2、あるいは足取りは軽く
しっかりと腰をいれ、弥三郎は鉞を振り下した。
額に滲む汗を拭い、次々と薪を割っていく。最初の内は初めてのことに慣れず、一々戸惑っていたが、二週間もすればそれなりに要領を得てくる。
手にできた豆がつぶれる痛みは、肉のある現世であるからこそ感じられる感覚だった。
今は六の月の三つ目の週の終わり。弥三郎がこのオリンピアに漂着してから二週間が経とうとしていた。
「――ええい、くちおしや!」
それだけ経っても、弥三郎はいまだ自分が生きていることに納得していない。
下方弥三郎忠弘は二条御所にて確かに討ち死にした。主を守ることもできず、死に損なうことなどありえないからだ。
仕方なしに鉞を振るう。身体を動かしている間は考えるのをやめていられる。無心の境地ともいうべきそれを理解不能な現実からの逃避の手段にしていた。
森の魔女が弥三郎に行った説明の大半は彼にとっては極めて難解なものだった。
辛うじて理解できたのは、ここはオリンピアと呼ばれる大陸で、弥三郎が今いるこの場所はアルカイオスという小国の辺境であるということ。その他彼女が口にした固有名詞に関してはまったくもって理解できなかった。
ゆえに、彼は彼女の説明を自分に都合よく曲解した。ここは南蛮の片田舎であり、自分は何らかの外法によって拉致されたと、そう思い込むことにした。
「――巫女殿! 薪割りは終わりましたぞ!!」
「そう、ありがとう。昼餉はできてるから」
巫女。頑なに名前を名乗らず、なおかつ断じて小鬼でもないと主張する森の魔女を弥三郎はそう呼ぶことにした。
森を鎮護し、神に奉公するという生業は彼の知る限りでは神主や巫女の役割だったからだ。
士分である弥三郎が彼女を『殿』と呼ぶのは、曲がりなりにも彼女が彼の命を救ったという事実を鑑みてのことだ。どれほど認めがたくとも、実際彼は今も生きている。それ不本意であっても、『恩』が生じているということだ。
例え戦国乱世に生るとも、恩を恩とも思わぬ輩は畜生にも劣る。主を討った明智日向と同等に成り下がるのは、弥三郎にとっては死に損なった不忠よりも堪えがたかった。
その屈辱に比べれば百姓の真似事をする程度、何の事はない。
「――今日は境まで行くから付いて来て」
「境? 森の境、という意味でよろしいか?」
「そう」
塩辛いだけの乾し肉を弥三郎が噛み千切っていると、普段は無口な彼女がそう口を開いた。
魔女の小屋は彼にはかなり手狭で、五尺三寸の身体はあちこちにつっかえている。彼が動くたびになにかが落ちるのが魔女にとっては悩みの種だった。
「ふむ、それはありがたい。薪割りと洗濯だけというのは飽きがきておったところでな。森の外を垣間見ることができるのなら、無聊の慰みにもなろう」
「そう。じゃあ、食べたら出るから」
傷が完治するまでのこの共同生活において、弥三郎が彼女から承った仕事は薪割りと洗濯の二つだ。
というよりは、彼にこの森においてできる仕事はその二つしかなかったというのが正しい。森の管理は彼女の領分であり、弥三郎にできることはない。
故に、森の端までの同行を許されるというのは今までにないことだった。
「……剣をもっていったほうがいい。怪我したくないならだけど」
「言われずとも帯刀は武士の矜持でござれば」
すこしばかり高揚している己がいるのに弥三郎は気付いていた。
死に損なったことは業腹ではあるが、それはそれとして弥三郎にとっては見るもの全てが未知のものであるのは確かだった。
「では、参るといたそうか?」
「ええ、行きましょう」
食事を済ませた弥三郎の問いかけに、彼女は間髪いれずに答える。
二人ともに出かける準備は済んでいる。森へ踏み込む弥三郎の足取りは軽かった。
忠節の道に問えば、恥ずべきことではあるものの、下方弥三郎はこの異界を心の底から楽しんでもいた。
◇
まだ怪我が癒えていないとは思えないほど確りとした足取りで、弥三郎は森を進んでいく。あまりに堂々としているせいか森の獣達も彼には手を出そうとしなかった。
「巫女殿、夕刻までに参るのであろう? その調子ではは遅れますぞ」
「――はあ……」
意気揚々なのを隠そうともしない弥三郎に、魔女は深い溜息を吐いた。
実際のところ、彼女は下方弥三郎という人間をまるで理解できないでいる。さらにいえば扱いかねてもいた。
どうにか聞き出した身の上を彼女が完全に咀嚼できたかというとそういうわけではない。
把握できたのは、彼は東方のある国の出身で、その国はヒノモトと呼ばれていること。さらに、ヒノモトは長い内乱状態にあり、彼はその内乱を収めようとしているオダ家という士族の家臣で、騎士に相当する身分であるということくらいだ。
だが、その行動も考え方も、彼女の知る書物の中の騎士たちとは似ても似つかない。高潔さはあるが自分勝手で、誠実であるもののどこかがさつだ。
特に違っているのは女性の扱いだ。騎士は女性を姫のように扱うものだが、この男はまるで違う。ぞんざいに扱うことはないものの、今も従者のように彼女を連れまわしている。
「――そっちじゃない。もっと東のほう」
「む、東か。東のほうか……」
そのうめきには強い郷愁が滲んでいた。
その一点だけは彼女にも理解できた。彼は望んでここに来たのではない、それだけは分かっている。
彼が何故このオリンピアに導かれたのか、それは彼女にも分からない。状況からみて、戦神祭の影響であるのは確かだが、書物を紐解いても似たような事例は一つもなかった。森の知恵を継承した彼女にも、何かの導きであるということしか理解できなかった。
彼の傷を治療したのも、掟に従い目の前の命を見捨てることができなかったからだ。それ以上の理由はない。義務だからこそ、彼にできる限りの治療を施し、命を繋ぎとめた。
もし彼女が義務の履行を怠れば、弥三郎はそのまま死んでいた。
つまり、望みどおりに死んでいたのだ。この一週間で知った彼の価値観からしてそのことを恨みに思うだろうと、魔女は考えていた。
しかし、弥三郎は彼女を恨んではいない。命を救われた事を事実として受け入れ、あまつさえ魔女を恩人として扱っている。
魔女にはそれが分からなかった。
どうしてそんな結論に到るのか。なぜ一度は殺意を向けた相手にあそこまで親しげに接することができるのか。彼女にはどうにも納得できなかった。
「待って、あまり離れないで」
魔女の言葉に弥三郎が歩く速度を落とす。
この森は余所者には一切容赦がない。彼女が傍にいなければ、彼は森の獣達に襲われる。
森狼の領域を全身に血の匂いを漂わせながら歩いているのだ。食べてくださいと喧伝しているようなものだった。
傷が完治するまでは森の魔女は弥三郎の命に責任を負っている。一度治療してしまった以上、完治するまでは助けよというのが魔女の掟だった。
そのためには彼を小屋の周辺に留めて置くのが最善だった。傷は深いが、薪割りと洗濯だけなら開く心配はない。放っておいても、四、五日すれば傷は完治する。その予定だった。
しかし、今日ばかりは人手が必要だった。
今日は村祭りの日だ。夕方までには森のはずれにあるネモフィ村の貢物を回収しないといけない。
例年量は減っているものの、それでも村からの貢物は彼女一人で運ぶにはすぎる。
いつもなら森の獣に手伝ってもらうなり、なんなりいくらでも運ぶ手段はあるのだが今年はそうはできない。治療に力を使い果たし、今の彼女には年相応の腕力しかなかった。
そこで、この面倒の原因を労働力として使わざるをえなくなったのだ。
森の北端、村との境までは三刻半といったところ。無言で歩き続けるのには少しばかり長いが、話す話題があるわけでもない。
「……む」
境界線まで辿り着いたところで、弥三郎が突然立ち止まった。魔女は急停止した背中に鼻を強打することになった。
「…………痛い」
「巫女殿、そこの木の陰に。息を殺して、早く」
弥三郎の声が鋭くなった。まるでここが戦場であるかのような剣呑さだ。
今まで見せていた粗野さと快活さはなりを潜め、刃のように鋭い視線は肌に刺さるように感じられた。
魔女は大人しく弥三郎に指示に従い、手近な大木の陰に息を潜める。彼女眼前に身を盾にするように、弥三郎が伏せた。刀の柄に手を掛け、いつでも飛び出せるように身構えている。
お互いの心音までもが聞き取れそうな、そんな距離だった。
実際彼女の耳には大きな獣のような息遣いと、平静を保ちながら性質の変わった心音が届いていた。
そんな乱雑な音が彼女の耳には心地よく響く、似ても似つかないはずなのに何故か母の子守唄のように感じられた。
「――いやあああああ!」
そんな束の間の安らぎを少女の悲鳴が破った。
どうも、みなさん、big bearです。後二回は…行けるかも
では、こんなだめ作者と拙い文章ですが、どうかこれからも暖かい目でよろしくお願いします。
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