71、あるいは勝ち鬨の後
城から見て東の方、パウサニアス山脈より現われたクリュメノス帝国の軍勢は一気呵成にタイタニアの軍勢に襲い掛かった。クリュメノスにおいて最も多用され、オリンピア最強とも謳われる竜の牙陣形。総大将が自らを最前列に置くその陣形は、危険を顧みぬからこそ最大限の力を発揮する。
一万の軍勢が一糸乱れぬ統率で敵陣を蹂躙する、単純であるからこそ彼らの戦略はオリンピア東部を瞬く間に席巻したのだ。
如何にタイタニアが三万の大軍といえども、不意を突かれた今では対抗のしようがない。
鬨の間、瞬く間に陣形が寸断され、巨人の背中に竜の牙が突き刺さる。正しく蹂躙、反撃に転ずるどころか、逃げ延びる意志すらも挫かれる。絶望、殿を担うことになった前軍に許されたのはただそれだけ。剣が、槍が、蹄が容赦なく彼らの命を奪い去った。
それでもなお、巨人の頭は逃げ延びる。手足を、あるいはその身体そのものを犠牲にし、総大将は逃げ延びる。供回りの近習さえも見捨て、御旗も馬印も投げ捨てて、南側の街道へと。帝国と弥三郎、その両者の追撃を振り払い、とうとう彼らは逃げ去った。巨神の先槍とも謳われるタイタニア、その総大将が敗軍の将として無様を晒す、それでもなお永らえる。それこそが総大将たるレバンス枢機卿の役目だった。
統率を失った軍勢は千路に乱れ、それぞれ正体を失い、敗走を始める。彼らを率いるべき将は既になく、彼らは敗残兵となった。待つのはただ一つ、一方的な蹂躙。捕虜となるか、あるいは皆殺しか、どちらにせよ逃げ延びなければ待つものはその何れか。三万の軍勢は蜘蛛の子を散すように、逃亡を始めた。
この戦、アウトノイア城の攻防戦はこうして決着を迎えることとなる。
「――勝鬨を挙げろ!! 我が愛しき兵達よ!!」
将の一声。クリュメノスの先陣を務めた将、いや、総大将その人が流麗な声で戦場へとそう呼びかける。今だ喧騒の最中たる戦場においても、その声は隅々まで響き渡った。正しく天の声、そう呼んで差し支えないほどの自信と威厳、そして聞くものを魅了するほどに美しい声だった。
「――姫殿下に!!」
その声の元、一万の軍勢の意思が一つになる。それこそが彼ら、クリュメノス帝国東方辺境領軍の強み。信仰ではなく忠誠、自分達を率いる総大将への絶大な信頼と心酔にも似た憧憬。彼らにとってこの戦場は敬愛する姫のためのもの。そのためならば三万の軍勢とて恐れるに足らず。
今この戦場に翻るは巨神の御旗でもなければヴァレルガナを示す青き獅子でもない。ここにあるのは赤き竜の旗。クリュメノス帝国の象徴たるその御旗だけ。今この場所はアルカイオス王国にではなく帝国に属する領地である、そう言っても過言ではないだろう。
かくして、後の世にアルカイオス大乱と呼ばれる戦いは決着した。クリュメノス帝国のアルカイオス王国への進駐、タイタニア連邦の国境際までの撤退、そして、ヴァレルガナ家及び下方弥三郎の生存。この戦いの齎した数多の波紋はやがて大波となり、このオリンピアの運命さえ呑みこんでゆく事になるとは今はまだ、誰も知らない。
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戦場、そしてアウトノイア城の混乱は僅かの間に終息された。城外にいた部隊にはすぐさま撤収の角笛が吹き鳴らされ、ヴァレルガナの軍勢は二刻足らずで城に集結、日が昇りきるころには新たに守りを固めていた。
城主たるアレンソナが城内に留まっていたことが幸いしたのだ。未だ混沌とした状況にあっても、彼等には仕えるべき主がいる。ただそれだけのことがあるのとないのでは、何もかもが違ってくる。こんな何一つとして定かではない状況ではなおさらのことだ。
なにしろ目の前の軍勢、タイタニアの三万の軍勢を蹴散らし、このアウトノイアの城を救った彼等、クリュメノス帝国が味方かさえ定かではないのだ。せめてものこと絶対に信じられる何者かが必要だった。
状況だけで判ずるのならば、彼らは敵ではないはず。しかし、相手はかのクリュメノス、敵の敵は味方、などという単純な理屈が通じるとも思えない。あわよくばこの城を奪い、王都へと侵攻する、その程度のことは考えていないはずがない。即席とはいえ守りを固め、最大限の警戒を払うのは至極当然といえるだろう。
「閣下! 閣下は何処に!」
その人物が城に駆け込んできたのはそんな頃合だった。未だ城に帰還していない二隊の一つ、ヴァンホルト隊の騎士、タイタニア本陣へと奇襲を仕掛けた騎士の一人が城へと戻ってきた。奇妙なことに玉砕したかと思われた彼には傷一つない、それどころか纏った鎧には汚れ一つない。まるで今出陣したかのような、そんな風体だった。
「確かレイネスだったな? 如何した?」
「こ、こちらを閣下に」
味方に押し止められながらもレイネスと呼ばれた騎士は辺境伯の元へとたどり着く。その剣幕たるや戦もかくやというもの。此処で切り捨てられても構わないと、それだけの覚悟を彼は決めていた。
差し出したのは一枚の書状。そこにはクリュメノスの公文書である事を示す印、竜の紋章があった。末尾に記された名は、間違いなく現皇帝の姪であり、クリュメノス帝国東方辺境領騎姫のもの。疑いようもなく、この書状はクリュメノス帝国からのものだ。
「閣下、してクリュメノスはどのように……」
「……うむ」
食い入るように書状二目を通し、そのまま黙り込んでしまった辺境伯に対して、側近がそう尋ねる。書状の内容如何ではこの城と城兵の運命が決まる。よもやこの期に及んで宣戦布告ということもあるまいが、相手はかのクリュメノス。何が記されていてもおかしくはない。
「援軍として参った故、入城を望むとある。それとヴァンホルトと客将殿の身柄を預かっているとも」
「な、なんと……お二方がクリュメノスの元に」
入城を望む、記されていたのはそんな当然といえば当然の要求。当面のところ彼らは敵ではない、それが分かっただけでも彼等には一安心。
しかし、重要なのは後半の文面。城外にて戦っていた彼らの身柄を預かっている、一見それは友誼の証のようにも思えるが、実際のところは人質と変わらない。入城を拒めばどうなるか、暗にそれを示しているようなものだった。
「閣下……」
「入城を受け入れる、それしかあるまいて。至急、アレクセイらを呼び戻さねばならん、使者をたてよ」
「――は」
決断は素早く、且つ慎重に。元より選択の余地はないとはいえ、それでもクリュメノス帝国の軍勢を城内に招き入れるという事の意味をよく理解しておかねばならない。クリュメノスの参加に加わる、その意味を。
この瞬間、書状でのやり取りでのみ成立していたクリュメノス帝国及びアルカイオス王国の関係性は厳然たる事実へと変わった。後の世には事実上の従属関係であったとも語られるクリュメノス・アルカイオス同盟は、王都での約定を待たずしてこのアウトノイアの城にて結ばれた、そう言っても過言ではないだろう。それはつまり、アレンソナ・フォン・ヴァレルガナが決断によって、オリンピアの運命すらも決した、ということでもあった。
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戦いを終えた後、クリュメノス帝国軍一万は城壁の外、その東側に陣を敷いた。城方は入城を了承したものの、その準備のため、一日の刻限を貰いたいと、そう返答を返してきたためだ。さらにいえば、入城は未だしも、アウトノイアの城だけでは到底一万の軍勢を収容することは不可能。クリュメノス側としても城外に陣を敷くのは至極当然のことではあった。
その陣の中央、総大将のおわす本陣の隣の天幕に弥三郎らヴァレルガナ方の諸将は留め置かれていた。
「……旦那」
「わかっておる。しかし、敵中にて丸腰というのはどうにもな……」
珍しく落ち着きを欠いた弥三郎にロベルトがそう声を掛ける。彼らを含めたヴァレルガナ勢は軍装こそ許されてはいるものの、武器の類は全て取り上げられてしまっている。これでは友軍というよりは捕虜の扱意に近しい。
そもそも帰城する腹積もりだった弥三郎らは彼ら帝国によって半ば強引に合流させられた。味方だと名乗る彼らに弓を引くわけにはいかなかったという事もあるが、それ以上に先に合流したヴァンホルトらの事を考えれば従わざるをえなかったのだ。
「……それにしても何時まで待たせる気なんだろうな」
「…………わからん。」
本来、彼らはヴァレルガナ家に対する人質のはずだった。クリュメノスが要求を通す交渉材料、そのために弥三郎隊とヴァンホルト隊はこの陣に止められている、そのはずだ。ヴァンホルトらと引き離され、この本陣近くに拘留されているのもそのためのはず。
交渉の結果如何では何時でも首が飛ぶ。彼らの立場はその程度のものでしかなかった。現状の分からぬ今では、一刻後の命の保証すらない。解放されるのならば早いに越したことはない。
「…………まさか」
しかし、弥三郎の心中を掻き乱すのは、自らの生死などではない。戦場で目の前を過ぎったあの旗印、タイタニアの総大将を狙う彼らの先を進んだあの軍勢。その正体、あの紋が示す家名が弥三郎の記憶のとおりのものであるならば――。
「――ヴァレルガナの客将殿、軍師殿がお呼びである。付いて参られよ」
「……承知した」
弥三郎の思索をようやく現れたクリュメノスの使者が中断する。幾ら考えてみたところで、答えは出ない。鬼が出るか、蛇が出るか、あるいはその両方であるにせよ、いまは進むほかにない。
「ロベルト、兵どもを任せる」
「応、留守は預かる」
それでも確かなものが在るとすれば傍らの戦友との血の絆。いざ自分に万が一が起こったとしても後を任せる相手がいる、ただそれだけのことで振り返る迷いなど消える。兵達にとってもそれは同じ、いざとなれば自分達の将と共にこの敵陣を駆け抜けるその覚悟を決めていた。
かくして、下方弥三郎はその時を迎えることになる。クリュメノス帝国東方辺境領騎姫、その軍師との邂逅、その邂逅が何を齎すか知らぬまま、彼らは出会う。
運命は再び、動き出そうとしていた。




