78、あるいは麗しの
その行列に加わることは下方弥三郎にとって全くの不本意であった。彼が仕え、忠誠を尽くすべきはただ一人、森の魔女だけ。このクリュメノスの軍勢には恩も義理も道理もない。だというのに、まるで配下のように軍列に加わり、こうしてアウトノイアの城に入城を果たした。これを不本意でなくて何という。例え心中に一点の曇りすらなくとも、不忠とみられかねない行動を取らなければならないというのは痛恨の極みだ。ましてやそれが強制された事なれば尚更のこと。自分一人で済むなら、断固として拒否しただろう。それこそこの場で詰め腹を切ることも辞さない構えだった。
しかし、なお質が悪いのは弥三郎に行列に加わるように”求めた”のは、まさかというべきか、やはりというべきか、松永弾正ということ。道理や義理、武士の道を理解していないわけではない、それら全てを理解したうえでそれを平気で利用してのけるからこそ松永弾正という男は恐ろしいのだ。弥三郎の心中など当然掌の上、それは弥三郎とて承知している。
だからこそ、ここで意地を突き通すことは愚かででしかない。今は隠忍自重の時、幾ら腹立たしくとも涼しい顔をして事を遂げるのみだ。
気掛かりがあるとすれば、後から帰城する主のこと。こちらの腹積りは伝わっていると信じているが、だからといってそれでよしとすることはできない。誰が許したとしても弥三郎自身が許さない、主君に対して礼を失したとあっては嘗ての主に顔向けできようものか。
せめて帰りを迎えようと、城門の裏側にて行列を避け、静かに控える。
耳には否応なく進んでいく行列の喧騒が響き、いつしかその心地よさに身を委ねていた。かつて、大軍勢の行進するこの喧騒と迎える側の慌しい様。日の本にて織田家に仕えていたころはこれが彼の日常だった。戦に次ぐ戦、一つところには長くは留まらず、命に従い、数多の敵を切り伏せてきた。それが懐かしく感じてしまうのが、どこか悲しく嬉しくもある。
これだけの軍勢を率いて戦うことに憧れないといえば嘘になる。あの松永弾正の誘いに乗ればこれだけの軍勢を差配し、万軍を率いて天下を揺るがすこともできるかもしれない、そう考えたのも確かだ。
けれども、芯は揺るがない。武士としての本分、彼の人生において絶対であるそれは真っ直ぐ一つを差し示している。すなわち忠道あるのみ、他の全てを捨て置いてでも主への忠節だけは決して曇りはしない。
「――旦那! 無事だったか!」
「む、ロベルトらか。見て通り傷一つござらんぞ」
「へへ、そうじゃなくっちゃな」
思考を遮ったのは友の声。いつ間にか行列も終端に達していたらしく、周囲にはアラストリア傭兵団の面々が集っていた。同じく戦友たち、ネモフィ村での賊との戦いに始まり、わずか数ヶ月にも満たぬ間で幾多の戦場を駆けた彼等にとって弥三郎の無事は一番の大事だった。
「しかし、旦那が軍列に加わってるのは驚いたぜ。まさか宗旨変えかい?」
「馬鹿を申すな。恩も返さぬうちにそのような真似をする不埒ものに見えてか」
「ほ、ほんの冗談だって! なに、旦那が宗旨変えすんならついてくのも悪かねえかと思っただけさ」
背筋が凍るような弥三郎の怒気を受けて、ロベルトはすぐさまそう言葉を返す。無論、ロベルトとて彼の忠節ぶりはよくよく理解している。続く言葉にも嘘はない。傭兵団を率いる長として、自分達を差配する章を見極める慧眼は鍛えてきたつもりだ。この異民族の騎士にはそれだけの価値があると確信しているからこその言葉だった。
「……いや、すまぬ。思うところあってな」
だが、問題は弥三郎の考えの通り、軍列に加わるという行為が持つ意味。そも、森の魔女と二人、陣中に残されたことと合わせて、あの行列に加わったことはともすれば寝返りともとられかねない。ロベルトの言葉の通り、宗旨変えといわれても仕方がないだろう。
それも全て松永弾正が思惑の通り。弥三郎に誘いを掛けておきながら、結局のところをそれに頷かざるをえない状況を創り上げようとしている。それを弥三郎が察知することでさえ理解したうえで、避け様のない手段をもって弥三郎を追い込もうとしているのだ。
弥三郎からすれば自身にそれほどの価値があるとは到底思えないが、腹立たしいものであることは確かだ。ロベルトに向けた怒気も久秀に対するものであり、この策謀を打ち破る手立てを持たぬ自分自身に向けたものでもある。分かっていながら動けぬというのは些か以上に、下方弥三郎というものの府の性に合ってはいなかった。
「あー、魔女の嬢ちゃんはどうしたんだ? 軍列には混じってなかったが……」
「うむ。後からあの姫御の世話衆と共に参る手筈になっておる」
「……そうかい、まあそりゃそうか」
あの東方辺境領騎姫やコンテフルナの聖女を見ていると女子が戦場に立ち、軍を率いる事を当たり前のように思えてくるが、実際には彼女達こそが特別なのだ。本来ならば、女子が戦場に立つこと、軍に加わることなどありえない。精々が貴人の世話衆が限度だ。
「……それで旦那は待つので?」
「おうとも。某にはかまわずに行くがよい」
「へへ、そうはいかねえさ。俺たちの大将は旦那だからな」
どこか楽しげにそう言い放つとロベルトらは弥三郎の周囲に屯す。城に集った全ての者たちの関心が東方辺境領騎姫とクリュメノスの軍勢に向いている中、ただその一角だけが違っていた。確かな信頼と揺るがしようのない絆、例え短い間で培われたものとはいえそこには誠がある。策謀と謀略でさえそれを犯すことはできない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
出迎えを終えた諸将はそのまま謁見の間へと移動した。元来からの客賓を向かえる手筈がそうなっているとはいえ、このアウトノイアの城において東方辺境領騎姫を迎えるに相応しい場所はそこしかない。元より城の中でも最も贅を凝らした謁見の間にはヴァレルガナ家の獅子のタペストリーまでもが持ち出され、置かれている調度品の数々も全て隅々まで磨き上げられている。
そして、最大の違いが一つ。玉座、本来ならば城主たるアレンソナが座すべきその場所には今は誰も座してはいない。本来ここにあるべきではないクリュメノスの国旗とアルカイオスの国旗の間にある玉座は迎えるべき誰かを待っていた。
「辺境領騎姫殿下、御入来!」
そうして、此度の玉座の主人が現れる。入来を告げた音声はあの行進に際してのものと同じもの。その声だけで居並んだ歴戦の騎士たちに緊張が走った。
「――あ」
その緊張でさえ、続いて現れた辺境領騎姫の前では霞んでしまう。龍馬から下馬し、地にあってなおその美しさと呪いのような気品には一点翳りすらない。むしろ、その立ち姿だけで正体さえも失ってしまいそうなほどの完璧さがそこにはあった。
居並んだ騎士たちの前を優雅さを崩さぬまま通り過ぎ、さも当然のように彼女は玉座へと腰掛ける。豪勢な玉座が途端に見窄らしいものへと変わったような、そんな錯覚さえあった。
「――面をあげよ」
これまたさも当然のように彼女は諸将へと命を下す。それから一泊の間すらなく騎士たちは面を上げた。
自分たちはクリュメノスの配下ではない、そんな反感を抱くこうとさえ思えないほどの自然さがそこにはあった。人を従え、人を率いる、そのために全てが整えられたのではないか、そうとさえ思えた。
「うむ、顔がよく見える。みな、良い面魂よな」
騎士たちが顔を上げ終えると、辺領騎姫は童女のような無邪気さでもってそう言葉を発した。それでいて一切威厳を損なうことがないのは彼女自身の才覚ゆえだろう。
「妾がクリュメノスが東方蛮域王にして辺領騎姫、ミネルヴァ・イスカリア・ガエルナエ・アロム・クリュメノスである。なに畏まることはない、皆楽にせよ」
「――は!」
鈴の音のような声が謁見の間に響き渡たった。居並ぶものたちが自分に敬意を捧げ、恐れ畏まる。そんな光景は彼女にとっては珍しいものでもなんでもない。生れ落ちたその時から向けられてきたものに今更特別な感情などない。ただ東方辺領騎姫として振る舞い、言葉を発する、ただそれだけのことだった。
「まず、此度はヴァレルガナ衆が働き全く見事であった。聞けばかのラケダイモニアの戦においても敵の総大将を見事討ち取ったというではないか。その方らの奮闘がなければ我等とて間に合ってはおらなんだろうよ。褒めて遣わすぞ、皆の衆!」
いっそ傲慢にさえ思えるその言葉がある種爽快でさえある。クリュメノス最強とも言われる東方辺領騎士団を率いるあの戦姫が自分達を賞賛している、たったそれだけのことがありとあらゆる反感を吹き飛ばしてしまう。
実際、ミネルヴァの言葉には一切の嘘はない。ヴァレルガナ方の奮戦がなければクリュメノスがこの地へと参着するよりも先に城は陥落し、救援すべき目標を彼らは失うことになっていただろう。
だが、嘘ではないものの、そこには一つ間違いがある。たとえアウトノイアの城が既に落とされていたとしてもクリュメノスは怯むことすらなかったろう。それならそれで構わないと、城を自分達で落としていたはず。結局のところ彼等にとっての違いはどちらが手間が掛からないか、たったそれだけ。城を落とす手間が省けただけありがたい、というだけだ。
「……なんとも恐れ多いお言葉。我らヴァレルガナ、辺領騎姫殿下の御恩情、決して忘れは致しませぬ。それと僭越ながら一つ、お尋ねしたい儀が……」
それを理解した上で、なおも全てを呑み込んで病を押して列席した城主アレンソナがそう返す。森の魔女が不在の間に俄かに病状が悪化し、立っているのもやっとという有様だが、それでも誇りと意地で凄まじい苦痛を億尾にも出してはいない。
それにどうしても問わなければならないことがある。それを問わずに死ぬわけにはいかない、そう思うほどに。
「よいよい! 殊勝さは好きだぞ! だが、妾のことは姫殿下か姫様でよい! どうにも堅苦しいのは据わりが悪いのでな」
「――は……では、姫殿下と」
「して、妾への問いとは? 今は気分がいい、どんな問いにでも答えてくれようぞ」
「……クリュメノスからこのヴァレルガナの地までは少なくとも一月は掛かります。いかにしてこの地へと、これだけ早く参られたのかと……」
「ほう! そうかそうか! それを問いたいか! よいぞよいぞ! 妾も語り聞かせたくて仕方がなかったのだ!」
喜色満面、そういって相違ないだろう。アレンソナからそう問われたその瞬間、ミネルヴァはまるで少女のような、花も恥らう笑顔を見せた。それもそのはず、今だ御歳十九歳、少女の幼さと辺領騎姫としての威厳がそこには共存していた。




