44、あるいは号令と共に
制止する騎士達、邪魔をする稚児たちを押し退けて、アルテア卿は押し進んだ。まだ二十になったばかりと歳若いが、それなりに経験は積んできた。相手がたとえ総大将でも今更臆するような性根は持ち合わせていない。特にこうして、急を要する事態であればなおさらのことだ。
時は既に真夜中。日が沈むころの出来事を本陣に伝えるまでそれほどの時間を費やさねばならぬことなど、本来ならありえない。二度も使者を追い返され、自ら本陣を訪ねるもこうして邪魔をされなければこれほど時を費やすことなどなかったはずだ。
「どけ! 司祭長どのに取り急ぎお会いせねばならんのだ!!」
「な、なりません! もう少しお待ちを……」
「ええい! 退かねば切るぞ!!」
司祭長の天幕はもう目の前。そもそもここにくるまで散々待たされたのだ、これ以上一瞬たりとも待つつもりはない。目の前の稚児を切り捨ててでも、忠信せねばらない。これほどの大事を、大将の耳に入れないなどということは絶対にありえない。
それこそ、ここで稚児たちを切り捨てたとしても、許されるだけの大義がアルテア卿にはあった。
「何事か! 騒がしいぞ! わしが閨に居るときは静かにせよと申したはずだ!」
天幕の前での押し問答を続けていると、騒ぎを聞きつけた司祭長が天幕から出てくる。戦の最中だと言うのに、鎧を身につけているわけでもなければ、司祭長としての礼装を身につけているわけでもない。それどころか、襯杉すら着ていない。申し訳程度に、脚絆を履いているだけ。天幕の中で何をしていたかなど、一目瞭然だった。
「なんだ、アルテア卿か。一体何事かね?」
「……ご報告せねばならぬ儀がありますれば。至急、全将を本陣へと召しますよう」
分かっていたものの、それでもこみ上げる嫌悪感と怒りを押さえ、アルテアは騎士としての使命に殉じた。司祭長にあるまじき不徳を責めるのは戦が終わってからでもできる。今すべきことは、そんなことではない。
「ふん、先に用件を申すべきであろうが。なんの大義もなく軍議など行えんわ」
当然の道理だ。感情はさておき、アルテアとてなんの大義もなく軍議を行えなどと上申する気は毛頭ない。それに値するだけの理由がなければ、こうして本陣までわざわざやってきはしない。
「――は、ではご報告いたします。一刻ほどまえ、ヴァレルガナの使者と思わしき二人組みが、砦へと入りました。至急、軍議を開いて対策を講じるべきかと」
本来ならば、もっと早く、事が露見した事態で知らされるべきだったことを、漸く口にした。急使を門前払いされ、稚児どもの邪魔さえされなければ、こんなに遅れることはなかった。もしかすると、もう手遅れかもしれない。
使者が来た、つまりそれは軍が近くまで迫っているという事。少なくとも、アルテアはそう確信していた。あの二人、軍の中心を駆け抜けたあの肝の据わった二人は、おそらくは反撃のための使者。今更何ができるとも思えないが、何らかの企みがあるのは確かだ。
「…………ふむ。それで?」
「は? それで、とは?」
それだけの大事に対して司祭長の反応はまるで意に介していないようだった。事の大きさを理解できていないのか、それとも、理解した上でそういった態度を取っているのか、それはアルテアには定かではないが、彼にはそれこそ司祭長の行動がまるで理解できなかった。
「それで、どうなったと申しておるのだよ。アルテア卿、使者が参ってどうしたと言うのだ。たかが二人、今更砦に入ったとて、何が変わる」
「し、使者が参ったという事は近くに軍がある証左に他なりますまい! 陣の横腹を突かれれば……」
「後詰からそのような報告は受けておらぬ。たった二人ならまだしも、軍が丸ごとをそれをすり抜けることなどありえぬわ。それに、どれだけ急いだとして、ヴァレルガナからの援軍など間にあわん。明日の朝には砦は落ちる。それは貴公が一番分かっているのではないか? のう、アルテア卿」
「そ、それはそうですが……」
責め立てる様な、嘲るような司祭長の物言いは全て道理に適ったもの。使者が来たとしても、軍がこの砦にたどり着くのは不可能だ。援軍が発していたとしても、砦はもはや風前の灯。朝が来ればそれで終わりなのだ。いまさら、使者が来たとしても既に手遅れ。司祭長がそう考えるのも仕方のないことだった。
だが、それでも、アルテアの勘、前線で戦ってきた将としての直感はどうしようもなく危機を告げている。決して、油断してはならぬと、そう絶え間なく警鐘を鳴らしているのだ。
「――我が名誉にかけて申し上げます。どうか、どうか、全軍に警戒のお達しを……」
騎士にとって最も尊ぶべき名誉、それを引き換えにしてでも、ここは引き下がるわけにはいかない。軍全体に関わること、例え杞憂であったとしても、警戒だけはしておくべきだ。
「名誉? みすみすその使者とやらを通しておいて、名誉も何もあるまい。このことは我が心に留め置く、もう下がられよ。朝には砦を落とす、そこで名誉とやらを取り戻されるがいい」
「……しかし!」
思わず柄に手を掛けるような怒りを押さえ込み、平伏するように食い下がる。ヴァレルガナの使者が素通りできたのは、本陣の手薄さが故に他ならない。けれども、あの二人を仕留められなかった責任は先陣大将であるアルテアにある。それは否定できない。だからこそ、こうして頭を下げているのだ。
「くどいぞ、アルテア卿。私はやらねばならぬことがあるのでな。これで失礼する」
「お、お待ちを、どうか、どうか、お達しだけでも…………!」
もはや、恥も外聞もない。自分がエテナ司祭長の子飼いとして嘲られているのは知っている。それでも、これだけは聞き届けてもらわなければならない。敵がもし奇襲を企んでいるのならば、決行は明け方。こちらが再び城へ攻めかかる前のはずだ。それまでに、全体に警報を発さなければ、手痛い損害を被ることになりかねない。
「しつこい男だな、貴公も。疲れがたまっておるのだろう、明日の先陣からは――」
もはや苛立ちを隠すこともせず、司祭長は裁可を降す。もとはといえば、所詮は政敵の子飼い、先陣から錯乱と称して先陣から排斥できるのなら、好都合だ。
しかし、その命が軍に達せられることはなかった。
続く言葉は馬の嘶きと兵達の叫び声にかき消された。ただの喧嘩、あるいはただの偶然と思われたそれは、止むことはなく続き、喧騒の音は軍全体へと広がっていく。どこかで火が上がり、夜明け前の闇に立ち上る。三万の軍勢の動揺、それは正しく山そのものが鳴動しているような大きさでもって始まった。
アルテアの予感は、ここに事実として結実した。小さな綻び、目に留めることもないような綻びは何時しか亀裂へ変わり、巨神の腹を引き裂いたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
遡ること一刻ほど。アレクセイ率いるヴァレルガナ軍の本隊が坑道を抜けたのは、夜の最も深い頃合だった。予定よりも二刻少し早い、先陣より報せを受けたアレクセイが本隊を急がせたがゆえの結果だった。それに加えて、先陣が確り道標を立て、闇の中でも進むべき道を示したが故でもある。弥三郎とヴァンホルトを先行させ、兵を休ませながら進んだ意味は確かにあったのだ。
準備は既に整っている。砦への使者にたった二将からはすでに無事を知らされ、彼らを救うための別働隊は配置についた。本隊の兵達もできうる限り身体を休め、意気軒昂、先陣の将たち及び兵については言うまでもない。あとは刻限を待つのみ、眠りと闇が一番深くなる頃合を狙って一斉に攻めかかる。
後もう少し、一世一代の大戦を目の前にして、アレクセイ・フォン・ヴァレルガナは意外なほどに落ち着いていた。焦りはなく恐怖もない、思考は清水のように澄み渡っている。あの坑道を行く間、絶え間なく続いていた手の震えも、いつの間にか止っていた。
「若、そろそろ刻限です。後詰に陣をもうけておりますので、お下がりを」
「ならん。私はここにおるぞ、グスタブ」
後ろに下がるべきだと言う老将の諫言を退け、アレクセイは前線に馬を進める。若さゆえの気の逸りといえばそこまでだが、考え無しにそれを望むほどアレクセイは愚かではない。
「若が討たれれば、それでこの戦は負けとなりましょう。どうかお下がりを」
「……この戦に負ければ落ち延びたとて意味はない。私がここに立つことで兵達の士気が上がるのなら、そうすべきだ。心配は要らんよ、爺や。私とてヴァレルガナの騎士、もう子供ではない」
窘めるようなかつての守役に対して、アレクセイは己が覚悟を示してみせる。
総大将たるもの、本陣に腰を据え、全軍を俯瞰して采配を振るうべき、それは全くの道理だ。戦において揺るがしようのない定石と言ってもいいだろう。
しかし、此度はそうはいかない。敵は三万、こちらは千二百、比べるのも馬鹿らしいほどの戦力差がある。それを覆すためには、後一手足りない。ただの奇襲では足りないのだ。故にその身を晒す。総大将として、前線を駆け、自ら剣を振るう。それだけの覚悟を将兵に示す。そうすることで千の軍を、決死隊へと変える。
死をとした兵と将はその数以上の力を示す。例え相手が三万の大軍だったとしても、一矢報いることもできるはずだ。アウトノイアの城へと、生きて帰りつくためには、死を覚悟する必要がある。例え総大将であったとしても、例外ではないのだ。生き残ったとしてもここで負けては意味がない、勝利のためならば死ですらも享受しよう。
「……わかりました。若がそう仰られるのなら、私も共に参りましょう」
「ありがとう、爺や。では、征くとしようか」
アレクセイの覚悟を理解したのか、グスタブは若き主と轡を並べる。止めることがかなわないのなら、ここで身を盾にしてでも若を守るのみ。それだけのことだ。
獅子の柄の剣を、鞘から引き抜く。磨き上げられた刀身が、僅かな月光を照り返す。それが合図、剣が振り下ろされると同時に全軍が攻めかかる。
「――掛かれ!!」
剣が振り下ろされ、全軍が進む。
今こそ、反撃の時。ラケダイモニアの戦いはこうして始まった。




