74、あるいはもう一つの邂逅
クリュメノスの陣中、一万の軍勢が犇くその最中を、静かに進む人影がある。およそ戦場には似合わないその人物を引き止めるものは誰一人としてない。引き止める必要を感じていないというよりは、兵達は誰一人として彼女達に気づいていない。それどころか見えてすらいないだろう。
森の魔女アンナはそうして、彼の元へと進む。陰身穏行は森の知恵における基礎の基礎、根幹といってもいい代物だ。森と一体になるには息を合わせ、気配を隠し、自分自身をも殺さねばならない。力のほとんどは消耗したといっても人二人隠す程度ならそれほど難しいことではない。勿論、集中を維持しなければならないという点においては他の術となんら変わりはないのだが。
「ふへー、本当に気付かねえや…………やっぱすげえな」
「静かにして」
「す、すんません」
暢気にそんな感想を呟くコレンを睨みつける。陰身は完璧だが、限界はある。こうして暢気に物見遊山気分で騒がれてはいつ術式が乱れるか分かったものではない。
いくら味方を名乗ってるとはいえクリュメノスの軍勢など信用できるはずがない。万が一見付かればどんな目に合わされたか分かったものではないし、自分達だけで済むならそれで御の字。最悪、間諜だと疑われ、ヴァレルガナ家、ひいてはアルカイオス王国そのものに責任が及ぶこともありえる。
しかしそうは言っても今更引き返すつもりなど毛頭ない。目指すべき場所はようやく見えてきた。道中で立ち聞きしたとおりならば、弥三郎たちヴァレルガナ勢は本陣近くの天幕に留め置かれているとのこと。警備は厳重だが、術が生きている限りは問題はない。
むしろ、考えるべきなのはその先どうするか。弥三郎の下にたどり着いてどうするか、まるで考えていなかった。感情に任せて城から飛び出してはきたものの、何か計画があるわけでもない。弥三郎が捕らわれているのか、あるいは歓待されているのか、それも定かではない。たどり着いてみなければ何一つとして定かではない、それが現状だった。
「――こっち」
「へ、へい」
天幕の連なるその場所に踏み入れた瞬間、愛おしい気配が彼女を呼んだ。これほど近づかねば認識できないというのも情けない話だが、彼と彼女とのつながりはいまだに顕在だった。
思わずその場にへたり込んで、安堵に身を任せてしまいたくなる。彼は生きている、ただそれだけのことだが、それだけのことは何よりも彼女には重たい。こうして無事を確認できただけでこのクリュメノス本陣まで来た甲斐もあったというものだ。
気配を頼りに天幕の合間を進んでいく。それぞれに寛ぎ始めていたこれまでの陣中とは違い、この場所の兵達は完全武装の上、周囲を圧するほどの気配を発している。常に気を張って警戒していなければ見張りは務まらないが、それにしても殺気立っていた。
「随分と奥ですね……」
尋常ではない空気を察したのか呑気していたコレンもまた俄かに警戒を示す。戦は終わったはずだというのに、この陣中には、いや、この本人の周辺だけがまるで戦の最中のような様相を呈している。それこそ何かことがあればその瞬間に、矢が射掛けられるそんな緊迫感すら充満していた。
自然、足早になる。弥三郎は無事、それは確かだ。だが、次の瞬間どうなっているか。それは彼女には分からない。一刻も早く、この目で、この指で、彼の無事を確かめたかった。
「――ここ」
「へ、へい」
ようやくその場所へとたどり着く。本陣の奥も奥、総大将のおわすであろう場所のすぐ傍に彼はいた。
「……………?」
天幕の中には二人。耳を澄ませば話し声すらも聞こえてきそうだ。片方が弥三郎であることは間違いないが、もう片方の気配は全く持って正体が掴めない。人であるはずなのに、そうとは思えないほどに大きくまた得体の知れない気配。弥三郎と共に天幕の中にいるのはそんな存在だった。
「…………後ろに回る。気をつけて」
「う、後ろですね、わかりました」
魔女からの警告にコレンはますます警戒を深める。歳若い彼でもこの本陣周辺の尋常ではない様相を察することはできる。ましてやそれに魔女の警告が加わるとなればなおさらだ。このまま正面からというのはあらゆる意味で良くない。気付かれない自信はあるが、あの得体の知れない気配と正面から向かい合う無謀はできない。
かすかに聞こえる天幕の中の会話に注意しながら、裏側へと回り込んでいく。話の内容は分からないが、それでもあまり良い内容でないのは明らか。弥三郎の気配が怒りを帯びていく、それこそ、今にも飛び掛りかねないほどに。奥に沈められていても、その凄まじさに変わりはない。切欠さえあれば瞬時に動き出す。
「――その方、無礼ついでにわしに仕えてみる気はないか?」
その声が響いたのは、その瞬間だった。彼女が天幕の背後へと回りこみ、耳を澄ませたその瞬間、狙い澄ましたようにその声が響いた。
「――っ」
その意味、その意図を理解した瞬間、鋼の集中が僅かに揺らぐ。天幕の内にあるものは、彼女の従者を奪おうとしている。そのことに思わず怒りを感じてしまった。結果の如何にかかわらず自分から彼を奪おうとしたというその事実そのものが許せなかったのだ。
こうして此処にいること、彼が城へと帰らず、未だ安寧が遠くにあるのはすべてこの存在が原因。この存在さえ消してしまえば、全て解決する、そんな安易な考えが思考を支配していく。
『私は――』
感情に任せて言葉を紡ぐ。後先など考えない、彼と自分さえ無事ならばどうとでもなる。人一人の命を奪う程度難しいものではない。たった一小節、たった一言で済むそのはずだった。
『止めておけ、森の魔女よ』
「――!?」
その声が響いたのはその瞬間だった。耳にではなく魂に呼びかけるその詞は、彼女と同種でありながら、その起源を違うもの。
岩の詞、今は失われたはずのそれは山の民の操る詞。穴倉に住まい、岩を枕にし、日を支配する彼らの詞がその場所に響いたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――その方、無礼ついでにわしに仕えてみる気はないか?」
投げかけられたその言葉、その勧誘は弥三郎にとって全くもって予想外のことであった。そも今の今まで、ついさっきまで弥三郎は久秀を殺そうとまでしていたのだ。それが突然、こうして臣下にならぬかと声を掛けられるとは予想できようはずもない。
「わしの所領から城を一つ賜わす。碌も今の倍は与えるぞ。同郷の士として共に天下を征そうではないか」
弥三郎を弄んでいるようにも、あるいは本気のようにも思える。それほど事も無げに久秀は城をくれてやると言ってのけた。ただの臣下としてではなく、城主として、家中に重臣として迎えると。
「心配は要らぬぞ、このクリュメノスは出自の如何を問わぬ。功あらば、卑賤の身から大名となることもできようて。どこぞの家風に似ておると思わぬか?」
「……………」
久秀の言わんとすることを弥三郎が分からぬはずがない。出自は問わない、ただ才と功をもって臣下を遇する。それは彼が仕えていたかの家にも共通すること。長浜城主、羽柴筑前守はもとは足軽の身分だったと聞く。それがかの信長公に才を見込まれ、功を上げ、ついには城主となった。
憧れぬといえば嘘になるだろう。弥三郎とて武士、立身出世を望まぬわけではないし、もしこの異界の地であれ城主となることができるのならそれは本望といってもいい。下方弥三郎忠弘という名を、その家名を後世に残す、それは武士としての本分であり、望みでもある。
「……某は」
だが、頷くわけにはいかない。例えそれが武士としての本分であり、己が望みに合致しているとしても、今果たすべきは忠義だ。ここで久秀の言葉に頷き、仕える主を変えることは不義そのもの。戦国の世ならばそれも許容される悪徳であることには違いないが、だからこそ、今はそれを成すわけにはいかない。
命を救われた、その恩義だけではない。あの森の魔女は、アンナは忠節を捧げるに足る人物だ。清廉潔白な在り方も然り、義務に身を捧げる献身然り、瞳に宿る強い意思もまた然り、それを裏切るなど考えたことすらない。
しからば、最初から答えは決まっている。たとえ、これがかつての主の言葉であったとしても、今は頷くとはできない。不忠と罵られ、臆病者と侮られたとしても、今貫くべき忠義は別にある。救われた命、あの二条御所から生き延びた天命はそこにあると信じている。
「――!?」
「――――なにごとか!」
返答を口にしようとしたその瞬間、僅か沈黙を怒号が引き裂いた。天幕の外、何が起こったにせよ、凶事には違いない。すぐさま、腰に差したはずの刀の柄に手が伸びるが、あるべきものはそこにはない。今の弥三郎には振るうべき刃すらなかった。
怒号に反応したのは弥三郎と久秀だけではない。周囲に待機していた兵士たち、久秀が用意周到に配置していたものたちが真っ先に反応した。もし弥三郎が事を起こせば、その瞬間には対応できるように彼らは用意していたのだ。
しかして、彼らが対応するのは弥三郎に対してではない。もう一人の、突如現れた不埒者に対してだ。
「――っち、畜生」
すぐさま天幕より飛び出すと、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。完全武装の兵士たちの囲まれているのは二つの人影、どちらも小さくまるで子供のようだった。
「――剣を捨てろ! 狼藉者!!」
戦士達の頭目と思しき男がそう言葉を発する。如何に狼藉者とはいえ、問答無用で斬り殺すことはない。それよりも捕らえて、情報を引き出すことこそが肝要だった。
捕らえさえすれば、そこからはどうとでもできる。そういった情報を引き出すための専門家もこの陣中に同行していた。本陣で暗殺を企てた狼藉者、充分戦を仕掛けるに足る。
剣を構えた兵士たち、その合間から二人の狼藉者を垣間見る。その姿を確認し、それが誰か認識したその瞬間、弥三郎は動いていた。
「――巫女殿!!」
兵士の一人を一撃で倒し、剣を奪い、二人の目の前に躍り出る。その先どうなろうとも構いはしない、今重要なのは彼女が聞きにあるその事実だけ。下方弥三郎があるべき場所はいつでも危機の前、森の魔女の危機に駆けつけることこそ今の彼の本分だった。




