68、あるいはその切っ先が
本陣への奇襲。ヴァンホルト率いる五百の隊が本陣への攻撃を敢行したその直後、本陣近くに配置された前軍は迅速に動いた。如何に勝利を確信し、士気が緩んでいたとしても、彼等にはかつての経験がある。かのラケダイモニアの戦に総大将を討ち取られた経験が彼らを突き動かした。二度目を許すわけにはいかない、決して何があろうともそれだけは、彼らにはその一念しかなかった。
鎧を纏うこともなければ、槍を持つことすらない。着の身着のまま、彼らは果敢にもヴァレルガナ勢の足止めへと走った。まさしく懸命、巨神教にて謳われる殉教そのものだった。
「ここで止めろ!! 先へは通すな!!」
「押し破れ! 突き崩せ! ここが正念場だぞ!! 一歩でも先へ進め!!」
タイタニアの気合に負けじと、ヴァンホルトが大声を張り上げる。命を懸けているのは、ヴァレルガナ方もまた同じ。此処を抜かねばこの戦は負けになる。ここで時を稼がれ、火計による混乱が鎮まればその瞬間にヴァレルガナ方の運命は決していしまう。勝負は鬨の間に決する、彼等には止っている暇はなかった。
槍を突き、剣振るい、馬を駆って、敵の陣中を押し進む。彼らの後には血の河と屍の山、味方を見捨て、敵を切り捨て、ただ只管に敵の本陣へと。
「止めろ! 通すな!! 我らが盾となるのだ!!」
意地と忠義、揺ぎ無い信仰がヴァレルガナ方を押し止める。彼らにとっては此処が死に場所。再び総大将を討たれるくらいならば、ここで身を盾にして自らを捨石にすることですら厭いはすまい。これこそ信仰の具現、タイタニアという軍の強みであった。
「味方も進んでいるぞ!! 決して足を止めるな!! 死ぬならば前のめりに死ね!!」
遥か前方、西側でも火が上がっている。同時に出陣したフェルナーの隊がヴァンホルトの突撃を補佐すべく火を放ったのだ。
彼らもまた命懸け。敵の守りの厚い西側に自ら飛び込み、火を放つなど本来ならば正気の沙汰ではない。先ず命はない、それでも恐れることなくフェルナーはその任に志願した。その心意気を前にして引くことなどできようものか。彼らにとって道は二つだけ。敵の総大将を討ち取ってからあい果てるか、それとも道半ばで敵の白刃に掛かり屍を晒すか、その二つだけだ。己の命惜しさに退くこと等、毛頭ありえない。
敵は眼前の兵であり、また刻々と過ぎ行く時。一瞬の逡巡も恐怖も許されはしない、彼らにできることはただ一つ。迷いなく進む、ただそれだけだった。
「行けェ!! ぶち破れ!!」
幾度かの激突、数百の命を散らした後、血路は開かれる。敵の本陣は目の前、それを守る兵は僅か、この場所さえ抜けてしまえば勝利は目の前だった。
再度の突撃。矢を、槍を、剣戟を掻い潜り、彼らは進んだ。傷を負い、仲間の死体を踏み越えて、彼らはその場所へ至る。
「進め!! 何があっても止るな!!」
ヴァンホルトの号令、戦場においても響き渡るその声に従って兵達は迷いなく前進した。周囲には敵はなく、本陣までは一直線。彼らの前に道は開いている。その先には必ず求めるものがあると、彼らはそう信じていた。
天幕を引き裂いて、本陣へと踏み込む。間に合った、そんな想いが全員の脳裏を過ぎる。味方の陽動はいまだに続いている、城下にて聖女を狙う彼らが仕損じることはないとそう信じている。後は自分達が事を成すのみ、彼らが総大将を討ち取りさえすればそれで決着が着く。
「――な!?」
次の瞬間、彼らを襲ったのは足元から崩れ落ちそうになる驚愕と底の知れない深い絶望。目の前にはあるべきものが何一つとしてない。討ち取るべき総大将どころか、護衛の将すらも不在だった。
もぬけの殻となった本陣、目の前にあるのはただそれだけ。それを事実として認識するよりも早く、状況は動き出している。
敵に囲まれた、考えるまでもないこれは罠だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
炎のなかを進む。目の前の敵、この聖女を討ち取るためには恐れなど抱いてはいられない。己の武、巫女の加護、積み重ねてきた天佑を信じて、ただこの刃を振るうのみだ。
「――ッ!」
交差。一息に振るわれた刃を、掲げた旗が受け止める。金属がぶつかり合い火花を散らした。昨夜のように刃が逸れることはない。振るった刃は寸分違わず彼女へと向かっていた。
「まだまだ!」
「痛!?」
続けざまにもう一撃。狙い済ました突きが正中線へと繰り出される。昨夜とは何が違うのか、会心の一撃は終ぞ傷つけられることのなかった彼女の身体を掠める。咄嗟に身を捻らなければ死んでいた。そんな確信がベルナデッタに過ぎる。
その確信は当然弥三郎とて同じ。この二撃では仕損じたものの、確かな感触、命を奪うに足るものを刀を握る指に感じていた。これならば殺せる。この刃、この時ならば、この加護の元ならば殺せる。森の魔女、その加護は巨神の奇蹟すらも打ち破る。
この出陣の直前、彼女を訪ねたのはこのため。ただの刃ではこの聖女はを切る事はできない。奇蹟には奇蹟を持って対する他無く、恥を忍んで森の魔女へと事情を告げ、この村正にその加護を得た。弥三郎の脳裏にあったのはあの夜、互いに名を交わしたあの夜、平家の亡霊との戦い。あの時の刃、あの光ならばこの聖女を討つことも適うはずだと、そう確信していた。
「――ハ!」
しかして、その加護は確かに聖女の守りをも貫く。彼がこの世界に降り立った遠因、軍神の息の掛かったこの刃ならばかの巨神の盾ですら切裂くことができる。
さらに二撃。一呼吸の間に、首を薙ぎ、胴を払う。それぞれの一撃は狙い通りに煌き、聖女の命を脅かす。こうなってはかの聖女とて所詮は人の子と変わらない。
周囲では炎に囲まれながらも、両陣営が入り乱れ、戦い続けている。自分達の大将を援護する余裕すら彼等にはない。目の前の敵を倒すこと、ただこの瞬間を生き延びることだけが彼らにできる唯一のことだった。
「――くっ」
それでもなお、彼女は生き延びる。巨神の加護、彼女を聖女たらしめる証は未だに生きている。
脳裏の声に従い、致命の一振りを紙一重でかわす。一瞬毎に傷が増え、命の証が零れ落ちていく。そんな中、煌々と燃え盛る炎、それよりも尚熱く己が鼓動を感じる。生きている、そう実感している。声を聴いたあの瞬間から、旗を担うと決めたその時から、失ってしまったものを今彼女は取り戻していた。
「――っあ!」
死に物狂いで旗を振るい、生き延びるための道を探す。狂おしいほどの充足感が心を満たし、頭の中の声が少しずつ薄れていく。コンテフルナの聖女としてではなくただ一人の人間として、彼女は己が生を求めていた。
「――ぬ!」
遮二無二なっての一撃が甲冑を打ち据え、二人の間合いが僅かに離れた。周囲での乱戦は炎と共に勢いを増している。そんな地獄の中で二人だけが世界から切り離されたように、そこに在った。
「―――は」
一足一刀の間合い。静かに呼吸を整える。互いの視線を通じてその瞬間を待つ。次の交差が最期、どちらか一方が生き残り、どちらか一方が死ぬ。示し合わせるまでも無くそれを確信した。
「――森の巫女が従者、ヴァレルガナ家が客将、下方弥三郎忠弘」
静かに、優しく、まるで愛しい女を口説くように、弥三郎は名乗りを挙げる。目の前の敵はただの女子ではない、敬意を払い、武士として討ち果たすべき敵。ならば、名乗りは至極当然のこと。彼女の奮戦、生き延びようとした彼女の意志に応える義務が弥三郎にはある。
「――ベルナデッタ・オルレアーナ」
その名乗りに聖女は応える。彼女が日の本の武士の倣いなど知るはずもない。それでも、騎士としての誇り、意地、慣習、今まであえて無視してきたそれらを今ならば理解できる。命を掛け戦う彼らにとって唯一の寄る辺、信仰にも等しいものなのだと。
故に応えなければならない。主が祈りを聞き届け、奇蹟を起こすように、彼の誇りに応えることが彼女の信じる自身の在り様だった。
腰に下げた剣。今まで一度として抜くことのなかったその剣をゆっくりと引き抜く。一度も鞘から抜かれることなく、一度として血を浴びる事の無かった刀身が火を照り返す。これより振るうべきは旗ではなくこの剣。命を奪い合う戦場に聖女としてではなく、戦士として向かい合う。殺すか、殺されるか、ここにあるのはただそれだけだった。
「――――参る!」
「――はあああああ!!」
言葉一つ無く互いを理解して、その一歩を踏み込む。間合いは同じ。勝負を分かつのは、ただ己が武と天の運。次の瞬間、この場所で生きているのはどちらか一方だけだ。
何の技巧も無ければ狙いすらも定かではない聖女の一撃。しかしてその一振りは寸分も狂い無く、弥三郎の頭蓋へと。兜を叩き割り、その下の頭蓋さえも二つに割る。そんな確信が彼女の脳裏に声となって響く。
「――え?」
だが、その声が実現することは無い。聖女の一撃は僅かに逸れ、甲冑の当世袖を叩き割るだけ。瞬き一つ彼の動きが遅ければ結果は違っていただろう。勝敗を分けたのは天の運でも、神仏の加護でもない、ただ鍛え上げた武芸が両者の生き死にを決めた。
がくりと身体が揺れた。痛みすらない、彼女が認識できたのは炎に煌いた切っ先だけ。一息に突き出された刃が鎧を貫き、心臓を串刺したのだ。
消えていく視界に彼を捉える。目の前の誰か、自身の命を奪った彼の顔を確と魂に刻み付ける。例え地獄に落ちたとて、その顔を忘れぬために。
刃が引き抜かれると同時に、身体が倒れる。瞬間、地に伏せるはずの彼女を彼が抱きとめる。この敵を、この少女を野晒しにすることはどうしてもできなかった。彼女の在り方、聖女としてのありようはかの森の魔女に近いもの、それを理解してしまったが故に彼女をただ死なせることだけは弥三郎にはできなかった。
「――ああ」
最期の瞬間、束の間の安らぎが彼女に訪れる。燃え盛る炎も、貫かれた心臓も些細なこと。ただその一瞬だけは、誰の声も彼女を導くことはしなかった。それだけがベルナデッタ・オレルアーナという少女に与えられた唯一の救い。彼女は聖女としてではなく、ただの少女としてその命を散らしたのだ。
巨神暦千五百九十年、三つ目の週の七日、その夜明け前のこと。コンテフルナの聖女、ベルナデッタ・オレルアーナは後の『アルカイオスの黒雷』下方弥三郎によって討ち取られた。戦いはまだ、終わっていない。




