70、あるいはその旗が
その角笛の音を、タイタニア方の総大将レバンス枢機卿は城門に移された臨時の本陣にて耳にした。周囲の喧騒や街の燃える音すらも引き裂いて、竜の咆哮は戦場に響き渡ったのだ。
それは同時に積み重ねてきた勝利が足元から崩れ落ちたことをも意味する。城下への放火は想定外ではあったが、その後の奇襲は防ぐことができた。痛手ではあるものの、城さえ手に入ればそれで充分。誰を失ったとしても敗北することはない。タイタニアはこの場所を橋頭堡とし、アルカイオス王国を手に入れる。その運命は覆しようがない、そのはずだった。
「ぜ、全軍集結! 城外に防衛陣を敷け!!」
あらゆる疑念、驚愕を締め出して枢機卿はどうにか命令をくだす。このままでは負ける、レバンス枢機卿の将としての直感はそれを告げている。既に手遅れだったとしても、できうることは全てやっておかなければ、矜持に反する。
クリュメノス帝国、異端にして神敵、未だバーエリア地域にて神聖騎士団本隊と矛を交えているはずの彼らがここにいるはずがない。彼らがこのアルカイオスの地に進軍するにはオリンピアの背たるパウサニアス山脈を越える必要がある。仮に山を越えるにしても、掛かる日数はどれだけ早く見積もってもこの戦には間に合いはしない。彼等、クリュメノス帝国がこの戦場に現れることなど絶対にありえないはずだった。
「ご、ご注進! 東の方よりクリュメノスの軍勢! 数は一万! 旗印は東方辺境騎姫!!」
本陣に駆け込んできた伝令が告げたのは厳然たる事実。一万の敵、竜の牙が喉元へと迫っている。このままでは軍のすべてを蹂躙されてしまう。
しかも、相手はかの東方辺領騎姫、女だてらに常勝将軍と渾名される名うての戦上手だ。正面からの開戦ならば未だしも、不意を突かれたこの状況では如何ともしがたい。
「敵方猛勢! アルテア卿が抗戦するも形勢利在らず!!」
報告を受けずとも状況ははっきりしている。東側での先頭の様子はこの場所からでも伺える。悲鳴と鬨の声、吹き鳴らされる角笛の音はどちらが勝っているか、それを明確に示していた。敵の声、こちらを目指す竜の唸り声は確かに近づいている。
「…………この場所より退きのく! 殿は前軍!」
「――は!」
決断はまさしく迅速だった。如何に三万の軍勢といえどあまりにも状況が悪すぎる。前方ではいまだに城下が燃え盛り、後方にはクリュメノスの大軍、聖女たちとの連絡すらも絶たれている。このままではまともに戦うことすらできずには玉砕すらありえるだろう。
体勢を立て直すためには、いや、全滅を避けるためにはこの場所から退く他にはない。臆病者と詰られようとも、クリュメノスは、東方辺領騎姫は、侮っていい相手ではない。ましてや、ヴァレルガナの軍勢を相手にしながら同時に相手できるような敵ではない。神聖騎士団と聖女、タイタニアの誇る最大の戦力が揃って初めて彼らと渡り合うことができる。現状ではとてもではないが、不可能だ。
「――撤退! 撤退だ!!」
数え切れれない悲鳴をかき消すように、撤退の角笛が吹き鳴らされる。これが敗走であることは誰の目にも明らか。軍の統制を失い、背後からの追撃を受けるとしても、一兵でも多く生き延びる。それだけを目的として彼等は逃げ出した。
殿を担うのは昨日先陣を担い、アウトノイア城の城門を破った前軍。勇猛果敢な彼らが帝国の侵攻を食い止め、三万の軍勢を守る。名誉ある死地が彼等には与えられたのだ。
巨神暦千五百九十年、三つ目の週の七日、アルカイオスの地に竜の旗が翻る。その日こそ、後の世にアルカイオス大乱と呼ばれる戦いの終焉であり、そして、オリンピア全土を巻き込んだ大陸大戦の始まりでもあった。その終局が何処へ至るのか、それはまだ誰も知らない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「全軍参集!! 此処から退くぞ!!」
戦場の只中、クリュメノス帝国が参戦し、混沌の坩堝と化したその場所にヴァンホルト・ユーティライネン卿がいた。彼らにとって現状は未だに定かではないが、一つだけはっきりしていることがある。
退くならば今しかない。陣の横合いからの突撃を受け、敵の囲いは完全に崩壊した。十重二十重の敵は今はもう蹂躙され、その形を止めてすらいない。今だ、今ならば労せずに逃げられる、ヴァンホルトの直感はそう告げていた。
「南側に抜ける!! 確りしろよ、フェルナー!!」
「――っ」
負傷した戦友に肩を貸しながらも、ヴァンホルトは的確に命令をくだす。フェルナーの負った傷は知名のものでこそないがないが、撤退に時間を掛けれ、地を失いすぎれば、命も危うい。焦らずなおかつ迅速にこの戦場から撤退して、手当てを行う必要がある。
一度は死を覚悟したが、みすみす命を捨てる気は毛頭ない。援軍が到着したのか、それとも他の何者かの仕業か。それはこの際どうでもいい。目の前に生を拾う活路がある、ならばそれだけを目指して一心不乱に駆け抜けるまでだ。
主戦場となっているの東側、北側では敵が撤退を開始し、城に戻ろうにも距離がありすぎる。ならば、南側しかない。戦場を離れさえすれば、フェルナーの傷は治療できる。此処を切り抜けさえすれば。
「止れ! 貴殿らは何ものぞ!!」
そんな彼らを呼び止める声が、彼らの眼前に立ちはだかる軍勢がある。戦場においてはおよそ似合わぬ誰何の声は竜の旗を掲げた軍勢のもの。旗の色が違えば殺しあうことが定めである戦場において、敵が何者かを問うことなど滅多にない。
それをあえて問うのならば、そこには相応の所以がある。目の前の騎士達を切り捨ててはならぬ理由があるのだ。
その理由とはただ一つ。翻った竜の旗、東方の雄たるクリュメノス帝国その軍勢は敵ではない。少なくも今はそうではない。ヴァンホルトにとってはそれだけが確かなことだった。
「アルカイオス王国、ヴァレルガナ家が家臣、ヴァンホルト・ユーティライネン卿!」
「おお! やはりそうか! 私は東方辺領騎姫殿下が配下、アーセルン卿! 友誼に基づき助太刀に参上した!!」
ヴァンホルトの名乗りに応えて進み出たのは、浅黒い肌をした将。クリュメノス帝国においては異民族であっても立身出世を望めるというが、ただの風聞ではなかったらしい。東方の砂漠の砂の民、それが軍を率いることなどクリュメノス以外ではありえないだろう。
だが、問うべきはそんなことではない。問うべきは一つ、何故ではなく、どうやって、ということ。彼らが此処にいることは本来ならばありえない。
「……それは……感謝の言葉もありませぬ……しかし、どうやって……」
「問答は後! 見れば負傷者もおられる様子、戦場よりお連れ致す。付いて参られよ」
「……あいわかった。よろしくお願い致す」
ヴァンホルトの前に立ち塞がったクリュメノスの軍勢が彼らを護衛すると進み出た。自分達は敵ではないとそう示す腹積もりなのだろうか、それとも単に善意からそう申し出たのか、それは定かではないが渡りに船だ。負傷した兵とフェルナーの事を考えれば、護衛を受け入れるのはやぶさかではない。
彼らを信用するか、否か。それを今考えている余裕はない。重要なのはクリュメノスの助けがなければ、自分達も、アウトノイアの城も、あるいはアルカイオス王国でさえも、その命脈を繋ぐことができないということ。救いの手を払いのけられるほどの力は、今の彼等にはない。その先にどんなを結末を招くことになろうとも、その手を掴む以外の選択肢は存在していなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その角笛を下方弥三郎は城外にて聞いた。戦場に遍く響き渡ったその音が示す意味を弥三郎が知りうるはずがない。ただ理解できたのはこの戦場がこれまでにない混乱の只中にあるという事。東の方より来た別の軍勢が戦場をかき乱しているという事実だけを弥三郎は理解していた。
彼にとって重要なのはただそれだけ。自身が何をすべきか、それさえ分かっていれば後は迷うことなどない。ただ突き進むだけだ。
「我に続け!! 狙いは攻め方の本陣なり!!」
「――応!!」
我こそが戦場の先駆け、一番槍の担い手たらんと声を張り上げる。かの聖女の亡骸は味方に預けた、後顧の憂いはない。あとは混乱の只中にある敵を追い散らし、陣へと進み、味方を救うのみ。いまこそが武士としての本懐を果たすとき、功名の挙げところだ。
彼が率いるのはたったの百五十足らずの軍勢ではあるものの、激戦を潜り抜けた精鋭たち。帝国に追い立てられ、泡を食った今では三万の軍勢ですらも物の数ではない。
「進め!!」
群がる敵を次々と切り捨てながら、敵方の総大将を探す。ヴァンホルトの強襲を逃げ延びたにせよ、この混乱の中を逃げ回っているにせよ、なんであれこの戦場のどこかにまだ総大将が顕在であることは確か。敗走の只中に未だ敵に統制が見られるのがその証左だ。
その中心に敵の総大将はいる、弥三郎はそう確信していた。
「旦那! 西だ!! 動きが妙だ!」
「あいわかった! 付いて参れ!!」
目敏く敵の動きを見ていたロベルトの進言に応えて弥三郎は方角を見定める。確かに謎の軍勢が攻めかかった逆側、西の方角ではタイタニアの軍勢が引き退きつつある。ならばその中にこそ総大将があるのは必定。進むべき道は眼前にある。
故に彼らは押し進む。己が命を顧みることなく、ただ勝利を、功名を求めて彼らは戦場を奔る。それこそが彼らの本能、戦士としての本質、彼らの存在意義といっても過言ではないだろう。
「―――あれは……」
その瞬間、彼らの眼前をその旗印が横切った。奇妙な葉の縫いこまれたその旗、それが示すものを理解できたのはこの戦場、いや、このオリンピアにおいてただ一人だけ。他の誰にもその旗の意味を、それが誰の家紋であるかなど理解できようはずがなかった。
蔦の葉。その旗に縫いこまれたのはこのオリンピアには存在しないその植物。それが示すもの、それを理解できるのは、下方弥三郎ただ一人。彼自身と、あの亡霊たちと同じく、ありえざるものがこの戦場には存在していた。




