48、あるいは一度の決着
熱に浮かされるようにして、剣を振るい、血を浴びて、死を重ねる。幾度となく経験してきたことだが、何度経験しても慣れる事はない。肉を裂く感触も、骨を砕く快感も、命を奪う感覚も生々しく心身に焼き付いている。
それと同時に快くもあった。この老骨の身であっても戦場の風はあいも変わらず心を躍らせてくれる。背徳と狂気の狭間、此処こそが彼にとっての終の住い。それは以前と変わりなく、ここで生きることもここで死ぬことも本望だ。
だが、今はすべきことがある、衝動と欲求に身を任せるわけにはいかない。彼はこのヴァレルガナ軍の軍監、総大将を支えるべき副将である。老骨の意地や最後の望みなど、ここでは忘れ去るべきもの。副将として、狂気に身を委ねるわけにはいかないのだ。
「――若! 退き時です! お下がりを!!」
「まだだ! まだ! 行ける!!」
すべきことは一つ、若さに逸る己が主を諌めること。状況を冷静に把握し、戦場という生き物が次にどういった動きをみせるかを判断することにある。特にこのような状況では尚更のこと。退き時を見極めることこそが、軍の命脈を左右する。
「若! なりません! お退きのきを!」
「はなせ、爺や! 敵はまだうろたえている! 今ならばまだ――!!」
此度の総大将、ヴァレルガナの嫡子たるアレクセイは達観した人物であり、常に冷静沈着で物静かで、理想的とも言える君主であったと後の歴史書には記されている。しかしながら、それほどの傑物でも戦場の熱と若さからくる逸りには抗えない。彼の目に今映るのは、敵と炎のみ。戦場全体を俯瞰する慧眼など期待するべくもない。
「なりません! 搦め手をごらんあれ! 敵が遠巻きに東側に動いております! 退路を断とうとしておるのです!」
「――っ! それがどうした! 敵を討てば……」
「此度の戦の目的はラケダイモニア勢の救援! それが成された以上は退くのが道理! それとも、若お一人で三万の軍勢を切り捨てられますかな?」
「――っく、だが……」
だからこそ、グスタブはここにいる。血気に逸らぬ経験と老獪さを持ち合わせているからこそ、ヴァレルガナの懐刀と讃えられてきたのだ。功に焦がれる若造を諌める程度、そう難しいことではない。
厳然たる事実として状況は明らかに悪化しつつあった。後詰の側では将たちが兵を統率して、包囲を形成し始めている。散々蹂躙したとはいえ、敵は我に三十倍する大軍。一部隊でも統率を取り戻せば、容易くこちらを踏み潰せるだけの兵数だ。これ以上留まれば、今度はこちらが死地へと追いやられることになる。
今が潮時。ここを逃せば、後は玉砕しかない。
「さあ、若。全軍に御下命を。今ならば敵の追撃もかわせましょうぞ」
「……分かった。ここで退く、城に帰るぞ」
「――若君! ご家老!!」
逸る気持ちを抑え込み、決断を下そうとするその直前、騎士が一騎、駆け込んでくる。先刻、ラケダイモニア勢への伝令とした馬廻りのものだ。如何な修羅場を切り抜けてきたのか、新品同様だった鎧は血と煤で汚れていた。
「――御注進仕る! ラケダイモニア勢は戦場を抜け、坑道にたどり着いたとのこと! 守将ロエスレラ騎士公、以下将兵二百、皆壮健とのことです!!」
「おお、逃げおおせたか! それは祝着! 若、頃合でございましょうぞ!」
「うむ! 見事なるはロエスレラ卿であるな!」
ラケダイモニア勢の無事、ならびに撤退。それが成功したということは即ち、この戦の本懐を遂げたという事に他ならない。否がおうにも兵たちの士気は上がる。この場所から退きのくにしても、これ以上の機はない。
「ご苦労である! ついで、その足で各将に伝令を――」
「も、もう一つ、御注進せねばならぬことがありまして……」
「なに? 申せ、遠慮は要らぬ」
何故か口篭る伝令に対して、グスタブはその先を促す。たとえ凶報であったとしても、軍監として全ての情報を把握しておかなければならない。いや、むしろ、都合の悪いことであればあるほど、より早く正確に認識しておく必要がある。僅かな綻びが戦の趨勢を左右する、勝ち戦であるからこそ、油断も慢心も慎まなければならない。
「――ヴァンホルト・ユーティライネン騎士長、並びに客将殿が率いる騎馬隊二百、敵本陣に強襲を敢行。敵総大将を捕捉しつつあるとのことです」
「…………なに?」
「敵本陣に突撃なされたそうです。いやはや、まさしく豪胆というべきか、なんというか……」
「……あの馬鹿共め」
どこか陶酔したような様子の若い騎士とアレクセイにたいして、老境の将は頭を抱えたくなるような心労を覚えていた。確かに天晴れ、騎士の誉れなりと讃えたい気持ちもあるが、それ以上に彼等の行動が齎すであろう戦果とその処遇を考えると、諸手を挙げて万歳というわけにはいかない。
敵の総大将を討ち取れるか、否かはそう大した問題ではない。本陣を蹂躙した時点で充分すぎる戦果、敵はかなりの打撃を被ることになる。この勝ち戦を締めくくる、一番の戦功と言っても過言ではない。
だが、それが問題なのではない。それから敵がどう動くか、それこそが重要なのだ。総大将を討たれ、軍が瓦解し、敗走するならそれでよし。そうでないならば、これまで以上の地獄が待ち受けている。若い彼等には、それが見えていない。
戦は正しく、これからなのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
逃げろと叫ぶ頭に対して、一度竦んでしまった足は動いてはくれない。目の前に敵が、ただの人間にすぎないと、自身と同じく切られれば死ぬ人間だと理性が理解していても、本能が目の前の敵へと怖気づいてしまっていたのだ。
それはアルテアだけでなく、兵達も同じ。敵将を前にして、屈強な兵士達は戦うための意気を挫かれていた。黒い甲冑も、手にした見慣れぬ剣も、血濡れの槍も、彼らの目には死神の装束のようにさえ思えていた。
「――下方弥三郎忠弘、参る!!」
奇妙な名乗りと共に死神が動いた。彼我の間合いは三間ほど、槍で突くにもどうにも遠いし、剣で切りつけるなど持っての外。しかして、それだけの猶予は瞬きの間に消え失せていた。
「―――フッ」
「――あ」
稲妻のような一突き。防ぐ暇も、庇う暇も、反応する暇すらない。司祭長を守らねばと思ったときには既に決着が着いていた。
繰り出された穂先は真っ直ぐに喉元へ。悲鳴を上げようにもその為の臓器は無残に壊されてしまった。唯一救いがあるとすれば、痛みを感じることすらなかったことだろう。タイタニア軍の総大将、カール・ドレル・ガストン司祭長はこうして討ち取られたのだ。その肩書きとは裏腹に、一介の雑兵と同じように容易くその命を落としたのだった。
しかして、死神は止ることはない。次の獲物に既に目をつけている。
「――チィッ!」
続けざまに鋭く突き出された槍を、間一髪剣で弾く。一瞬遅れていれば、間違いなく鎧の隙間から内臓を穿たれていた。
迫る穂先がアルテアに戦意を取り戻させた。異様への恐怖を死への抗いが凌駕したのだ。もう欠片のほども怯えてはいない。
続けざまに突きが三度。どれ一つとして甘いものではなく、急所を穿たんとする必殺の一撃だった。その三連撃を、逸らし、いなし、かわす。だが、ようやく突きが止んだかと思えば、薙ぎ、払い、叩き、ありとあらゆる方向から流れるような連撃が襲いくる。かとおもえば、槍の合間には弧を描く剣戟が鎧を断ち、肉を裂き、骨を砕く。
正しく死神の技。反撃の隙など一切ない、こうして凌ぐだけで精一杯だった。それも時間の問題だ、瞬き一つで首を取られるだろう。
「ア、アルテア卿!!」
「――ぬ! 水入りか!」
しかしながら、その瞬き一つが生死を別けた。平静を取り戻した兵達が、横合いから死神へと襲い掛かったのだ。さしもの死神とて、横腹を突かれれば引かざるをえない。アルテアの武技と武運は死神の刃を確かに退けたのだ。その代償はあまりにも大きいが。
「――旦那!」
「ロベルトか! 丁度よい頃合に来た!」
背後の藪から数人の兵たちが飛び出してくる。山中を強行軍で進んだのか、息を切らしている。潜んでいたにしては余りも慌しい。おそらくはこの死神、いや、敵将を追ってきたのだろう。数は数十、総大将を討たれ、士気の崩壊した彼らでは抗することは難しい。
「――よし! 総掛かりぞ! 功名の挙げどころと心得よ!」
「応!」
敵将の指揮の下、わずか吸う獣の兵たちが雲霞の如く襲い来る。それもそのはず、敵方の総大将とその護衛を前にしているのだ。兵達の勢いは平素と比べるべくもない。対してこちらは、総大将を失った烏合の衆。弔い合戦というにはあまりにも心もとない。
即ちここで行われるのは虐殺。互いに命をかける殺し合いではなく、一方的な蹂躙である。
「――逃げよ! 何処へなりとも構わん! 落ち延びろ!!」
気付けば、あらん限りの声で吼えていた。戦うことは無理でも逃げることはできる。矢も盾も投げ捨てて、遮二無二なって逃げ出せば生き残るものも出てくるはずだ。
もはや戦に勝ち負けに拘泥していられるような余裕は何処にもない。それでも逃げろと命を下したのは、将としての最低限の意地、矜持ゆえに他ならない。一兵でも多く一人でも多く生き延びさせる、それが次の戦へ繋がる。此度は負けても次こそは、アルテアの騎士として誇りが諦めを拒絶したのだ。
「逃がすな! 敵将だけは必ず討ち取るんだ!」
虐殺の場に、背後を追ってきていた敵の援軍が加わる。最寄多勢無勢だった状況はさらに悪化した。その上敵は、将に狙いを絞っている。総大将だけでは飽き足らず、ここでタイタニア軍の中枢を撃滅せんと、一丸になってるのだ。このままではその目論見も実現してしまう。
「――ッお許しあれ!」
胸の勲章、法皇聖下から賜った巨神の手の褒章を一息に千切り取り、捨て去る。そのまま、闇に紛れるように、斜面を転げ落ちるように、今度こそ何もかもを打ち捨てて逃げ出した。背後の悲鳴も、仲間達の死にも構いはしない。ただ生だけを目指して一心不乱に駆けた。
敵がそれを目論んでいるからこそ、アルテアは生き延びねばならない。ここで自分が討たれれば、三万の軍勢の旗頭となりうる者がいなくなってしまう。そうなっては三万の軍勢も烏合の衆と変わりない。それこそ総崩れだ。彼には生き延びるだけの覚悟とそれに相応しい運命があった。
後に、巨神の御使いとも称されるタイタニア随一の将軍とアルカイオスの黒雷、その二人の邂逅はこうして一度幕を下ろす。その結果が一体どのような波紋を齎すのか、知らぬままに。




