77、あるいは呪いにも似て
辺境領騎姫の出迎えにはその準備と同じく、城下に帰還した民草の大半が動員された。焼け落ちた自分達の家を嘆く暇もなければ、寄せ集められた死者達の身元を確認する余裕もなかった。
城へと続く大通り、その道端で平伏し、只管待ち続ける。彼らに与えられた役割はそのようなもの。咳一つ、身動き一つ許されない。子供から老人まで、誰もが一様に揃って緊張の極みにあり、戦の終わったはずのアウトノイアの城下にはそれ以上に張り詰めた空気が充満していた。
国王を迎えるとしても、これほどの厳粛さを求められることはまずあるまい。相手はかのクリュメノス帝国、この入城に掛かっているのはヴァレルガナの運命だけではなく、アルカイオス王国全体の運命もすらも掛かっている。騎士や兵士たちだけではなく、民草とて無関係ではいられない。この異常なまでの緊張はある意味当然のこととも言えた。
城中に繋がる橋と最後の守りともいえる正門には式典用の軍装に身を包んだ騎士たちと城主の嫡子たるアレクセイが険しい顔をして並び立つ。病身の父に代わり、辺境領騎姫を出迎えるのが彼の役目。若輩の身に重過ぎるほどの大任を仰せつかってなお毅然とした態度は揺るぎはしない。
その傍らに控えるは直前までこの歓迎を差配していたグスタブ翁。幾ら熱意があるとはいえ、未だ若輩のアレクセイ一人にこの大事を任せるわけにはいかない。城随一の知恵者の補佐は必須のものだ。
この場に集っているのは城の騎士と兵士、その半数。激戦を戦い抜いた千余りの兵が城内にて待機している。無論城内での歓待のためという側面も大きいが、それ以上にもしものときの用心として彼らは城にて控えている。この歓待は辺境領騎姫への礼でもあるが、それと同時にヴァレルガナという戦力は決して侮ってよいものではないとクリュメノスへと誇示するための場でもあるのだ。例え、それが取り繕ったものであったとしても武門の意地を示さなければヴァレルガナとて立つ瀬がない。
この入城は、矛こそ交えぬものの、また一つの戦でもある。準備は万端整っている、後は待つのみ。武門の端くれとして恥じぬだけの矜持はある。
龍の角笛、入城の合図であるそれが城下に響き渡ったのは太陽が中天へと昇るそんな頃合だった。約定の時間よりは僅かばかり遅い。まるで準備万端整え待ち受けるヴァレルガナ方を焦らすように、彼らはゆっくりと入城を始める。その数にして五千、半数を城外に残して尚、ヴァレルガナ方の五倍もの兵数を誇っている。彼らがその気になれば瞬く間に城が落とされるのは必定だろう。
「――帝国辺境領騎姫殿下、御入来!!」
続けて響いたのは先ほどの角笛の音にも負けぬ大音声。城下の隅々まで響き渡るようなその声は先頭を行く辺境領騎姫の側近が発したもの。身の丈八尺はあろうかという大丈夫、身に纏った龍の紋章の鎧兜といい、姿に恥じぬだけの迫力と威厳を備えている。
その背後には辺境領騎姫の護衛と思しき騎士の一団。一目でその誂えの見事さを感じさせながらも、決して実用性を欠く事のない装束は、かのクリュメノスの先陣を担うに相応しいもの。装束だけではない、辺境領騎姫の護衛というだけあって正しく精鋭揃い。その実力、積み重ねてきた武の研鑽は民草から見ても明らかだった。
そうして、彼女が現れる。先頭を行く大丈夫、続く勇壮な護衛騎士団、その威厳と迫力すらも彼岸の彼方へと押しやるような衝撃。一目見たその瞬間に思考すらも放棄したくなってしまうような威厳と力が居並んだ民草を正しく心中から平伏させた。
「―――あ」
呼吸さえも忘れてしまったのは一体誰であったか、あるいは誰でもなくこの場に居並んだ全てが息をすることすらも忘れてしまっていた。
それほどまでに美しかった。龍馬ともいわれる赤く輝く毛並みの駿馬、その馬上におわす辺領騎姫、その余りの美しさになにもかもが己さえも見失う。
国一つに値するといわれる龍馬の毛並みよりも尚、光を帯びる赤い髪は雷神の落胤とも伝わる帝族の血縁にある証左。身にまとった絢爛豪奢な甲冑さえも霞む麗しき美貌はある種の威厳すらも湛えている。凛々しさを体現したようなその瞳、真っ直ぐと城へと向けられたそれには燃え上がるような光が、確かに宿っていた。
「――へ、平伏!」
僅かに遅れてヴァレルガナ方の騎士が民草に呼びかける。本来ならば直視することすら礼を失するような相手、あまりの美しさに心を失っている暇などない。
まさしく皇女として、クリュメノス帝国最強の軍を率いる総大将として、それに相応しいだけの才覚を現われたその瞬間に示す。それだけのものを彼女は持ち合わせている。極めて不敬で不遜の極みではあるが、女神でさえも裸足で逃げ出すのではないか、そう思えるほど東方辺境領騎姫は美しい。
彼女はゆっくりと、それでいて確かな足取りで大通りを進んでいく。その立ち居振る舞いには一部の隙もない。風に靡く髪も、鏡のように磨き上げられた鎧に反射する日の光でさえも人を魅了するよう。もし適うのなら顔を上げ、その尊顔を直視したい。そうできるのなら命さえも惜しくはない誰もがそう思った。
ありとあらゆる敬意と憧憬を一身に集め、それでも尚悠然と辺境領騎姫は城へと進む。実際には一刻にも満たない時間に過ぎなかったはずのその行進はその場に集った者たちにとっては一生にも等しく感じられた。
「――面を上げよ」
そうして涼やかな声がアレクセイの耳に響いた。決して張り上げたものでもなければ、先ほどの大丈夫のような大音声でもない。だというのに、不思議なほどに明朗に彼女の一声は響き渡る。城下の隅々へ、あるいは民草の心の奥底にまで反響していく。
王の声。万民を統べるに足る才覚とそれに相応しいだけの揺るがしようのない自負と自信が彼女という存在をより一層際立たせる。
耳にしたものが思わず聞き惚れ、思考すらも放棄してしまうようなほどの威厳と魅力。こうして言葉を掛けられるだけで無条件に身を委ねてしまいたくなる、ある種の呪い。彼女の声はそんな力を帯びていた。
「何をしている? 面を上げよと命じたのだぞ」
「――は、は!」
思わず反応が遅れたアレクセイに対して馬上からそう声が掛かる。そんな言葉にすら呪いじみた威厳は備わっていた。
「――クリュメノス帝国辺境領騎姫、ミネルヴァ・イスカリア・ガエルナエ・アロム・クリュメノスである」
静かでありながら明朗でなおかつ麗しいその名乗りはまるで宣戦布告のように、その場に集った全てへと届き渡る。戦いと知恵の女神、オリンピアにおいて広く信仰される神の名すらも彼女本人の前では霞んでしまう。
辺境領騎姫入城、それはまさしく後の史書においても潸然と光を放つ出来事だった。
それも当然クリュメノス東方辺境領騎姫、大樹の森の魔女、そしてアルカイオスの黒雷。このオリンピアの運命を左右する全てがこのヴァレルガナの地に、揃っていたのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アイラ・カレルファス、ただの村娘に過ぎない彼女もまたその瞬間に居合わせていた。もっとも彼女の心中を占めるのはこの場に居並んだ誰とも違う感情。目の前を悠然と行進していった辺境領騎姫のあまりの美しさ、それに心奪われないわけではないが、それに感けて本分を忘れる彼女ではない。
もとよりユスティーツァの元を離れ、無理を言ってこの場所に居並ぶ許可を貰ったのは二人を探すため。未だ城に帰っていない下方弥三郎と森の魔女を見つけ出すためだ。
二人がどうしているにせよ無事を確かめなければ居ても立ってもいられない。クリュメノスの陣に留め置かれていた弥三郎も当然心配だが、それ以上に本陣に忍び込んだという森の魔女の安否が気掛かだ。もし何か変事があったのならこうして辺境領騎姫の入城そのものにも影響があったはず。無事だと信じてはいるが、ただ待つだけというのは性に合わなかった。
「――何処? 何処に……」
辺境領騎姫が入城し、平伏をとかれた瞬間に視線を走らせる。目の前には未だ行進を続ける数千のクリュメノスの軍勢、この入城ために揃えられたのか、あるいはもとよりそれだけの軍装を常備しているのか、目の前の兵士たちの装備の高価さと見事さは心得のない彼女の目から見ても明らかなもの。ヴァレルガナの兵士たちを揶揄するわけではないが、その違いは一目瞭然だった。
だが、勇壮武烈な軍列に見惚れている暇はない。アイラの探すべきはたった二人、この数千もの兵士たちの中から二人を見つけ出さなければならない。
「――あの人たち……」
確りと目を凝らしていると、通りと軍列を挟んだ向こう側にはアラステア傭兵団の面々の姿がある。彼女と同じく二人を探しているのだろうが、どうにも緊張感が欠けて見えるのは決して僻目ではないだろう。
その証拠にこちらを見つけたのか団長のロベルトが呑気に手を振ってくる。仮にも恩人であり、共に戦場を駆けた友を心配している人間の態度とは全く思えない。そもそも彼女が彼らを探そうとしたときでさえ、旦那なら心配ないと突っ撥ねたのだ。信頼しているといえば聞こえはいいが、とてもそうとは思えない。ただ呑気なだけ、少なくともアイラはそう睨んでいた。
彼女の焦りや心配を他所に軍勢はゆっくりと進んでいく。身を乗り出し、無礼咎められるだけの危険を犯しても二人は見付からない。もう見えてもいいはずだ、そんな思いだけが胸中で焼けて静かに積もる。
「――――っ」
ふと雪崩のような恐怖が背筋へと圧し掛かった。これだけの軍勢、これほど長く行進を続けても果ての遠いこの行列がもし敵に回ったのならとそんな恐ろしい考えが脳裏を過ぎる。そうなれば抵抗すらも適わずにこの城は落とされる、その確信すらできてしまう。
今は皆、東方辺領騎姫の美しさに魅入られ、軍列の見事さに見惚れている。だからこそ、心底恐ろしくて仕方がない。もしこれを敵に回してしまったのなら自分達は戦おうとする意志すら抱くことは出来ないのではないかと。
「――-え?」
歯を食いしばり、恐怖を振り払い、視線を上げたその瞬間、目の前にそれはあった。軍列の中ほどをいく奇妙な装束をきた将軍、その後ろをまるでその供回りのように進む一騎。その姿を見間違うはずがない、その姿を忘れることなどありえない。
だというのに、ほんの一瞬、下方弥三郎を目の当たりにした刹那、アイラはそれが弥三郎だと信じることが出来なかった。傍らにあるべき主はなく、平素の黒い甲冑の上には見慣れぬ式典用の外套、そしてなによりも彼がそこに在ることに何一つとして違和感が存在しない、むしろそこにあることこそが正しいとさえ思える。ただそれだけのことが、どうしても信じることができなかった。
巨神暦千五百九十年、四つ目の週の最初の日、東方辺境領騎姫入城。波乱はまだ始まったばかりだ。




