57、あるいはその使者が
それからの三日、三日間は息つく間もなく矢のように過ぎていった。急使に呼び戻され、パウサニアス山脈からとんぼ返りしてきたヴァンホルトたちとの再会を喜ぶ暇も、ラケダイモニアでの大手柄を祝う暇もない。来るべき戦に向けて城の全てが忙しなく動き続けていた。
そんな中でも、いや、そんな状況だからこそ、客将として活躍する弥三郎の傍には常に森の魔女の姿が在った。影のように寄り添って、一歩たりとて離れることなく、彼女は弥三郎の傍にあった。一度離れてしまえば、もう二度とそこにあることができないのだと、そう恐れるように。
けれども、その僅かな間でも彼女にとって久方ぶりの安寧だった。彼の傍にあるだけで、あれほど恐れた戦でさえ遠い国の出来事のように思えたし、段々と力を失っていく現実でさえ、何のことはないと思えた。そう、ただ、弥三郎の存在だけで彼女は救われていた。この瞬間が永遠となるなら、それで良いとそう思えるほどに、彼女は下方弥三郎という存在を愛していた。
しかし、安寧は長くは続かない。日が沈む事を止められぬように、一度堰を切った大河が全てを洗い流していくように、その時はいずれ来るのだ。
「――敵だ! 東の方に、敵の影あり!!」
八の月、四日目の朝、敵は現れた。地平線の彼方、昇りゆく太陽を塗りつぶすような黒点のような大軍が現れた。
翻る巨神の御旗と共に、三万の大軍勢がヴァレルガナの地を蹂躙する。とてもではないが、散々に打ちのめされ、総大将を失った軍勢とは思えない。天を突くように掲げられた槍の穂先は、揺るぐことなく一列に。一糸乱れぬ行進は見るものに畏怖さえも抱かせ、時折吹き鳴らされる角笛は立ちはだかる者の意気を正面から打ち砕く。正しく勇壮、巨神の御手と謳われ、オリンピアにて最強と謳われる軍勢がそこにはあった。
されど、ヴァレルガナの軍勢は一歩たりとて退きはしない。今更逃げ出すようなら最初から戦いもせずに頭を垂れている。事此処にいたれば、最後まで戦い続けるまで。それが城の総意であり、そんなことは城の外から見ても明らかだった。
「……ヤサブロウ」
「巫女殿、城の内へ。某もすぐに参りますゆえ」
握った手から伝わる震えを打ち払うように、弥三郎はアンナの小さな手を握り返す。これからは戦、彼のいる場所は絶えず戦場となる。いつ何時、矢が、槍が、剣が、あるいはその全てが同時に降りかかるような場所に彼女をおいておくわけにはいかない。
「いや、一緒に行く」
「巫女殿、困らせてくださるな…………」
そんな気遣いは無用とばかりに、彼女は弥三郎から離れようとはしない。槍も剣も、如何なる武具ももはや恐れるに値しない。もう一度あの孤独を味わうくらいならば、身を引き裂かれるほうがいい。死したとしても、それだけのこと。抱えていた恐怖など、もはや存在していなかった。恐れることがあるとすればただ一つ、再び弥三郎を失うことだけだ。
「…………致し方ない、傍から離れられぬよう」
「わかってる」
説得は無為と悟ったのか、弥三郎は仕方なしにアンナをつれたまま、城壁へと向かう。これからどう動くにせよ、自分の目でこれから戦う敵を確かめておきたい。
人混みの中を搔き分けて、城壁への階段を昇る。その間もお互いに逸れないように手を繋いでいた。両者にとってそれは自然なことであったし、それを気にするような余裕も周囲にはなかった。
城壁の上までたどり着くのには数分の時間を要した。分かっていたこととはいえ、実際に敵を目の当たりにするのと、そうでないのでは大きく違う。戦意の昂ぶりと迫る戦いへの恐怖の鬩ぎあいが兵たちの間では最高潮へと達していた。
それは弥三郎とて同じ。これからの戦いは攻めるためのものではなく、守るためのもの。弥三郎にとっても、未だ嘗て経験したことのない篭城戦の始まりだった。
「…………勝てる?」
「――必ずや」
勝てないとは、決して口にしない。必ずや勝つと、この城を守り通して見せると自分自身を鼓舞する。この小さな主を前にして弱気を見せられようはずがない。武士としての意地と矜持、その二つが僅かな同様を吹き飛ばした。
眼下にあるのは、地平線まで続くかのように思える敵の大軍勢。ラケダイモニアの砦にて大打撃を被ったはずの敵は、その威容を以前にもまして誇っている。一糸乱れぬ三万の軍勢など、弥三郎とて目の当たりにしたことがない。その姿は正しく巨神の歩み、一つの生き物となった大軍勢がヴァレルガナの領地を押し進んでいた。
「あれはなに?」
「あれは……なんと、車井楼か。城攻めのためのものでござりますれば……」
軍勢の中には、ラケダイモニアの地では見受けられなかった異様が混じっている。巨大な丸太に車輪を括りつけた破城槌に巨石の載せられた投石器、それに続くのは攻城櫓と雲梯。固い門を、積み上げられた城壁を打ち崩すための攻城兵器が一式取り揃えられている。ラケダイモニアのときのような間に合わせの戦力ではない、アウトノイアの城を陥落せしめんがための準備をタイタニアは完成させていた。
城壁の上からは様々な事をうかがい知ることができる。少なくとも弥三郎は、陣立ての様子から、敵の意図、兵糧を確保するための補給線がどのように延びているのかまで、大よそのことはこの場所から把握していた。
狙いは包囲ではなく強攻。城の門を打ち破り、城壁を打ち崩し、短期間で決着を付ける、という意図がその陣容に表れていた。それはヴァレルガナ方とて織り込み済み、三万の大軍勢の猛攻といえど防ぎきる腹積もりだった。
「…………?」
城壁の上から、軍勢の端々までを見渡していると、突然、巨神の行進が、その歩みを止める。こちらから弓で狙うには僅かに遠い、あちらから弓で狙うにしても同じく。彼我の距離は、そんなもどかしさのまま停止していた。
「使者を送るのでしょう。和戦何れか、尋ねてまいりましょうよ」
「今更?」
アンナの疑問はもっともなものだ。ヴァレルガナとタイタニア、いやアルカイオスとヴァレルガナの両国はとうの昔に手切れとなっている。ましてや、ヴァレルガナ軍はタイタニアに奇襲を仕掛け、総大将まで討ち取ったのだ。今更和議が成る、ことなど万が一にもありえない。あとは戦うのみ、選択肢などとうの昔に捨て去っている。
「まあ、慣いでござれば。少なくとも日の本ではそうでござった」
「そういうものなの?」
「戦といえど慣いはござる。濫りにそれを破るようでは、味方の信も、敵の信もえられませぬ」
戦争にも決まりがある、それはアンナにとっては些か不可解なことだった。あんな熱狂と死と、混沌の真っ只中に秩序があったのだとは、俄かには信じがたい。
だが、弥三郎の言うことだ。間違っているはずがないと、無理やり納得する。不規則に見える森の営みにも決まりが在るのだ、戦にも決まりがあるというはある意味当然のことなのかもしれない。
「――旦那!」
「ロベルト! ここにおるぞ!」
階段のほうから、ロベルトが呼びかける。急いで人混みを掻き分けてきたのか、それともなにか他に憂慮すべき事態がおきたのか、その顔にはわずかに焦燥が浮かんでいた。
「……使者が来た。謁見の間に通して口上を聞くから、あんたも列席して欲しいってさ」
端的に用件を伝えながらも、どこか歯切れが悪い。何か納得がいっていないような、理解できないものを目撃したかのようなそんな印象をうける。ロベルトらしからぬといえばそうだった。
「――如何した?」
「いや、見れば分かる。とにかく来てくれ」
百聞は一見にしかずと、ロベルトは先を急ぐ。タイタニアの使者、その来訪は漠然とした不安を城に蔓延させ始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
謁見の間にはすでに城の重臣たちが一堂に会していた。獅子の紋章と蒼い外套を纏った彼らが居並んだその姿はある種の美しささえ演出している。これから招き入れるタイタニアの使者に一部の隙も見せるわけにはいかない。見せ掛けだけでなく、この城が一致団結した戦力なのだと示す必要があった。
「――使者殿、ご入来!」
番兵が使者の入室を告げる。居並んだ重臣たちに俄かに緊張が走る。使者がどのような人物であれ、要求ははっきりしている。和戦何れか、その答えはとうの昔に決まっている。この謁見は互いの戦力を、覚悟のほどを測るだけの場に過ぎない。ある意味では、この謁見もまた戦いなのだ。
謁見の間の扉がゆっくりと開き、使者があられる。護衛の騎士たち数名を先頭として、使者団の総勢は十数名。敵の本拠地へと乗り込むには心もとないその数は、使者として選ばれた人間の豪胆さを窺わせる。只者ではない、それだけは確かだった。
「――!」
そうして、肝心の使者が姿を見せたその瞬間、少なからぬ動揺がヴァレルガナ方に走った。使者に選ばれるだけの人間が常人でないということは分かっていたが、これはあまりに予想外に過ぎる。いっそ、百戦錬磨の猛将が現れたほうが幾分か対処のしようがあった。
現れた使者は、女。それも年端のいかぬ少女だった。白い修道服の上にはそれに相応しからぬ甲冑、戦場に女性がいるという事そのものが、滅多にないことだというのに、その姿はあまりにも異様だった。
「――――」
あまりのことに、城主たる辺境伯ですら言葉を失っていた。本来ならば、誰何の声を掛けるべきだというのに、それすらも忘れてしまうほどに目の前の存在は異質だったのだ。
周囲の奇異の視線に気付いていないのか、それとも気にしていないのか、その使者は謁見の間を進み、慇懃に跪く。
「――使者としてまいりました。名をベルナデッタ・オレルアーナと申します、枢機卿聖下の名代として参りました。以後、お見知りおきを」
涼やかな声と花のような笑顔。まるで戦場には似つかわしくないその姿。一切の影を感じさせないその在り方こそが、ヴァレルガナにとって、アルカイオスにとっての、いや、弥三郎たちにとっても最大の敵となるのだとは、誰一人として予想だにしていなかった。




