38、あるいは約定として
出陣の準備が整ったのは八の月の二つ目の週、三番目の日、その夜のことであったとヴァレルガナ家の公文書には記されている。
僅か半日足らず、当時の基準に照らせば、破格といってもいい。総勢千二百、それだけの人足が僅かそれだけの間に戦いの準備を整えていた。当然集った将の力もあるが、それ以上に、ヴァレルガナ辺境伯家が平素より蓄えてきた軍備がそれだけの事を成すだけの下地となっていた。
騎兵衆三百、徒歩衆七百、弓兵衆二百、どの隊も軽装であり、軍列の盾たる重歩兵は必要最低限に抑えられていた。旨とするのは速度、それ以外に無い。一日でも、一刻でも早くラケダイモニアの砦に辿り着くための備えであった。
ラケダイモニアまでの三日の道程、それをできうる限り短縮するためにそのような策がとられたのだ。その先陣を行くのは、その策の立案者であり、筆頭家老でもあるグスタブ卿。それを補佐するべく先陣に補せられたのが後のアルカイオスの黒雷、下方弥三郎忠弘であった。
「―-―よしよし、よく食べよ」
ネモフィ村の村長より譲り受けたぺルソダスの黒の毛並みを撫で付けながら、弥三郎はその時を待つ。出立は丑の刻と決まった。それまでにできること全てしておかなければならない。
軍からも、自らの隊からも離れた場所で、弥三郎は自らの乗騎の世話をしていた。これもまた戦の一部、怠るわけにはいかない。
戦場において武士が一番に信ずるべきは己が乗騎、それに身を預けられずして戦場で生き残ることなど適わない。馬との間の信頼、言葉ではなく血で結ばれたその絆こそが戦場においてもっとも頼りとすべきものだ。
その点において、弥三郎はぺルソダスに全幅ともいえる信頼を置いている。三日と少しという時間ではあるものの、この老いた馬は弥三郎の求める動きに全て答えてみせた。若い馬ほどの瞬発力は無くとも、持久力や細かな動きに関しては一日の長がある。速さを維持しなければならない此度の戦においてはそれは何よりの強みとなりうる。
あとはそれを乗り手が使いこなしうるか、ぺルソダスの信頼を弥三郎が勝ち取りうるかに掛かっている。
「……落ち着いてる、すごくいい馬」
背後から鈴の音のような声が響いた。
それに答えて弥三郎はゆっくりと振り返る。この声の主を良く知っている、その奥にどれだけの不安と恐怖があり、それに負けないだけの強さを持つ事も良く分かっている。だからこそ、向き合わなければならない。その強さを尊び、愛し、忠を誓ったからこそここで向き合わなくてはいけないのだ。
「――アンナ殿」
「……………」
振り返ると、そこには今生の主、森の魔女ことアンナがいた。昨日のようなこの城に溶け込むための服装ではなく、森の魔女の正装たる緑衣を身に纏い、手には彼女の背丈ほどもある杖を携えていた。
顔はフードに隠されているものの、弥三郎には彼女の表情を伺う事ができた。張り裂けそうな心を誇りに隠し、不安と恐怖を押さえつけようとする健気な貌、弥三郎には彼女の想いが痛いほどに理解できた。
だからこそ、こうして向かい合うことを今まで避けてきたのかもしれない。そう認めざるをえない、向き合ってしまえば迷いを抱いてしまう、その事を無意識の内に恐れていたのだろう。
だが、向き合わねばもっと大きな悔いを残す。例え惑うことになったとしても、悔いだけはここで立っておかねばならない。
それはアンナとて同じ、故にこの場所に来た。明確な別れを避け、ただ無事を祈るだけということもできた。けれども、それは悔いを残す。それが分かっているからこそ、彼女はここにいる事を選んだのだ。
「……ヤサブロウ、私も一緒に――」
「それはできませぬ。これから参るのは戦場でござる。アンナ殿をそのようなところへお連れするわけにはいきませぬ」
「……けど」
「こればかりはまかりませぬ。どうか……」
答えは最初から決まっている。彼女を戦場へと連れ出すことは、それだけはできない。今回の戦はあのネモフィ村でのものとはわけが違う。死の量も、流れる血の量も、交わされる憎悪の熱量も比べ物にならない。
それがどれほど彼女の負担になるか、契約により繋がれた今ならば弥三郎には我が事のように理解できる。
「…………でも、私がいれば」
「だからこそでござる。アンナ殿には城に残っていただきたい」
なおも渋る彼女に諭すようにそう告げる。だが、どれだけ彼女が望んでも、それに答えることはできない。
確かに、彼女の力は戦場においても有用、これ以上のないほどの強みとなりうる。あの戦いと同じように敵の陣容を天から把握できるのなら、斥候すらいらない。なんの犠牲も払うことなく、情報を得られるのならそれに越したことはない。
故に、彼女を連れて行くわけにはいかない。行けば彼女は力を使う事になる。森から離れ、ただでさえ消耗した力を酷使することとなるのだ。それがどのような結果を齎すか、それが分からぬ弥三郎ではない。彼女がそれすらも厭わぬ気高さを持ち合わせていても、臣として彼女を押し留める義務が弥三郎にはある。
「……アンナ殿、此度の戦が終わり次第、森へと帰りましょう。アイラ殿も連れて、あの森へと、帰りましょう」
誰にでもなく、誓うように弥三郎はそう口にした。ただ、帰ろうと、あの森へと共に帰ろうと、そう約定を交わしていた。
「……必ず?」
「ええ、武士に二言はございませぬ。この弥三郎、必ず生きてアンナ殿の元へと帰参いたす」
それは即ち、生きて帰るということ、どれだけの大戦でも必ず生きて帰るとそう弥三郎は口にしたのだ。戦場に絶対はない、それが分かっていてなお、弥三郎はそう約束した。
「……分かった。必ず」
絶対ではない、それはアンナとて理解している。彼の行く道は修羅の道、そのお膳立てをしたのは自らであり、こうして縋る資格すらないことも重々承知している。
それでも、その約束に縋らざるをえなかった。森を離れて一週間足らず、弥三郎とであって半年足らず、たったそれだけの間に様々なことがあった。だが、これは、こんな別れは初めてだ。
母を亡くしたときは悲しむという事さえしらなかった。だというのに、今は不安で堪らない。彼を失うという事がまるで世界の終わりのようにさえ感じられる。戦よりも、術をしくじる事よりも、ただそれだけのことが恐ろしくて堪らなかった。
故にその詞に縋りつく。ただの言葉だとわかっていても縋らざるをえなかった。たとえそれが何の意味もないことだったとしても、そうする以外には所作を知らない。
「……ヤサブロウ、これ、もっていって」
「これは……」
だからだろうか、自然そうしていた。守護と導きを示す印の刻まれた琥珀、母の唯一の形見を手渡す。母の死したその時から、肌身離さず懐に収めてきたそれ、母との縁を弥三郎へと託す。
「……それがあれば、必ず帰ってこられる。だから……」
無論、それほど力がこの石にあるのかと問われればそうだとはいえない。それでも、信じた。母が残し、常に自らと共にあったこの石なら彼を導き、守ってくれるはずだとそう信じて託した。
「……分かり申した。必ずや、アンナ殿にこれを返しに参りましょう」
受け取るその手は恭しく、主君よりの賜り物を受け取るに相応しい丁寧さと礼をもって弥三郎は彼女の縁を受けた。手の平に置かれた琥珀からはその大きさからは考えられないほどの重さと熱が伝わってくる。弥三郎がその由来を知るわけがなく、刻まれた印の意味を知りえるはずもない。それでも、託された意味は確りと伝わっていた。
「――では、行って参ります」
「……うん、行ってらっしゃい」
想いをその手に、別れを告げた。颯爽と鞍に跨り、手綱を握る。見据えるは先、一点の曇りもなく視線は研ぎ澄まされていた。
迷いは晴れた。死を恐れはしない、けれども、生を捨てることはない。死地に赴くのは、勝つため、死中において活を拾うため。想いを手に、歩を進めるのだ。
刻限を告げる塔の鐘が鳴り響く。深夜に差し掛かるころ、夜陰に紛れて彼らは行く。ラケダイモニアの砦、三万の敵に囲まれたその死地こそが、彼等の目指す場所であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
イルンラト、西方の国境へと繋がる道に鎮座する山の名である。その険しい峰と切り立った山肌は古くから天然の要害として知られており、事実幾度なく西方からの侵攻を阻んできた。まさしく、アルカイオス王国にとって東のパウサニアスと並ぶ国家鎮護の山といっても過言ではない。
しかし、いまはその山こそが彼ら、ヴァレルガナ軍にとっての最大の障害となっていた。
ラケダイモニアの砦はイルンラトの中腹の開けた台地にある。必然的に、そこに辿り着くには半日は掛かる山道を行かねばならず、その間、台地に陣取る敵軍に姿を晒すことになる。そうなればこの救出戦の意味は喪失する、正面からでは勝ち目などない。千五百のヴァレルガナ軍は三万のタイタニアに踏み潰されるだけだ。よしんば、奇襲に成功したとして、手痛い損害を被ることは間違いない。
かといって山を迂回し、西側からラケダイモニアへと回りこむ道では時間が掛かりすぎる。五日後までラケダイモニアはもちはしない、砦の落とされた後に奇襲をかけたところで兵をあたらに失うのみだ。
それでは意味がない、砦を救い、尚且つ兵をできうる限り温存しなければ今回の出陣はその大義を失ってしまう。その二つを両立できなければ、全てが水泡に帰すのである。
この矛盾した二つを成り立たせる唯一の道こそがグスタブ卿の言上した山の抜け道である。
イルンラトの山腹にあるというその抜け道、古くは龍髭将軍といわれたロストロモ公が用いたといわれるその道は、長い間忘れ去られたものだった。
その過去の遺物、伝説の名残とも言われるその場所の存在をグスタブ卿が知りえたのは全くの偶然に過ぎない。数年前のこと、偶さか元来より嗜んできた古書の中にその記述を見つけ、彼にそれを確かめるだけの余暇があった、ただそれだけのことにすぎない。
実際に発見し、何処につながっているかを確かめたその時は驚いたものの、日誌に記しただけで終わるはずだったその抜け道。たったそれだけのものが、ヴァレルガナの、ひいてはアルカイオス王国の運命を左右することになるとは誰も思いはしなかっただろう。
ヴァルカンの大口、嘗てそう呼ばれたその場所、古き山の翁達の築いたその坑道こそが彼等の運命を変える唯一の活路であった。




