75、あるいは相対するとき
陰身の術を解いてしまったのは、全くの不注意からだった。耳に飛び込んできた山の詞、その響きに驚くあまり集中を乱してしまったのだ。既に絶えた筈の詞、百年の昔、ゴレリアの山が火を噴いた時、この世界から消え失せたはずの詞が彼女の魂へと呼びかけてきたのだ。
それからは瞬く間のこと。彼女の気配を察したのか、あるいは詞の主が知らせたのか、周囲に配置された兵達が逃げ出す間すらなく森の魔女とコレンを取り囲んだ。
剣を向けられたとしても当然のこと。何か弁明を口にする余地すらない、本陣に忍び込んだのだ。むしろ、すぐさま切り捨てられなかったのが不可解というもの。本来ならば今頃は串刺しになっているか、あるいは生首になっているはずだった。
僅かな睨みあい、コレンが剣を抜き、稼ごうとした僅かな時間、それがなければ確実に二人は切り捨てられていた。
「――巫女殿、コレン、某から離れぬように」
「うん」
頼もしい背中、ようやく再会した従者の言葉に間髪入れずに頷く。こうして剣を向けられることは全くの予想外ではあったが、弥三郎さえいればどうにかなるのではないか、そんな楽観が彼女にはあった。
こうして見付かってしまった以上は、ヴァレルガナ家にも累が及ぶのは自明の理。それが理解できぬ森の魔女ではない。軽率な行動がどんな結果を齎すか、それを考えなかったわけではない。
ただそれでも弥三郎と自分が無事ならばそれでいい、その想いが理性に勝っただけのこと。この先何が起ころうとも二人無事にあの大樹の森へと帰りつくことができたのならそれで構わないと。
「コレン、聞いておるな」
「へ、へい! 分かりやした!」
恐怖に震える声でコレンが応える。縋るもの、あるいは信じるものが確固としてある魔女は未だしも、歳若いコレンに恐怖を感じるなというほうが無理がある。叶うのならば今すぐ逃げ出してしまいたかった。あのクリュメノスの本陣で兵士たちに囲まれているのだ、むしろ恐怖に駆られて凶行に走っていないだけ褒められたものだろう。
「――某の合図に合わせよ」
対して、彼等二人の前に立つ弥三郎は冷静に状況を見据えつつも、覚悟を決めていた。こうなれば弁明を通じまい。ならば、残された唯一の道を選ぶまでのこと。幸いにも奪った剣があり、こうして甲冑も身に纏っている。囲いは十数人、切り抜けるだけならばどうにかなる。無防備な二人を守り通すのは至難の技だが、幸いにもロベルトたちが近くに控えているのだ。彼らと合流すればこのクリュメノスの陣から脱出することはできる。
後は野となれ山となれ。事態はあまりにも致命的ではあるが、まだ生きてはいるのだ、活路は開ける。これ以上、ヴァレルガナ家に迷惑を掛けるわけにはいかないが、それも此処を切り抜けてからの話。身の振り方を決めるのも命あってこそ。
些事に感けて本分を蔑ろにすることだけはできない。森の魔女の生存、優先すべきはただそれだけだ。
「――っ!」
弥三郎の殺気に気圧され、周囲の兵士たちが俄かに色めき立つ。如何に彼らが精鋭とはいえ、高々十数人。この目の前の奇妙な風体の騎士を止められるかどうか、彼らでもわからない。
「――参る」
ゆっくりと踏み込み、間合いを計る。得物は万全とはいえないが、贅沢は言っていられない。
殺気を研ぎ澄ませ、頂点へと。敵の呼吸を読み、静かに動きを支配していく。それが一点へと収束し、弾けるその瞬間を待つ。
一息に踏み込む――その瞬間、その声が響いた。
「――待て! 双方共に剣を納めよ!!」
その声は、殺気立った彼らを一瞬で制するだけの重さと威厳を備えていた。少なくとも今にも切りかかろうとした弥三郎の動きを止め、彼らを囲んでいた兵士たちに剣を納めされるだけの力があった。
「――閣下」
「うむ、その方らの忠道、大義である。しかし、少々血の気が多すぎるぞ」
兵達を搔き分けて現われたのは、彼らの主でもあり、このクリュメノス軍一万の軍師でもある松永弾正その人。彼の一声であれば、兵士たちとて引かざるをえない。この陣中において総大将たる彼らの姫君、東方辺領騎姫に次ぐ序列を持つのがこの軍師だ。その詞に逆らうことは即ち、クリュメノス帝国に弓を引くのと同じといってもいいだろう。
「それに下方殿も剣を捨てるがよい。そう殺気だっておっては言葉を交わす余地すらあるまいて」
「……あい分かり申した」
久秀の言を受け、弥三郎も渋々剣を下ろす。情況が好転したわけではないが、此処で矛を交えずにすむのならそのほうが良いことには変わりない。弥三郎とて狂犬ではない、戦いを厭いはしないが、むやみやたらと切りかかるような愚かしさは持ち合わせていない。
しかし、油断倣い状況であることには変わらない。目の前にいるのはただ将などではない、あの松永弾正久秀だ。戦にはならずとも何をされたものか、分かったものではない。
「さて、カスペン、如何様な仕儀か申せ」
「――は」
久秀の命を受け、兵士たちの一人、頭目と思しき人物が進みでる。浅黒い肌とくすんだ金髪は東方に住まう異民族のもの。本陣の中心にさえ、こうして異民族の将がいる。それはクリュメノスという軍がどのような特徴を有しているか端的に示していた。
「周囲に待機しておったところ、突如この者らが現れたので、曲者と断じ、このような仕儀に……」
「ほう、その方らの目を掻い潜ったと!」
「は。一体どのような手管を用いたやら、申し開きのしようもございません」
「よいよい。それよりも――」
カスペンと呼ばれた騎士の報告に、久秀は上機嫌に頷くと、弥三郎の背後、森の魔女へと視線を向ける。事前に配置していた兵士たち、その監視は完璧なはず。久秀自身がそのように手配りしたのが、この本陣周辺の警備体制。それを誰の目にも止らずに掻い潜るなど忍びの類でも不可能。端的にいえば、人間業ではない。
「――ほう」
「――っ」
森の詞、その秘奥すら見抜いているといわんばかりの視線に、思わず森の魔女がたじろぐ。天幕の中に感じていた得体の知れない気配、こうして視線を受けているだけで呑まれてしまいそうなほど力を感じる。それこそ、天を突く巨大な山の峰を目の前にしているような――。
いや、決して錯覚などではない。先ほど剣を向けられていたときよりもはるかに大きな脅威、彼女の力、森の魔女の権能さえも封じるに足るだけのものをこの老人は持ち合わせている。いや、正確にはそれだけの権能が彼に加護を与えていた。
「しかしどうしたものかの。見たところ下方殿の縁者のようだが、狼藉者を只で返すわけいかぬ。さてさて、どうしたものか」
抵抗の意思を示す弥三郎たちを愉快げに観察しながら、彼らを嬲るように久秀は言葉を続ける。正しく今、彼らの命は久秀の掌の上。言葉一つで、あるいは身振り一つで皆殺しにすることは容易。如何に弥三郎が武勇に秀でているとはいえ、ただ殺すだけならばいくらでもやりようはある。
『――ヒサヒデ』
「む、珍しいな。表に出ておったのか」
刹那、山鳴りのような深く重い声が響いた。兵士たちの合間を縫い現われたのは小さな人影、山肌のような灰色の外套を纏った誰か。それこそが、松永弾正久秀に加護を与えた存在であり、このアルカイオスの地までクリュメノスの軍勢を先導した存在だった。
悠然と進み出たその人物は、警戒を示す兵達と身構える弥三郎たちを一切意に介せず、彼女と向かい合う。何者をも拒絶するようなその瞳が見据えているのは、森の魔女ただ一人だった。
「――む」
「…………やっぱり」
その気配に弥三郎がいぶかしみ、森の魔女が息を呑む。現われたのはただの人間ではない。森の魔女と同じく失われた血族の末裔、山の民の一人、もはや存在しないと思われた彼らが目の前にいた。
『この者達は我らの招いた客人。曲者の類ではない』
「――ほう」
山の民は彼らの詞をもってその場の全てに呼びかける。地鳴りのようなその声は人間の魂そのものへの干渉であり、大地すらも揺るがすもの。ただの人間に有無などいえようはずがない。
森の魔女達の緊張が僅かに弛緩する。一体どういう所以で山の民が自分達を庇い立てしているかは分からないが、この言い分が通りさえすればそれでこの窮地は切り抜けられる。
「しかし、客人にしては妙ではないか? 気配を殺す必要などあるまい」
『…………それは』
しかし、常人ならば言葉を失う圧力もなんのその松永久秀は山の民すらも掌中で弄んでみせる。加護を得たものの権能ゆえか、あるいは元よりこの老人には言葉そのものが通用しないのか。それは定かではないが、どちらであるにせよ、山の詞が通じないという事は即ち森の詞でさえも通じないという事。森の知恵を駆使したとしても、この窮地を切り抜けることは難しい。
「――――」
誰にも悟られぬようにゆっくりと弥三郎の重心が下がる。何が起きてもすぐさまに対応できるそれだけの体勢を整え、その瞬間を待つ。こうなれば一か八か、剣を拾い、死中に活を活を求めるほかにない。
「――まあよいわ。皆の衆、下がってよいぞ」
「――は。しかし……」
「わしが良いと申しておるのだ。それに客人にいつまでも剣を向けておっては恥をかくのはこちらのほうぞ」
心変わりそういっていいほどに軽々と久秀はそう命を下す。先ほどまでは森の魔女たちを疑っていたというのに、それすらも忘れてしまったかのような振る舞い。変わらぬのはどこかこの状況そのものを楽しんでいるかのようなその視線だけだ。
山の民の詞に従ったわけでもなければ、弥三郎の気迫に気圧されたわけでもない。ただ久秀にとってここで彼らを捕らえるよりも見逃すほうが利があった、ただそれだけのこと。彼にとっては山の民も、森の魔女も、あるいは下方弥三郎も盤上の駒に過ぎなかった。
「では、わしも参るとしよう。返答はまたの機会に承ろうぞ、下方殿」
「――は」
警戒を緩めぬままに弥三郎を、愉快げに一瞥して久秀はその場から去る。危機は去った、そう言ってもいいだろう。だが、状況はなんら好転してはいない。なんにせよ、あの松永久秀に借りを作ったのだ。それが何を意味するかは考えずとも分かること。この先、なにを押し付けられたものか分かったものではない。
『――森の魔女よ』
『山のもの……』
そうして、彼らは向かい合う。山の民と森の魔女、対極に位置し、本来ならば決して出会うことのないはずの両者が此処にて邂逅した。本来の役割から外れた者達、互いに異界のものと出会い加護を与えたものでありながら、対称的な運命を辿った者達の出会い、歴史に残るのことはなかったものの、この瞬間こそが、あるいは――。




