56、あるいはその想いこそ
一体あれから、どれだけの日が経ったのだろうか。三日、それとも五日、あるいはたった一日、何もかもが定かではない。窓もなく暗く締め切ってしまったこの部屋ではそんな基本的な感覚ですらも麻痺してしまう。
愛おしい緑も吹き抜ける風はここにはない。視界にあるのは、石の壁と色褪せた置物達だけ。目を閉じても、開いていても、見える景色に違いはない。
以前は違った。どんな場所にあっても、故郷の森から遠く離れたこの城にあっても、瞳さえ閉じれば故郷へと還ることができた。胸いっぱいに吸い込む森の息吹も、肌を優しく撫でる陽の光も、色鮮やか思い描けた。
その世界から色が消えた。灰と黒、なにもかもがそれらに埋もれて、なにもかもから価値が消失した。今まで誇りにしてきたもの、これからも信じ続けていくはずのものが容易く崩れ去っていく。その瞬間は永遠のようで、それが全てにさえ感ぜられた。何時始まったのか、何時終わりを迎えるのか、それすらもわからない。
「――――っ」
時折頬を伝うそれが唯一、自分が此処にいる事を教えてくれる。涙と共に脳裏を過ぎる思い出がどうしようもなく亡くしたものをまざまざと思い知らせる。
二度目の喪失は痛みと実感ではなく、悲しみと空虚を伴っていた。失ったという実感は何処にもなく、悼むよりも先に底のない悲しみに落ちていく。
自分は再びこの世界に一人になってしまったのだと、認めたくない。温もりも優しさも頼もしさも、あって当然だと思っていたその全てを全て失ってしまった。その事実がどうしようもなく耐え難い。
信じられない、信じたくはない、しかし、事実ははっきりとしている。彼はいない、凱旋の戦列に彼は加わってはいなかった。心の奥底にあった繋がりも既に消えて、その事実はどうしたって変えられない。幾度となく否定しても、答えはとうの昔に導き出されている。
彼は死んだ、彼女の従者は、下方弥三郎は戦死した。彼のことだ、最後の最後まで戦士として戦い、立派な最期を遂げたに違いない。森の魔女の従者としてその名に恥じぬ戦いをしたはずだ。そんなことは誰の話しを聞かなくとも分かりきったこと。そんなことはわかっている、わかりきっていることだ。
だがそれでも、信じたくない。もし信じてしまえば何もかもが終わってしまう。それが例え森の掟に逆らうことであったとしても、この世界の断りを犯す行いであったとしても、母の言葉を裏切ることであっても構わない。
「……約束…………したから……」
必ず共に、あの森へ帰ると誓った。だから、彼は生きている。彼は約束を守る、死していたとしても約束だけは必ず守ってくれるはずだ。
彼が死んだとは信じない、彼の死を受け入れはしない、彼の死をただの事実として記憶することはしない。他の誰が、あらゆる神が、森の全てが肯定しても、自分だけは否定し続ける。裏切り者と糾弾されても、世界を敵に回してでも、この願いは奪わせない。
例えそうであったとしても、そんな事実など覆してしまえばいい。やり方は知っている。禁忌の中の禁忌、森の知恵の底の底に眠るもの。必要な詞も、払うべき代償も、それが何を意味するかも良く知っている。それでも構わない、ありとあらゆるものを犠牲にするだけの価値があの瞬間にはあった。
一つの命を造る、今まで信じてきた全てを裏切り、あるとあらゆる理を壊す、その法を彼女は知っている。
彼のためなら全てを引き換えにしたとしてもかまわない。全ての価値を理解した上で、全てを犠牲にする。
そこまで決心してようやく理解した。母の最期の詞の意味。全てを、何もかもを捧げても構わないと思える時が必ずくると、母は言った。自分に嘗て訪れたようにあなたにも訪れると。
母が何を捧げたのかは知らない。それでも、何故そうしたのかはようやく理解できた。どんなものを引き換えにしても、取り戻したいと思えるものは確かにあるのだ。
そう、もし愛と呼べるものがあるとするなら、この感情以外にはありえない。今ならば自信をもって言える、今まで何一つとして理解できなかった心を詞として形にできる。
愛している。アンナリーゼ・クレイオネス・シビュラネアは下方弥三郎を愛している、それだけが、ただそれだけが今の彼女にとっての誇りだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――あい分かった。某にまかされよ」
石造りの階段を早足で駆け上がりながらも、弥三郎は力強くそう言った。アイラを安心させるための方便ではない。自分が必ず何とかすると、揺るがぬ自負から来る詞だった。
事情は道中でアイラから聞いた。彼女が、彼の主がもう三日も部屋から出ていない。食事も口にせず、ただ一人で暗い塔の中で閉じこもっている。
原因ははっきりしている。従者たる自身の不在が彼女に影響を与えている。自信過剰だといわれればそこまでだが、確信がある。
勝利に酔っていた自分が許せない。不忠極まりない愚か者、主のためと誓いながらその主の事を忘れ、戦に興じていた。他に選択肢がなかったとして、何よりも先に彼女の元へ駆けつけるべきだった。それこそ、戦の勝ち負けなど二の次でも良かったはずだ。
だからこそ、もう惑いはしない。彼女に許しを得るまで、いや、許しを得ることが適わなかったとしても全身全霊をもって忠義を果たす、ほかのことなどもはや眼中に無い。
階段を上りきると、目の前には小さな木の扉。薄く簡単に破れそうなその扉が、これ以上ない拒絶の意思を示していた。
「――巫女殿」
扉に手を掛けることなく、部屋の外から声を掛ける。許可を得ずに部屋に立ち入るわけにはいかない。必要にかられるまでは部屋に押し入ることなどできようはずもない。
不忠の償いは必ずする。詰め腹を切れと言われれば、迷わずそうする。彼女が望むのならこの城の兵全てを敵に回すことも厭いはしない。忠義を尽くすというのはそういうこと、主がために全身全霊を捧げるのが忠道というものだ。
「……返事、ないですね」
「…………是非もないか。お許しを、アイナ殿」
それから数度声を掛けたが、それでも返事はない。面と向かって不忠を詫びようにも、直接会うことができないのではどうしようもない
「失礼仕る」
仕方無しに扉に手を掛ける。返事がない以上、万が一ということもありえる。もし間違っていれば頭を下げるほかないが、何かあったあとに後悔することになるよりは良い。
半ば押し入るように、扉を開ける。鍵こそ掛かっているものの、扉自体はそう厚いものじゃない。破るのにそう苦労はいらなかった。
問題はその先。扉を開いた先になにがあるのか、向き合うべきものは何であるのか、だ。
「…………これは」
「……いったいどうなって……それにこの匂い……どこかで」
扉の向こうには目の前すらも見渡せない闇。窓も何もかも締め切っているにしても、あまりにも暗すぎる。まるでこの部屋の暗闇が他の光を吸い尽くしているような、そんな印象すらもうけるような闇がそこには広がっている。明らかに尋常ではない、理の外にある何かが目の前に存在していた。
唯一部屋から感じられるのは奇妙な香り。脳を蕩けさせるような、それでいて目覚めるような鮮烈さを伴う奇妙な香り。アイラにはその香りに覚えがあった。
冥界の霊草、そう呼ばれる花。矛盾するような二つの匂いは生と死を司る。彼女のいた大樹の森では死者を弔うために葬式で焚かれる香、その香りに酷似していた。
「――アンナ殿! 返事を!!」
しかし、光を侵すような闇も鼻腔を擽る香りも、弥三郎には意味がない。この闇の中にアンナがいる。重要なのはただそれだけだ。
部屋に踏み込み、目を凝らす。部屋の闇は見通せるようなものではないが、それでもアンナがここにいることは分かる。彼女を見つけなければならない、例えこの闇に呑まれたとしても構いはしない。彼女の従者として忠義を尽くす、そのためならば己が命など元より勘定に入っていないのだ。
胸をかきむしるような痛みと背筋に走る寒気を感じながら、闇へもう一歩踏み込む。この先に、この苦しみの先に彼女はいる、その確信があった。
「…………アンナ殿」
闇の中に彼女はいた。ただ一人、何者をも寄せ付けることなく闇の底に座り込んでいる。まるで消え入るように、風に揺られる灯火のような微かさで彼女はそこにいた。
「――アンナ殿」
「……………」
呼びかける声にも彼女は応えない。目も耳も、心でさえも閉じて、何もかもを拒絶したまま只管闇へと沈んでいく。今の彼女にとってはこの何もない闇こそが世界の全て。自身以外の何者も存在しない、空の狭間だけが彼女に残されたものだった。
「……只今戻りました」
ひれ伏すように膝をつき、そう告げる。返事を求めてはいない、ただ言葉を持って語りかける。嘗て彼女がそうしたように、闇の向こうへと手を伸ばす。
「…………」
震えることすらない彼女の身体に静かに触れた。途端、拒絶するような悪寒が指先を凍らせていく。
それでも熱を伝えるように、自身の存在を触れた指先で証明してみせる。我は此処に在りと、貴女の従者は今此処に確かに存在しているのだと、全てをもって示す。
「……………あ」
「アンナ殿……!」
まるで縋るように、求めるように、彼女の手が伸ばされる。嘗て弥三郎がそうしたように、彼女もまた彼を探していた。
その手をしかと握り締める。下方弥三郎を置いて一体誰がその手を取るというのか。この手を取るためだけに、彼はまだ生き続けているのだから。忠義とはそういうもの、迷いも未練も無縁のものだ。
「…………ヤサブロウ、なの?」
「はい、下方弥三郎、只今戻りましてございます」
疑るような、それでいて信じたがっているようなその詞に力強く応える。瞬間、繋いだ手に熱が戻ってくる。何処にも存在せず、消えかけていた彼女の存在をその詞が引き戻したのだ。
思えば、この時初めて弥三郎は戦場から帰還したのだ。彼女の元へ、己が主の手をとってその言葉を発した瞬間が、彼にとっての唯一ともいえる安らぎだった。




