36、あるいはその綻びが
見渡す限り、山の裾野を紅白の軍勢が埋め尽くしていた。鎧を纏い、剣を帯びた戦士たちの列が延々と続く。掲げられた槍は天を突き、携えられた弓に射貫けぬものはない。兜から覗く瞳には狂気にも似た戦意、恐れも迷いもない純粋な光が宿っている。
その戦列が向かうのは一つ、国境を守る砦、その場所こそが彼等の進軍を阻む最後の障害物であった。
「まだ落ちんのか。随分と梃子摺らせてくれる。なあ、オイデン」
「閣下の仰せの通り。異端どもにしてはよく持ち堪えおるものかと」
うむ、そうであるな、と頷き返すと、ガストン司祭長は再び砦へと向き直る。砦の正面の台地、極めて前線に近い場所に設営されたこの本陣からは、味方の陣立てはもちろん、件の砦をも見渡すことができた。
ラケダイモニアの砦、タイタニアとアルカイオスの国境際に建設されたその要害は特段、堅固さを謳われるような砦ではなかった。山を背にすることで、地理を味方につけてはいるものの、砦そのものの造りは極単純なもの。その上、過去に小競り合いはあったが、このような大軍勢を相手どった記録は一切ない。いざ囲んでしまえば、三日で落とせる、こうして梃子摺るとは砦側も含めて、誰一人として考えてはいなかった。
八の月、二つ目の週の五日、小さな砦は五日もの間、三万の軍勢を相手に持ち堪えていた。
「オイデンよ、先陣の将は誰であったかの?」
「アルテア卿でございます、閣下」
「ふむ、あの若造か。不甲斐ないのう、わしの若い頃ならあの程度の砦、羽虫のように潰してくれようぞ」
「全くその通りで」
下品に大笑いする司祭長に対して、傍らに控えた稚児は同意を返すのみ。彼等には賞賛と同意以外の意思表示は許されていない。
実際ところ、精強で知られるタイタニアの将兵はよく戦っている。昼夜を問わず、休むことなく砦を攻め立てているし、損害は少なく、士気も一切落ちてはいない。
だというのに、未だ砦は落ちていない。既に千に満たない将兵は壊れかけの門を硬く閉ざしたまま、抗戦の意思をもち続けている。
驚くべきことといっていい。オリンピアの歴史においても、自ら退路を断ってまで篭城を続けた例は数少ない。十倍以上の敵に囲まれれば、大半の将はそこで降伏を選択する。戦ったところで勝てるはずもなく、自らと兵の助命を請うて降るのは恥ではない、むしろ賢い選択といってもいいだろう。
このラケダイモニアのように最後まで戦い続けるものは滅多にはいない。その理由があるとすれば二つ、忠義に狂ってか、信仰に狂ってかの何れかである。
「攻勢を強めるように、アルテアに申し伝えよ。来週までに落とせねば枢機卿猊下に申し訳が立たぬ」
命を受けた稚児の一人が伝令に走る。この本陣、司祭長のおわすこの陣幕には最低限の護衛が置かれているのみであった。
いずれにせよ、あの砦は落とさねばならぬ。五百の小勢とはいえ、砦の位置が位置、行軍中の背後を突かれる事はなんとしても避けなければならない。
「いっそ火を掛けてしまえば話が早いのだがな」
「閣下、そういうわけには……」
「言われずとも承知しておるわ。あの地は我らが橋頭堡、焼いてしまっては価値がない」
その上、事前の軍議では落としたラケダイモニアの砦を拠点として、アルカイオス本国へと攻め入るその決まっていた。それを覆す権限は、彼にはない。
四日後、枢機卿がこの地に至る前に、なおかつなるたけ砦自体を傷つけずに、落とさねばならない。
司祭長が見詰めているのは、今回の戦ではない。勝つと決まっているものに関心を向ける必要はない。彼が見据えているのはその先、どのように勝ち、どのように立場を守り。また手に入れるかのみである。
「ふん、最初からそうしておればいいのだ。若造め、手を抜いておったな」
伝令を送ってしばらくあと、遠く最前線で気勢上がる。角笛が吹き鳴らされ、太鼓が打ち鳴らされた。総掛かりの合図だ。
峰に聳える小さな砦に数千の軍勢が蝗のように群がる。櫓や投石器、破城槌はないが、これだけの戦力差があればそれも問題にはならない。あの壊れかけの城門さえ破れば、瞬く間に守備兵たちは蹂躙されるだろう。
それでもなお、砦は抗う事を止めはしない。城壁のうえから矢が射掛けられ、石から馬の死骸までありとあらゆるものが投げ落とされる。正しく決死、この状況にあって砦の守兵たちは一歩も退きはしない。
しかし、それも時間の問題。何れは矢がつき、兵は死に絶える。あとどれだけ戦い続けられるか、それは確かではないが、そう長くはない、それだけは確かだ。
砦へと続く坂が朱に染まる。折り重なった屍の上にさらなる死が加えられ、傷に呻く将兵たちが己の順番を待つ。尽きることなく流され、途絶えることなく折り重なり、ただただ延々と続く。
死の積み重なったその道の果てにのみ、目指すべき勝利はある。戦場においてはそれこそが、いやそれのみが唯一の理である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――放て!」
号令と共に矢が射掛けられた。少し遅れて眼下の道で再び血が流れる、門へと続く坂道は紅く染まっていた。
どれだけこの瞬間を繰り返しただろうか。今日だけでも十数回、この五日間で砦に備蓄された数千の矢、そのほとんどを射尽くした。蔵にはもはや鏃一つすら残っていない。
「よーし、落とせ! 連中の石頭に落としてやれ!!」
矢がなければ戦えないか、白旗を掲げ、敵の軍門に降るべきか否か。答えは簡単明瞭、断じて否である。
矢がなければ石で、門が破られれば剣と槍で、それすら折れれば両の手で戦う所存。戦いが始まってから五日、その間、攻められれば攻められるほどラケダイモニアの将兵の意気は高まり続けていた。
狂気にも似たそれは率いる将があってのもの、将たるものがそれを掌握してこそである。
「手の開いているものは門にまわれ! まだ敵を中に入れるなよ!!」
フェルナー・フォン・ロエスレラ騎士卿は城壁の上、自らを矢面に晒しながら指揮を取っていた。五日の間、休むことなく兵を鼓舞し、彼らを率いてる。
騎士卿がいなければ、五百の兵もただの烏合の衆、和戦どちらかを決する前に巨人に踏み潰されていただろう。砦そのもの以上に、彼こそが守りの要といっても過言ではない。
五十年前、タイタニアとの間に講和が結ばれてから、このラケダイモニアの守将は名ばかりのものとなった。その名ばかりの守将を担ってきたのがロエスレラ家だ。国境の守護を司る名誉、そういえば聞こえがいいが、実際のところは中央の政治と関わることのない閑職に他ならない。
それでも、彼と、彼の父は自らの役目に誠実であった。兵の鍛錬は休むことなく精強に、貯えは潤沢で意気軒昂、小さな砦に過ぎなかったラケダイモニアを堅固な要衝へと造り替えてきた。
幾星霜、誰に嘲笑われたとてひたすらそれを続けてきた。それは信念のため、この地に倒れた先祖のため、背後にある故国のため。
五十年、親子二代の研鑽は今ここに活きている。
「ッいかん、弓衆、あそこだ! あの騎士を射るのだ!!」
攻撃の隙間を突いて、城壁に雲梯がかけられた。少し遅れて、矢を射掛けるように命じても時を逸している。白い甲冑の騎士がすでに城壁に手を掛けていた。
この五日で初めてのこと、梯子をかけられ、砦の内側への侵入を許すなど、今まで一度もなかった。限界が近づいている、その予感がフェルナーの背筋を走った。
「――!!」
予感を振り払うように、誰よりも早く駆けた。白い騎士が体勢を立て直すよりも先に、勢いのままぶち当たるように切りかかる。
振るった剣は甲冑を貫くことはあたわずとも、身体をぶつけられた騎士は城壁の向こう側へと落ちていく。狙いどおり続いて梯子を上っていたほかの騎士達も巻き込んで、敵は落ちていった。
「手伝え! こいつを外すんだ!!」
状況についていけていない兵士達を呼び集め、力を合わせて雲梯を叩き壊す。まだ、城内に敵を入れるわけにはいかない。
なんとしても門を破られるまで敵を中に入れるわけにはいかない。段取りどおりに、門が破られれば砦の本丸に退いて抗戦、最後の一兵まで戦い続ければあと二日、いや、三日は敵をこの砦に釘付けにできる。
それだけの間があれば、背後に控えるヴァレルガナが、ひいてはアルカイオス本国が戦に備えられる。敵は奇襲という利点を失い、五分とはいわずとも、戦えるだけの戦力を整えることができるのだ。
一日でも、一刻でも、一瞬でも長く時を稼ぐ。フェルナー自らにそう課していた。己らの稼ぐ一秒は背後に控えるものたちの一秒であると、その覚悟を兵一人一人までに徹底してきた。その信念に忠実に、この砦の兵達は最期の一兵まで戦い続けるだろう。
八の月、二つ目の週の五日、ここは戦場、狂気が交錯し死が量産される修羅の巷だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
兵は神速を尊ぶ、その真理はこのオリンピアにおいても変わりはない。いち早く情報を掌握し、いち早く群を整え、いち早く敵に攻め入ったものが勝利を納める。一日の遅れは即ち、敗北へと繋がる。
その点において、出遅れはしたもののアルカイオス王国、及びヴァレルガナ辺境伯家は非常に早い段階で状況を把握していた。背後には、国境のラケダイモニアの砦の尽力、イルンラト山の狼煙台の決死が勿論存在しているが、それでもその翌日には状況を把握していた。これは当時の基準に照らし合わせれば、奇跡といってもいいだろう。
対して、宣戦布告をせず、半ば奇襲の様にアルカイオスに攻め込んだタイタニア連邦の先陣ではあるが、砦の予想外の抵抗により、その利を失いかけていた。本来ならば、三日目にはヴァレルガナの居城を囲み、枢機卿率いる五万の本隊を待つのみとなるはずだったのだ。それが小さな砦に拘泥し、未だ橋頭堡を築けずにいた。由々しき事態といってもいいだろう。奇襲からの短期決戦、事前の軍議で意図された結末は早くも綻びの兆しを見せはじめていた。
巨神暦千五百九十年、八の月、二つ目の週の六日、その綻びがどのような運命を決するか、今はまだ誰の目にも定かではなかった。




