑念も、もっと薄暗く燃え立つような何かも、全てを今はそこに沈めておく。いつか噴出すにせよ、あるいは向き合わねばならないとしても、今はその時ではない。
『神よ、大いなる冥府をすべる偉大な王よ。どうか、慈悲を』
静かに、だが、厳かに祈りは続いていく。如何なる感情を秘めているにせよ、森の魔女は己に課された義務と役割を見失うことはない。
「―――」
弥三郎もまた静かに目を閉じ、心中にてその冥福を願う。なぜここまで彼女を、コンテフルナの聖女を特別に扱っているのか、それは彼自身にも答えが出せていない。
彼女の見せた最後の戦い。敵わぬと知りながら最後まで戦おうとした彼女の姿勢に敬意を抱いたのか。あの炎の中で抗い続けた彼女の姿に自身の姿を重ねてしまったのか。あるいはその両方か、どちらでもないのか、弥三郎本人にも定かではない。
どちらにせよ、分かっていることは一つだけ。彼女の死を安寧なものとすることを、下方弥三郎は望んでいた。ただそれだけは間違いなく確かだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アウトノイア城での祝宴は夜が深くなるころまで続けられた。ヴァレルガナ方の用意した料理と酒は大よそ一晩でその大半が平らげられ、城下と城内には酔いの回った兵たちの乱痴気騒ぎはその間中絶え間なく続いた。
折角掃除した城内はたった一夜で荒れ放題。幾つかの調度品が壊れ、床に倒れこんでいるものすらいる始末だ。整然としていた城内はもはや見る影もない。普段ならばアレンソナか、あるいはグスタブが一喝すればそれで兵たちは静まるが、今晩ばかりは無礼講だ。宴会には当然のことながら、東方辺境領騎姫の護衛藻混じっており、客人であるはずの彼らはこのアウトノイアの城を我が物顔で満喫していた。
それでいて、城のものたちの心証を害さないのはクリュメノスという国の国柄ゆえか、それとも彼らを率いる将の気風ゆえか。ある種清々しくさえある彼らの豪放磊落さは、ヴァレルガナの騎士たちにとっても決して不快なものではなく、むしろ、共感さえも覚えるものだった。
しかし、兵たちはそれでよくとも城の首脳陣と将たちはそうはいかない。酒に酔って諍いでも起きれば後でどのような問題になるか分かったものではない。祝勝の宴といえば聞こえはいいが、彼らにとってこの一矢は正しく針の筵。気の休まる暇など一瞬たりともありはしなかった。
そんな一夜もようやく終わり。兵たちはみな眠りに付き、城にはようやくの静けさが訪れている。東方辺領騎姫の入城。後の歴史書に確かに記された事実はただそれだけ。実際にはそれだけの喧騒がそこには伴ったが、紙に書かれた文字は語ってくれはしない。ただ、この時残されたヴァレルガナ方の公文書、そこに記された目を覆わんばかりの出費がこの日の彼らの心痛を確かに示していた。
静まり返った城内において緊張の緩まぬ場所がただ一箇所のみある。城の最奥、平素であれば城の姫君たるユスティーツァが座すべきその場所に今、物々しい護衛が並び立っている。煌びやかな軍装には赤い竜、クリュメノスの紋章。彼女の引き連れてきた護衛の中では最精鋭たる彼らが守るのは一つの扉。一人残らず柄に手を掛け、許しもなくここを進むものは否応なく切り捨てる構えだ。
それだけ殺気立った警備も此処におわす者と比較すれば不足といってもいいだろう。この扉の先におわすは東方辺領騎姫、その人。この城において彼女の寝所として相応しい場所はこの部屋のみであった。
豪奢に飾り付けられた室内では陣から持ち込まれた騎姫の私物が元の趣を塗り潰している。そこに待機するのは彼女の侍女達。それぞれ民族から出自に至るまで共通点一つないものの、その誰もが息を呑む美貌を讃えているのは偶然ではあるまい。かの東方辺領騎姫はその侍女までもが一流揃いであった。
その一室、王都の後宮もかくやという寝室に不相応な人物が二人。自らの居室を明け渡し、西塔に移った筈の城の姫ユスティーツァとその仮初の従者アイラもまたその場所に招かれていた。




