58、あるいはこの敵こそ
ベルナデッタ・オレルアーナ、その名がヴァレルガナの騎士たちに齎した衝撃は察するに余りある。コンテフルナの聖女、その威名はこの地にまで及んでいる。タイタニアの旗振り女、勝利の導き手、そう呼ばれる存在が、今この場に、敵として現れた。その現実が与える意味は、敵の総掛かりにも匹敵する。
「――こちらには降伏を受け入れる用意があります。勿論、幾つかの条件を飲んでいただかねばなりませんが……」
「…………は?」
その使者が最初に口にしたのは、ヴァレルガナ方にとっては意外な提案だった。この期に及んで降伏を受け入れるなど、本来ならばありえない。既に戦火を交え、あまつさえ弥三郎らによって司祭長までもが討ち取られたのだ。もはや、戦しかない。双方共にその覚悟をしていたし、その腹積もりだった。
使者の到来は形式的なもの、これから戦を行うための挨拶のようなものだというのが暗黙の了解、和戦何れか問い、戦と答えるだけの通過儀礼のはずだった。だというのに、使者は降伏を口にした。受け入れる用意があると、幾つからの条件さえ呑みさえすれば、それでいいとまで口にした。居並んだヴァレルガナの騎士達が言葉を失ったのも無理からぬことだろう、それほどまでに使者の、ベルナデッタの言葉は予想外だった。
その上、ベルナデッタは何の含みもなく、本心から降伏を勧めている。この城のためには、そうすることが最善であると心からそう信じて、降伏を口にしている。敵地にあるという恐怖も、怨敵に対する敵意もない、心からの善意で彼女は行動している。そのことが余計、ヴァレルガナ方を困惑させていた。
「なにか……なにか、間違った事を申し上げましたでしょうか?」
「――いや、して条件とは?」
長の沈黙に耐えかねたのかベルナデッタは周囲を見渡してそんな事を口にしていた。その様子だけみれば、年頃の街娘と何も変わらない。周囲の騎士達の中にはその様子に笑みを浮かべるものまでいる。毒気を抜かれると言えばいいのだろうか、ある意味間の抜けた彼女の姿が居並んだ騎士達の緊張を解してしまっていた。
そんな中でも敵を見据えるものもいる。城主たるアレンソナ、城の知恵たるグスタブ、そして、弥三郎は目の前の難敵を確かに見極めようとしていた。
「はい。読み上げさせていただきます」
そういうと、彼女は懐から一巻きの書状を取り出す。書状には、巨神の手の紋章に枢機卿の花押、間違いなくタイタニアの正式な書簡。そこに書かれている言葉は、タイタニアという国の詞といっても過言ではない。
「一つ、将兵皆軍装を解いた上で開城、その上で、速やかに城を明け渡したること」
最初に読み上げられたのは当然といえば当然の条件。降伏する以上は、城を明け渡すのは必定だ。条件というには、あまりにも当然のことだった。
タイタニアはこのアウトノイアの城を占拠し、アルカイオスへの橋頭堡とする。本来ならば、ラケダイモニアの砦に担わせるはずだった役割をこの城に担わせる。この城に集った戦力を全て、自分たちの陣幕に取り込もうとしているのだ。
「二つ、ガストン司祭長の十字架をこちらに返還のこと。また、そちらに囚われたる捕虜があれば解放のこと」
二つの目の条件もまた、至極当たり前なもの。仮に降伏するとして、差し出すものとしては必要最低限といってもいい。ヴァレルガナ方には失うものはほとんどない、降伏の条件としてここまでは格段のもの。彼らがタイタニアに与えた打撃に比べれば、あまりにも甘い。戦そのものを避けたい、そんな意図すらこの条件からは見え透いていた。
「――三つ、ガストン司祭長を討ち取りし将をこちらに引渡したること」
そうして、三つ目の条件が口にされた。その瞬間、居並んだ騎士たちの間でざわめきが起こる。敵意や驚き、そして僅かばかりの安堵、様々な感情が謁見の間では渦巻いていた。
司祭長を討ち取った将の引渡し、それは即ち下方弥三郎とヴァンホルト・フォン・ユーティライネンの両名を差し出せという事。司祭長を討ち取った両名を自分たちの手で処刑する、それがタイタニア側の提案した最後の条件だった。
「以上の条件を全て承服していただけたなら、城主ヴァレルガナ辺境伯以下城の将兵は一切の罪を差し許すと、枢機卿聖下からお墨付きをいただいております」
そんな常套句で、彼女は言上を締めくくった。実質、タイタニアが求めたのは、たった二人の命。そのたった二人の命を差し出しさえすれば、城主以下将兵全員の命を保証すると、この使者は臆面なく言い放ったのだ。
「疑っておられるなら、その心配は無用です。我々の信仰にかけて皆様のお命を保証いたします。もし、それでもご心配ならば、私を質に取られてもかまいません」
護衛の騎士達の制止も意に介さず、使者たる聖女は自らを人質にせよ、とそう宣言した。もしこの条件を呑むのなら、一切の偽りなく将兵の命を救うと、そう本心から口にしているのだ。
「――差し出される方についてご懸念為されているのですね。どうかご安心を、例え罪があれど本心から悔いるのならば、その魂は必ずや巨神の御手に導かれましょう。私がそのお手伝いを致します」
なかなか返答しないヴァレルガナ方の対応を怪訝に思ったのか、彼女はそんな気休めを心から口にしていた。たとえ同胞を差し出したとしても、その末路について心配は要らないと。
巨神教に帰依するものにとって、その信仰が本物である限りは死は恐れるものではない。教えに殉じ、その命を差し出すものは巨神の御許へと導かれ、永遠の命を与えられる。その死後の救済は、例え敵であっても変わらず齎されるのだと、彼女はそう嘯く。救いがあるのだから、死を恐れる必要はないのだと、総臆面もなく言い放ったのだ。
「…………」
「いざ、返答を。そう時間はございませんので……」
ベルナデッタはこの降伏が退けられるとは露ほども考えてはいない。城方が差し出すのは僅か数名の命のみ、その犠牲で残る一千人以上の命と安全を得ることができる。その犠牲にしても、ただ死ぬわけではない。その魂の救済を約束しようというのだから、犠牲という言葉すら相応しくない。ただ白旗を掲げ、城を明け渡すだけで彼らの命は保証されるのだ、一体何処に不足があろうというのか。
「――使者殿」
城主たるアレンソナが重々しく言葉を発する。何をどう言上したとしても、最終的に決断を下すのはヴァレルガナ辺境伯、その人。彼がどう考え、何をとり、何を切り捨てるかで、城の命運は決するのだ。
アルカオイオスへの忠義や義理、騎士としての誇りを天秤にかけたとしても、結果は見え透いている。城主として、あるいは為政者として判断を下すのなら、この申し出を受けるべきだ。ラケダイモニアの一戦とその戦果で、王国への義理は果たしている。三万の軍勢に膝を屈し、降伏を受け入れたとしても、誰に責める事ができよう。
まして差し出すのは、何処の生まれとも知れぬ異民族の客将と歳若い騎士長の二人。犠牲というには、あまりにも安い。
実利を重視し、民の安寧を願うのなら答えは決まっている。タイタニアとて城下の民を無碍に扱うことすまい。それに一度この城を明け渡したとしても、また再び、王都からの援軍と合流し再びこの城を取り戻すことも不可能ではないはず。ここで退くことは決して愚かな選択などではない。
「折角の申し出ではあるが、断らせていただく。我らの返答は戦、立ち返ってそう枢機卿に申されよ」
アレンソナの返答は単純明確だった。戦うと、如何に愚かな選択肢であっても降伏はしないと、辺境伯はそう宣言したのだ。
例え二人であっても、同胞を差し出しての安寧などこちらから願い下げだ。誰がその降伏を責める事がなくとも、この場に揃った騎士達は決してそんな恥知らずな真似はしない。異民族とはいえ弥三郎は、彼らにとっては共に死線を潜り抜けた戦友。血を分けた兄弟よりも、親と子よりも、その絆は深く、強靭だ。
「お断りする、と申しておるのだ。我らはヴァレルガナの騎士、誉れあるアルカイオスの臣下である。いやはや、矛を交えぬうちから白旗を上げるような臆病者と侮られるとは…………」
辺境伯がそう言って嘆いてみせると、周囲の騎士たちが気勢を上げる。先ほどまでの敵意を溶かされていた彼等は何処にもいない。騎士として戦士として、戦うべき敵を見据えている。
「それが城の総意だと、そう仰られると?」
「――然り。ラケダイモニアの砦同様、我らヴァレルガナの騎士は、輩を見捨てはしない。それが例えたった二人だったとしても、だ」
異を唱えるものは一人としていない。アレンソナの言葉は即ち、この城の総意だ。彼等は決して輩を差し出しはしないし、忠義を忘れはしない。どれほど破格の条件を提示しようとも、最初から返答は決していた。ラケダイモニアの砦への救援を決めたあの時から、あるいはその遥か以前から、彼等は騎士だ。
ベルナテッダにとって計算外があるとすればそれだけ。彼らに誇りを捨てろと要求することは即ち、信仰を捨てろと迫るに等しいという事を彼女はわかっていなかったのだ。その前には死すらも恐れるにたらないのだと、それを理解していなかった。
「――わかりました。せめてものこと、あなた方の魂を御手が救いが掬い上げてくださることを祈ります」
捨て台詞などではなく、心から。これから敵となり、命の奪い合いをする相手の救済を彼女は祈る。敵味方の区別など信仰の前では些細なこと。ヴァレルガナの騎士たちに誇りがあるように、彼女にも矜持がある。
だからこそ、この使者に志願した。例え敵でも救いを齎す機会があるのならと、無理を言って使者へと立ててもらった。無為には終わったものの、それを悔いることも、相手に責を負わせようとも思わない。ただ、説得することのできなかった己の不徳を戒めるのみだ。
「…………侮りがたし」
その姿はいっそ清々しくもある。女の身でありながら敵地へと乗り込み、己が意地を貫き通す。それも震え一つなく、感嘆するほどに堂々と。寝物語に語られるような見事な大立ち回りだった。
だからこそ、侮りがたい。弥三郎の戦慄は、予感ではなく確信。彼女がかのコンテフルナの聖女と知らずとも、分かることはある。敵は三万の軍勢ではなく、この使者、この幼さを残した少女こそが最大の敵だとそう弥三郎は見定めていた。




