60、あるいは暗雲
群がる人の群を搔き分けて、その場所に急ぐ。彼らの帰還した裏門にはかなりの数の兵が集まっている。なかには自身の持ち場すら離れて彼らの元に向かったものすらいる。それほどまでに彼らの出陣は城の兵達を勇気付けていた。
「――”退いて”」
屈強な兵士たちを押し退けるのは簡単なことではないが、彼女にとっては造作もないこと。むしろ苦労したのは彼が何処にいるか見つけることだ。それまでは安心できない。
無事だという事は、再び結んだ繋がりから簡単に把握できる。けれど、怪我をしているかもしれないし、今も確かに感じているこの絆がただの錯覚ということもありえる。以前は確信できていたものが、何もかもが疑わしい。この眼で、この手で、この心で直接確認しなければなにも確信できなかった。
「――ヤサブロウ!」
「巫女殿?」
見つけた。勝利に快哉をあげる兵と、興奮冷めやらぬ馬達の中心に彼女の従者はいた。見たところ目立つ傷はなし、黒い鎧に点々とした赤は全て返り血。数千の先陣の中を駆け抜けてきたとは思えないほどに、彼は壮健だった。
その様にほっと胸を撫で下ろす。感じていた恐怖も、足元から崩れ落ちてしまいそうになる不安も途端に霧散した。彼が無事に帰ってきた、ただそれだけのことで彼女は満たされていた。
「巫女殿、此処はあぶのうござる。城中におられるよう申し上げたはず……」
「無事? 怪我はない? 何処か悪いところとか……」
「……ご心配なく。この弥三郎、ご覧の通り傷一つござらん」
「うん」
差し出された手をゆっくりと握る。伝わる熱は偽りようのない本物、その熱が安心と確信をくれる。
この熱を守るために詞を使い、理を歪めてまで風を吹かせた。本来ならば彼が、あの橋に飛び乗れるか飛び乗れないか、それは運命に委ねるべき事柄。森の魔女にして、神々に仕える彼女が干渉するべき出来事ではない。すべてあるがままに、それが彼女達、森の魔女の掟、本来ならば歪めることのかなわない絶対の不文律だ。
それを破った、ことによっては追放ともなりうる重罪を彼女は容易く犯した。それも全て彼のため、一瞬の迷いも、恐れもない。すべきだと思ったから実行したまでのこと。今の彼女にとって、下方弥三郎は何よりも優先すべきこと。神すらも霞むほどの大事だった。
「……戦いはどう?」
「は、見事に打ち破りましてございます。日の本ならば一番槍の誉れを得られましょうや」
「そう……」
喧騒から抜け、アンナがそう尋ねると弥三郎は誇らしげにそう答えた。落とし穴の混乱に合わせた弥三郎率いる騎馬隊の出陣。オリンピアの戦の定石からは外れたものではあるものの、それだけに絶大な効果を発揮した。
千路に乱れ、踏み荒らされた先陣を立て直すのにはどれだけ早くとも半日は掛かる。壊れた兵器の残骸を撤去するだけでも重労働、残された車井楼や破城槌の復旧にしても時間が必要だ。つまりは三万の軍勢は今日一日を無駄にすることになる。
たった一日、されど一日。ヴァレルガナ方にとってその時間こそがもっとも必要なものだ。王都からの援軍、それがこのアウトノイアの城にたどり着くまでの時間を稼ぐこと。それまで城を守り通す。弥三郎の出陣も、城の外延に作られた無数の罠もそのためのもの。
戦いとは何も敵を倒すだけではない。時を稼ぐこと、味方の士気を高揚させること、飯を炊くこと一つにしても戦いだった。
「勝てる?」
「む、そればかりは未だに定かとは言いがたく……いやはや、某の不徳の致すところでございます」
ここまでは全て、ヴァレルガナ方の思惑通りに事は進んでいる。初戦の勝利を収め、城の士気が最高潮に達している。並大抵のことではこの団結の盾は破れない。
それでも勝てるとは限らない。勝敗は時の運とはいうが、此度の敵は三万を超える大軍。一つの油断、僅かな綻びが敗北に直結する。初戦を収めたことに喜びはするものの、それに浮かれているような余裕は一切ない。戦はまだこれからだ。
「…………また出陣する?」
「いえ、二度も同じ策が通ずるほど敵も容易くはござらん。別の策をこうぜねばなりますまい」
「……そう」
戦はまだ終わってはいない、それは彼女とて理解している。戦が続く以上は彼は戦い続ける、誰よりも前で、どこよりも死に近い前線で己が武を振るい続ける。否、たとえ死すると分かっていても、死すると分かっているからこそ、彼は戦い続けるだろう。
「――アンナ殿?」
「……なんでもない、私は大丈夫」
慣れない笑顔を浮かべ、そう返す。内心の不安を今は伝えられない、戦いにいく彼に余計なものを背負わせたくはなかった。
戦いが続く限り彼は死を背負い続ける。それが分かっていても、彼を止めることはアンナにはできない。例え主であっても、どれだけ彼を”愛している”としてもそれはできない。彼を引き止め、戦いに生かせないようにすることは難しいことじゃない。ただ、そう命じるだけでいい。自分を連れて、この城から逃げ出せと命じれば彼はそうするだろう。それは分かっている。
だからこそ、それはできない。彼の在り方を歪めることだけはどうしてもできない。彼の本来の居場所は、此処、戦場だ。そこから引き剥がすことは、彼から生き甲斐を奪うこと。それだけはできなかった。
「さ、行こう?」
「――は」
彼がこの場所から逃がすことができないのなら、死と向かい合い続けるなら、彼女もまたその傍にあり続けるだけ。もう迷いも、恐怖もない。森の魔女の加護をもって彼を守り続けるだけだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
タイタニアの先陣は再びその体勢を整えるまで、半日を費やすことになった。兵器の半数を損失し、数百近い犠牲を出したものの、それでもその数は膨大。ヴァレルガナ方の虎の子ともいえる落とし穴も、あると分かってしまえば大した障害ではない。
問題は再び、してやられた、ということ。三万の大軍勢、巨神の御手とも謳われるタイタニア軍がたかだが千二百のヴァレルガナ軍に二度目の敗北を喫した、その事実が問題だった。
「なんともまあ、情けなきことよ。なあ、カストル卿?」
「は、は、面目なく……」
軍議の場、その上座に座す老将がそう若輩の将を責める。周囲に座した将たちもそれに口を差し挟むことはない。確かな緊張がこの場には満ちていた。
その緊張の源こそがこの三万の軍勢を差配する総大将、レバンス枢機卿だ。既に老年に差し掛かったその相貌に刻まれた皺と傷は、彼の経験を如実に物語っていた。
前任のガストン司祭長とは違い彼は将帥としての経験を積んだ所謂将軍司祭ともいわれる派閥の出身であり、帝国相手の戦において確かな実績も持ち合わせている。将兵を統率するだけの威厳と総大将として必要不可欠な狡猾さを併せ持っているからこそ、代わりの総大将として彼が派遣されたのだ。
「まあよい。今日失った面目は明日取り返せばいいのだ、励めよ、カストル卿」
「――は! 必ずや!!」
先ほどまで消え入りそうだった若輩の将が威勢を取り戻す。総大将からそう言葉を掛けられればそれも当然のこと。
北方にて帝国と戦う聖騎士団とは違い、このアルカイオス遠征軍は若い将兵が多い。功を焦って先走るものもいれば、一つの失態で正体を失ってしまうものもいる。そんな未熟ではあるものの、血気盛んな彼らを巧く扱うのも総大将としての資質。その点で言えば、レバンス枢機卿ほど相応しい総大将はいなかった。
「さて、諸君! 今日はいいようにやられたわけだが、明日よりはそうはいかん! だれぞ策のあるものはおるか!」
良く通る声で枢機卿は居並ぶ将にそう呼びかける。形ばかりの呼びかけではない、何かの策があるならば忌憚なく述べよと、そう宣言したのだ。幕内においての位と教会内での位が直結するタイタニアにおいては珍しいことといえるだろう。
総大将の独断で決めてしまうのは簡単だが、今日の失敗を鑑みれば将たちの同意を取り付けてしまったほうがいい。もはや功を焦っての失態など容認できない、軍律違反の先駆けを抑制するためにもここで全員の納得を取り付けておく必要があった。そのためにはこうして軍議を開き、献策させるのが最も効率的だ。
「ほう、確かアルテアといったな? 良いぞ、忌憚なく述べよ」
「――は」
誰もが緊張に口を紡ぐ中、居並び将たちの中でも最も歳若い将、アルテアが口を開いた。
「明日の戦では、我ら、我ら前軍をどうか先陣へとお加えください。機会さえいただければ、必ずや戦功を……」
「――ふむ、先陣にか」
この遠征軍の将は第一陣、即ちラケダイモニアの砦攻めに参加した前軍の将と枢機卿と共に合流した本軍の将で構成されている。本日の城攻めにおいて、先陣を差配したのは本軍の将だった。
対して、総大将を討たれるという失態を犯した前軍の将たちは後方にて留め置かれ、ただ待つのみ。その不名誉を返上する機会さえ与えられてはいなかった。
「どうか? カストル卿? 儂は良いと思うのだがな」
「は、閣下そう仰るのなら、私に依存はございません」
「うむ、蟠りは戦場にて晴らすがよい。騎士ならばそれができよう」
意外なほどあっさりと、レバンスは前軍が先陣に加わる事を許した。功を焦るのは法度だが、功を競り合うのであればそれは些かの問題もない。むしろそれで若い将たちが発奮するのなら構わない。
「では、明日よりの城攻めは前軍、本軍共にことにあたる。皆の衆、それで構わぬな?」
「――は」
居並んだ将の意思が、その一声で一つになる。立場の違いはあれど、彼は皆、タイタニアの将。これ以上、異教徒に侮られるわけにはいかない。その一点においては見事に一致していた。
「一つ、宜しいでしょうか?」
控えめでありながら、透き通る声が凜と響いた。その声に居並んだ将が佇まいを直す。彼らにとって彼女はそれだけの存在、総大将に向けるものか、それ以上の敬意の値する存在だった。
「申しわけありません。傷を負われた皆様の手当てをしていたものですから……」
陣幕を潜り現われたのは、彼らの聖女たるベルナデッタ。純白の僧服には彼女のものではない血で濡れていた。
「さすがは聖女殿! 傷の手当までなさった上、献策までなさるとは…………これでは我らも立つ瀬がないな?」
「も、申しわけありません。出すぎた真似を……」
からかうような、何処か冗談めかした枢機卿の態度にベルナデッタは生真面目に萎縮してしまう。どれだけ聖女と讃えられ、それに相応しい才覚を持つといっても、彼女は未だ二十歳にも成らぬ少女。居並ぶ将や枢機卿を前にして肩の力を抜けというほうが酷だろう。
「いやいや、からかいが過ぎましたな。是非にお伺いしたい、忌憚なく申されよ」
「――は、はい。一つだけ。私程度の考えで宜しければ……」
場の注目を一手に集め、少女のような、いや、少女のそのものといった恥じらいをもって聖女は言葉を紡ぐ。
彼女は決してこの場の将たちの様に軍略に精通しているわけでも、枢機卿のように豊富な経験を持つわけでもない。そのことは、後に書かれたどの書物、タイタニア側の公書簡においても明らかなことだ。だというのに、否、だからこそ、彼女の献策は誰にとっても埒の外、タイタニア側のどの将にも思いつきもしないものであった。




