3、あるいは始まりの時
大樹の森南端に位置するネモフィ村には奇妙な風習が残っている。
その風習とは、一年に一度、森に住まう魔女達に生贄を捧げること。
村で一番美しい娘と、樽一杯の葡萄酒、籠を満たす麺麭の山、乾し肉や乾物の類。それを一年に一度、七の月の最初の日に貢物として差し出す。そうすることで魔女達からまた一年の間、森の恩恵に預かる許しを得る。
しかしながら、生贄といっても実際に娘が死ぬことはない。生贄として差し出された少女達は夜が明ければ、変わらぬ姿で戻ってくる。
その代わり、祭壇におかれた食料は全て消えており、そのとき何があったのか娘達は覚えていない。
儀式が始まってから百年以上が経過し、形骸化した生贄は名誉となり一種の娯楽ともなった。
なにせ生贄には村で最も美しい娘が選ばれるのだ。村娘達は着飾り、若者達はそのさまに熱狂する。年に一度行われる生贄を選ぶ儀式はネモフィ村においては最大の関心事だった。
今年、生贄の栄誉を受けたのは村長の娘であるアイラだった。
そのアイラは今、必死に逃げていた。
彼女を追うのは六人の盗賊。彼らは剣を手に下卑た笑みを浮かべて、走っている。
アイラを追うのはただ獣欲からだった。
彼らとて生まれた頃から、このような無頼の生活を送っていたわけではない。今は二百という数に成った彼らの中には元は農奴のものも、元は兵士だったものも、元は貴族だったものもいる。
貧しかった。ただただ貧しかったのだ。畑から取れる作物は、税には足りても食うには足りず、ただ飢えるしかなかった。
だから、奪った。それが彼らの最初の理由だった、それは悪と断じるには余りにも切実で、善と許すにはあまりに酷な理由だった。
確かに、最初はそうだったのだ。けれど、暴虐を繰り返すうち、彼らのあり方は変わった。
奪えば奪うほどより多くを求めるようになった。苦痛を伴ったはずの悪行にいつしか快感を感じるようになった。大きく膨れ上がり、いつしか、最初の理由は忘れ去られてしまった。
名前のない飢狼の群、それが彼らだ。
そんな彼らが目の前に置かれたご馳走を見逃すはずがない。
「おいおい! 逃げんなよ、嬢ちゃん! やさしくすっからよ! なあ!?」
「――っは、は、は」
アイラはもつれる足を叱咤して、必死で走った。こうなった経緯が走馬灯のように思い出された。
籠に入り、祭壇で魔女を待っていた。物音がして外をのぞくと、そこにいたのは魔女への捧げものを食い漁る男たちだった。
すぐに村人間ではないと分かった。であれば、その正体は何か。考えるまでもなくわかった。近隣の村を荒らしまわっているという盗賊団だ。
恐怖に尻込みすることなくすぐさま逃げ出すことができたのは、彼女だからこそだ。他の村娘ではこうはいかない。
「ああ、この! うっとおしい!」
ただ走るだけなら、森の端まで走るくらいわけはない。しかし、生贄として着せられたごてごてした衣装がこれ以上なく邪魔だった。
この衣装ではいつ足を取られるか分かったものではない。今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたかった。
盗賊に対する恐怖はない。だが、捕まることそのものへの懸念はある。
あれは斥候だ。ならば、盗賊団の本隊が近くに来ているはず。それを一秒でも早く村に伝えなければならない。
盗賊団について噂には聞いていたが、今までは他人事だった。
だが、今は彼女自身と愛するネモフィ村が当事者になってしまった。彼女が村まで辿り着かなければ、噂と同じ末路を辿ることになる。皆殺しだ。
「まずっ!?」
案の定、木足を取られた。脚絆の装飾が木の枝に絡まり、前のめりに膝をつく。すぐ背後には追手の気配だ。
追いつかれる。追いつかれればそれで全て終わり。村は救えず、自分も殺されてお終い。それが彼女の結末、そうなるはずだった。
「捕まえた!」
無防備な背中に男の手が掛かる。必死に踏み出した足が空を切る、前に進むことはできずにそのまま倒れた。
「――いやあああああ!」
そこに来て、堪えていた感情が爆発した。犯されることへの、死への、大事なものを全て奪われることへの、あらゆる恐怖が一緒になって噴出したのだ。
それでもしかと目を見開き、前を見据えていたのは彼女のせめてもの抵抗だった。
瞳が大きな獣を姿を捉える。刀を帯びたその獣の名は下方弥三郎忠弘といった。
◇
こうと決めた瞬間の、弥三郎の動きは素早かった。
一息で木の陰から飛び出すと、足元の根を蹴って、矢のように飛び掛る。
「――あ、!?」
間合いに踏み込んで、声もなく刀を抜き打つ。喉元を一閃。一瞬遅れて、男の喉から血が噴出した。
まさしく閃光、殺害の決心からその実行までは一瞬の時間も要していなかった。
「――ふ」
弥三郎は止らない。
一人は殺した、残りは五人だ。足音と気配だけで、弥三郎は敵の数を正確に把握していた。
「――く、てめえ!」
仲間が倒されて初めて、彼らは敵を認識する。遅きに失したといわざるをえない。この段階で既に勝負はついていた。
刀が振るわれる。弥三郎は一番動きの早い敵を狙った。残された五人の内、真ん中にいた一人の手首を刎ね、そのまま首を落とす。
続けざまに隣にいた男を狙う。苦し紛れに振るわれた剣の横腹を叩いて捌き、鎧の隙間に刀を突き立てる。
苦しそうな声を上げる男の腹から刀を引き抜き、その場から飛ぶように離れる。これで三人、残りも三人だ。
放たれた矢を大樹を盾にすることでかわす。
残る三人の注意は完全に弥三郎に集中している。離れた木陰に隠れた魔女には誰も気付いていない、腰を抜かしている村娘のほうも同じだ。
弥三郎の狙い通りに戦闘は進行していた。
一本、二本、次々位置を変えながら、矢をやり過ごす。息を潜め、気配を殺し、少しずつ間合いを詰めていく。
矢が尽きたのを見計らい、弥三郎は再び大樹の裏から飛び出す。木々の合間を縫うようにして、弓をもった盗賊の背後へと回り込む。
そのまま振り返る時間も与えず、袈裟懸けに切り下ろす。足元の木の根を踏み砕く勢いで、踏み込んだ。
村正の刃は何の抵抗もなく鎧を切断した。
だが、切れすぎた。肺までで刃を止めるつもりが、胴の中ほどまで刀が食い込んでいる。これでは引き抜くのにも踏ん張らなければならない。その時間はなかった。
「畜生が!!」
「――ぬるい、南蛮は腑抜けばかりか」
刀を手放すことで、縦一文字の斬撃を躱す。
奇襲とはいえ一対六、それほどの戦力差があったのに既に有利不利は逆転している。例え脇差一本でも、弥三郎の有利は揺るいでいない。
一撃、二撃、三撃。二人分の連撃を脇差で逸らし、いなし、機会を見極める。
「くそがああああああ!!」
その機会は直ぐに訪れた。
四撃めの大上段をかわし、間合いの内へと身を躍らせる。この至近距離では残る一人も助太刀のしようがない。
剣を握る右手を切りつけ、怯んだところに体当たりで体勢を崩す。間髪入れず、首に脇差を突き立てた。
男の口から肺に残った空気が漏れ、息絶えた。これで五人、次で最後だ。
「あ、あ、ああ…………ヒッヒィィィ!?」
「逃がさん!」
堪らず逃げ出した男の背中を弥三郎が追う。
四番目に倒した男の腕から弓を奪い取り、矢を番えた。
引き方を知らぬ短弓を力で捻じ伏せる。森は暗く視界は悪いが、逃げ出した男との彼我の距離は三間と少し。この間合いならば目を瞑っていても当てられる。
「――ガ」
力で放たれた矢は真っ直ぐに飛び、男の首を寸分違わずに貫いた。頭を狙ったものが逸れたものだが、結果は同じだ。
「あ、ああ、え?」
「……すごい」
魔女たちは瞬く間に六人を殺戮した弥三郎の妙技に、そんな他愛のない感想しか浮かんでこなかった。
何をどうしたのかまるで理解できず、ただその手際の美しさに見惚れることしかできないでいたのだ。
「――ふむ、やはり鈍っておるな」
それに対して、とうの弥三郎は口惜しげに唸った。
慣れぬ洋弓での一射とはいえ、頭を狙ったはずの矢が僅かに逸れた。本来ならこの距離で的を外すような弥三郎ではない。傷の影響が残っていた。
死体から刀を引き抜き、血を払う。ゆっくりと鞘に仕舞い、倒した盗賊たちを観察する。
哲西の鎧甲冑の仔細は分かりかねぬものの、その質ぐらいなら弥三郎には判別できた。
この斥候達の纏っている鎧は山賊の類のものにしては些か質がよすぎる。しかし、寸法があっていない。どこぞの家中の兵、そうみるにはあまりにもお粗末だった。
精々南蛮の山伏、野武士の類といったところだろう。武具も戦場で屍漁りをしたのだと考えれば納得がいった。
「巫女殿、よろしいぞ。片付け申した」
「あ、え、そ、そう」
後始末を終えた弥三郎が木の影に隠れていた森の魔女に声を掛けた。
もともとわざわざこの盗賊たちへ弥三郎が襲い掛かったのは、彼女の為だった。
あのままいけば彼女が見つかっていた。
そうなれば盗賊たちが魔女を見逃すはずもなく、弥三郎は非力な恩人を守りながら六人を相手に立ち回るはめになっていた。
そうするよりは自ら仕掛け、敵に反撃を与える間もなく始末したほうが安全。そう判断して、果敢に切り掛かったのだ。
その結果は一目瞭然、戦闘は完全に弥三郎の目論見どおりに運んだ。
なんのことはない、この程度の修羅場はいくらでも潜り抜けてきた。
「さて、進みますかな?」
両手を合わせ、瞠目すると、先ほどまでとは人が変わったような呑気さで弥三郎はそういった。
目の前に転がる六つの死体にはなんの関心も抱いていない。実際のところ、功名首でもない首に頓着する気はなかった。手を合わせ、最低限の礼は払ったのだからそれでいいと、完全に割り切っていた。
「…………先に埋める」
魔女も一切動ずることなく、杖を取り出して弔いの準備を始める。
彼女にしても、生きている人間よりは死んでいる人間のほうが見慣れている。死体が幾つ積み重なっていようと動揺はしない。むしろ動き回って息をされるほうが気分が悪くなるくらいだ。
結果、生存者となったアイラは完全に無視されていた。
「――――ちょ、ちょっと、待ってください!」
だからだろうか、気付いた時には過ぎてゆく二つの背中に声を掛けていた。助けられたことへの恩義からではなく、忘れられたように置いていかれることへの恐怖からの行動だった。
「ん、おぬし、まだ逃げておらなんだったか……腰でも抜けたか?」
「…………」
返り血に濡れた弥三郎に微笑まれ、アイラの中で先程までの恐怖が蘇える。
なにしろ盗賊の斥候に追い回され、続いて現われたのは得体の知れない二人組みだ。怯えるなというほうが無理がある。
恐れにさいなまれながらも彼女は必死で思考を手繰った。
二人の内一人には心当たりがある。
言い伝えに聞く森の魔女その人に違いない。それならば、もしかするともしかするかもしれない。
「あ、あの、森の魔女様ですよね? 私は村の――」
「生贄の人……でしょ。貴方も手伝って」
アイラの問いを完全に無視して、魔女がそう言った。
多少の想定外はあったものの、するべき事は変わっていない。毎年そうしてきたように捧げ物を小屋に持ち帰る。完全に手はずどおり、掟に従い、やるべきことをやる。
それが彼女の人生だ、最近はあまりにも予定外のことが多すぎた。
「だけど、そうじゃなくて」
「……怪我でもしたのか? どれ、おぶってやろう」
「ち、違います……あのその、もしよろしければ貴方に……私たちを」
「…………」
ただただ恐ろしい姿の弥三郎に、話を聞いているかもわからない魔女。その二人を相手に彼女はどうにか食い下がる。
どれだけ恐ろしくても、ここで諦めるわけにはいかない。諦めれば何もかも失うことになる。
「――私を、私たちを助けてください!!」
その声は先程の悲鳴よりも鮮明に森に響いた。
森の魔女が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。アイラの叫びは、下方弥三郎の出現と同じように彼女の人生を大きく変えることになった。
”森の魔女たるもの心より救いを求めるものを決して無碍にしてはならない”、母から伝え聞いた魔女の掟は彼女には絶対だった。
どうも、皆さん、bigbearです。次回はアクションがありますよ?




