39、あるいは闇の先に
城の一番高い塔からでも彼等の背中は直ぐに見えなくなった。後に残るは蹄に蹴立てられた土煙ばかり、昇り始めた朝日に向かって彼らは駆けていった。
その様を彼女はただ見守ることしかできなかった。どれだけ祈ったところで、どれだけ縋ったところで、彼等の出陣を止めることは叶わない。信じて待ち続ける、それだけのことしか彼女にはできない。女たる我が身では戦場に立つことは許されない。
戦とはそういうもの、それは分かっている。だからといって、心までもそれに納得してはいない。こちらの言い分を聞こうともしなかった兄と父に対する怒り、不安、恐怖、ありとあらゆる感情が渦巻いている。整理のつけようがない。
「――姫様」
背後から心配げな声が響いた。半ば隔離されたような場所にある彼女の部屋、何時も一人で過ごしてきたその部屋だが、今は一人ではない。古くから仕えてきた侍女たちでも立ち入ることのなかったその場所に彼女は初めて自分以外の誰か迎え入れていた。
「アイラさん、どうしてあの人たちは、いえ、父と兄はあんなに楽しそうなんでしょうか? 死ぬかもしれないというのに、まるで子供のよう」
「は、はあ」
楽しんでいる、彼女には騎士達に指示を下し、戦の準備を整える父と兄がそのようにしか見えなかった。ある種の狂気にさえ映った。これから向かうの死地のはずだというのに、笑みを浮かべ、あろうことかそれを楽しむなど、ユスティーツァには欠片のほども理解できなかった。
その上、道理で考えるのならこの出陣に何の利があるというのか。守るべきはラケダイモニアではなくこのアウトノイアの城、あの砦を救って兵を減らしたのでは、本末転倒。見殺しにしろとはいいはしないが、救いに行くなど意味があるとは思えない。ましてや、その無謀を嬉々として行うなど蛮勇以外の何者でもない。
ユスティーツァには父と兄が、ひいては騎士達が理解しえない魔物類にさえ思えた。
「……私にもわかるとはいえません。やはり戦は怖いですし、戦うことはできませんから。ですが、私でも一つだけわかることがあります、それは――」
まるで年下の妹を諭すような口調でアイラは答える。無論、恐れているのは事実だ。ネモフィ村で感じる暇もなかった恐怖を今は身近に感じる。敵に囲まれ、火をかけられ、攻め入られる、実感こそないもののおそれを恐ろしいと思うだけの知識を彼女は持ち合わせている。
「騎士様達が行かれるのはこの城を守るため、この国を守るため、そして姫様を守るために御座いましょう。微笑んでいかれるのは、きっと、それを誇っていかれるからなんだと私は思います」
自信があるわけではない、そう言いきる事はできない、だが、そうだと信じている。それで今は充分、少なくともアイラにはそう思い切るだけの覚悟があった。
「……誇っているから、ですか」
アイラの言葉をかみ締めるように、ユスティーツァはそう繰り返した。確かに言われてみれば、そう思えないことはない。見ようによっては楽しんでいるようにもみえるかもしれない。納得できたわけではないが、少なくとも道理はあるように思えた。
なによりもアイラの言葉だ、間違っているはずがない。それがアイラの言葉であるのなら何処の誰のどんな言葉よりもユスティーツァにとっては重たい。
「わかりました。アイラさんがそういうなら私も信じます。皆の無事の帰りを――」
全て迷いが晴れたわけではない、だが、それくらいしかできることがない。武をもたず、剣を握れぬ彼女達にできるのはそれだけのこと。
いや、いまは祈ることすらできない。此度の敵は、今まで信じてきたもの、縋ってきたものだ。この戦いはそれを打ち破るための戦いだ。祈ったとことで巨神の御手は掬い上げてくれはしない。
勝敗を決するは天運ではなく、武勇と知略、それを信じるのみ。彼女達にできるのはたったそれだけだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬を駆る。
手綱を確りと握り、鞍に腰をすえ、鐙に踏ん張る。決して急ぎすぎず、なおかつ、速度を緩めずに。時間は惜しいが、馬を潰しては意味がない。かの砦に辿り着くまで足を止めることはしない。
ぬかるんだ道に蹄鉄のあとを残しながら、その一団は一心不乱に道を駆ける。降り注ぐ雨も、吹き付ける風もなんのその、城を出てより一日、戦の先駆けたる彼らはただの一度も速度を緩めることはなかった。
必要な休みを取れるだけに場所とその都度の兵站は事前に話がついている。それだけの速度を維持しながらも、彼らは体力気力共に充実しきっている。辿り着きさえすれば、存分に武勇を震えるはずだ。
彼等の課せられた第一の役目は、文字通りの道案内。本隊よりも一足早く件の抜け道を見つけ、本隊をそこへと導くことである。
そのために必要なのは速さ。二日前、出陣の直後から降り出した雨よりも速く駆けるだけの速度だ。
既にイルンラト山は目と鼻の先、予定よりもさらに早い。後は抜け道を見つけるだけだ。
「――東! 東側に回るぞ!」
先頭を行くグスタブからの指示をロベルトが隊伍へと伝達する。弥三郎率いる隊は先陣の中段へと付いていた。
後詰と先陣を繋ぐその場所は、この進軍において要だ。ここが弱ければ先陣と後詰が切り離されることとなり、逸れば全体の歩調が乱れることとなる。この場所を担う将は中段にありながら軍の動きを把握するだけの広い視野とそれを調整できるだけの能力を求められる。
並みの将ではこの場所を担うことは難しい。慎重に過ぎず、血の気に逸らないだけの経験が必要だ。
その点、弥三郎とロベルトを中段に配したグスタブの判断は的確なものであった。若く体力のあるもので構成されたこの先陣においてそれだけの判断をできるのは弥三郎以外にない。
実際、彼の差配する隊は一度も速度を緩めず、なおかつ後詰に負担をかけずにここまで進んできている。あと少し山に至るまで一秒たりとも時間は無駄にできない。
ぬかるんだ平地の道からなだらかな斜面へと地面の感触が変わる。馬が僅かに速さを落とす。抜け道まではそう遠くない。
「――止れ! 馬を降りよ!」
さらに二刻ほど進むと、山道からはずれて藪の中へと入る。ここから先は馬に乗っていては進めない。道なき道を進んで行くべき道を探さなければならない。
先陣の踏みしめた導を頼りに、山の中を進む。その数にして百足らず、後詰を迎えるために二十足らずを山道に残してきた。疲れた兵と馬を休めるだけの場所を確保しなければならない。
「旦那、見えてきたぞ。合流するか?」
「まずはそうせねばなるまい。使いを送れ」
雨と枝を払いのけながら進むと、ようやくのこと先を行く先陣の背中が見えてくる。まずはそれと合流し、本軍を向い入れるだけの準備を整えなければならない。
「おお、速かったではないか、従者殿。疲れはどうか?」
「は、問題はござらん。兵のほうも恙無く動いておりますれば」
「うむ、それでこそだ。休息は予定通り四刻ほど。夜明け前に出発だ」
申し訳程度に張られた天幕に辿り着くと、グスタブはそういって弥三郎たちを迎えた。藪の先の開けた場所で、グスタブ率いる先陣は弥三郎たち中段を待っていた。
事前の手はずどおりだ。山の抜け道に入ってからは休む暇などない、砦の裏手に出るまで駆け抜ける必要がある。この場所での休息は大戦を前にしての最後の休息となる。
「――御家老殿、早速」
「おお、そうだな。付いて参れ」
だが、それは兵達の話、将たる弥三郎やグスタブには休んでいる暇などない。砦へと続く抜け道、それがどのようなものか、この目で確認する必要がある。
自ら先導するグスタブに続いて、弥三郎以下中段の将は、再び雨の中を進む。一見何の道標すらないように思えるが、足元には石畳のあとが感じられる。それは山の木々がまだ芽であったころ、この場所に確かな道があったことの証左に他ならない。伝説のなかであった山の大口が俄かに現実味を帯び始めていた。
半刻足らずほどそうして進んだだろうか。緑と闇に覆われた視界が突如一変した。
「……なんと」
声を漏らしたのは一体誰だったろうか。辿り着いたその場所は誰の予想よりも巨大なものだった。
目の前にあるのは、聞いての通りの大口、山の山腹に巨大な獣が口を開いていた。道幅は相応に広く、数百人の軍が隊伍を組んで進んだとしても、まだ余裕がある。
「…………ッ」
騎士たちが思わず後ずさる。
道の先は見通せない、果てがあるとも知れぬ闇が延々と続いているようにさえおもえた。見ているだけで畏れと不安を掻き立てるだけの魔がこの大穴には備わっている。
「これぞ伝承に伝わるヴァルカンの大口。山の民が開いた山を貫く坑道ぞ」
どこか誇らしげに、グスタブは言葉を紡ぐ。嘗てロストロモ公が用いたといわれるその道は確かにここに存在していた。
道はここにある。残る問題はその果てが何処につながっているか、それに尽きる。伝承の通りなら、この道は南側の山の中腹、ラケダイモニアの砦の裏手に繋がっているはずだ。
しかし、この道はあまりに暗い。山の神、鉄と鍛冶を司るヴァルカンの名を冠しているものの、こうして目の前にすると冥府へと繋がる奈落の穴を思わせる。ここに至るまで、勝利への希望を胸にここまで進んできたが、この闇には足が竦む。今、彼等の目の前に立ちはだかるのはタイタニアという明確な敵ではない、原初の闇、人の恐れる魔そのものだ。
どれだけ勇猛であっても、人に過ぎない彼らでは足が竦むのも無理はない。恐れず進めるのはそれを知り、統べるものだけ。すなわち、オリンピアに古くより住まう人であって人でないものたちだけである。
「――黄泉路の一番槍か。いざ嬉や、本望なり」
そんな中、弥三郎は一歩、無造作に進み出る。その瞳にも足取りにも恐れはない、今更どうして死を恐れるものか。黄泉路ならば一度歩んだ、もう一度闇の中を駆けることで勝利への先駆けとなれるのなら本望ですらある。今度こそ勝つために、約定を果たすために、今もう一度、死を越える。果てのない闇の中でも、確かな灯火を弥三郎は宿していた。




