33、あるいは死を前にして
軍議は終始、一つの事柄について争われることになった。
ラケダイモニア砦を救援すべきか否か、城の重臣たちの意見はその事を巡り、真っ二つに分かたれた。単純な道理で言うのなら、国境の守護を担う砦を救援するのは至極当然のこと。敵に取り囲まれた味方をみすみす見殺しにするなど騎士として許されるはずもない。
だが、今のアウトノイアの城は決して十全とは言い難い。敵は恐らく大国タイタニア。城中の傭兵と騎士を掻き集めてもたかが千五百、城を守るのには足りても、打って出るにはあまりに心もとないのだ。その上、各地の領主が手勢を率いて城に参集するまではどれだけ早くとも三日は掛かる。王都からの援軍を待つなら、さらに七日。そしてラケダイモニアまでは二日。計十二日。砦が生きている間に救援を送ることは、到底不可能な公算である。
危険を侵し砦の救援に向かうか、大局を見据え味方を切り捨てて城の守りを固めるか、アウトノイアの城は難しい決断を迫られていた。
そんな決断を城主不在のまま下すわけにいかず、軍議は堂々巡りを続ける。ただ時間を無駄にしていると知りながら、彼らはただそうするしかなかった。
そして、その夜、若き城主、アレクセイ・フォン・ヴァレルガナの帰還。彼等の待ち望んだ主の帰還こそが、閉塞しきった状況を打開する切欠となる、そのはずだった。
彼の発した、敵はタイタニアという報せ。その一言が軍議の空気を一変させた。その場に居合わせた誰もがその事を予想はしていたものの、いざそれを聞かされると、首元に刃を突きつけられたような思いだった。無理もあるまい、タイタニアといえばオリンピアでは知らぬもののいない西域の雄、それと戦になるのだ、臆するなというは酷だ。
されども、今更それで逃げ出すようなものもいない。むしろ、若い騎士達の中には恐れを乗り越え、立ちはだかる難敵と迫る大戦に武者震いを覚えるものさえいた。
その様に感動にも似た頼もしさを感じながらも、より深刻さを増した現実を只管直視するものもいる。少なくとも、グスタブを含めた城の重臣たち、そして、城主たるアレクセイは努めてそう振舞おうとしていた。
敵はタイタニア、王都からの援軍が到着しても、勝ち目があるかは分からない。兵力にして二十倍強、国力にして百倍近く、このアルカイオスが戦おうとしているのはそれだけの超大国、蟻と象が戦うようなものだった。
「――若殿、クリュメノスとは如何に? 援軍は参らんのですか?」
筆頭家老にして城代、グスタブ卿がそう口火を切った。クリュメノス、その単語に場がざわめいた。恐ろしさで論じるなら、タイタニアよりも遥かにクリュメノスのほうが恐ろしい。
だが、ただ敵を恐れるだけでは滅ぼされるだけ、時には蛮勇を奮い立たせ、微かな希望に縋るべきときもある。その希望がさらなる厄災を呼び込むことになるかもしれないと分かっていても、それすらも飲み込まねば生き残ることなどできはしないのだ。
生き残るために取り得る道は二つ。タイタニアに白旗を振るか、それとも戦うか。その二つしかない。
父祖の土地をみすみす明け渡すことなどできない、臆病者として生き残るよりも勇敢な戦士として死ぬ、それだけの矜持を彼らは持ち合わせていた。
そして、戦うのならばもっとも恐ろしい敵こそが最大の味方となりうる。
東の雄、クリュメノス大帝国。タイタニアにも勝る版図を持つ、オリンピア最大最強の帝国、タイタニアと事を構えるなら、彼等の後ろ盾を得るのが唯一無二の策だ。
グスタブ卿の言葉は決して絵空事ではない。ヴァレルガナ侯爵家でも家老以下のものには知らされていないことだが、王都では皇帝キャスクレイの行幸の受け入れが決定したばかりだ。それは即ち、事実上、クリュメノスに臣従したと同じこと。援軍を得るだけならば、そう難しいことではない。
「私も急使によって知らされたのだ。私が城を出た時点ではタイタニアがこれほど早く攻めてくるなど誰も予想すらしていなかった」
「ならば山越えをしたとしても一月は掛かりましょうな。うむ……」
しかし、かの北の騎士たちでも足は馬だ。翼があるわけでもなければ、魔術が使えるわけでもない。パウサニアスの峰を越えるにしても、クリュメノスの最東端の街からでは長旅になる。一月で到着すれば御の字、それ以上掛かるということも大いに考えられる。今すぐアテにしようというには訳にはいかない。
「若様、やはり、ここは篭城しかありません。このアウトノイアはアルカイオス第一の堅城、如何にタイタニアが強力とはいえ、王都からの援軍を加えれば、半年でも戦い続けられましょう」
ならば、取るべき方策は一つ。城に篭り、援軍が来るまで時間を稼ぐほかにない。集められた傭兵達とて文句は言えない、会戦よりは稼ぎは少なくなるが、タイタニア相手の会戦となれば勝率は低い。命あっての物種、彼らにも篭城に異を唱える理由はない。
軍議の大勢は篭城へと傾きかけていた。確かにラケダイモニア砦の喪失は大きいが、その結果としてアウトノイアの戦力を失うよりも遥かにいい。信義に反していたとしても、決断を下さなければならない時は往々にしてあるもの、それが痛みを伴うものであってもだ。
「致し方あるまい。アレクセイ・フォン・ヴァレルガナの名において篭城に決する、各々――」
軍議の行われている謁見の間に使者が駆け込んできたのはちょうどその時だった。およそこの場に似つかわしくない泥と埃に塗れた鎧を着込んだ歳若い騎士、傷を負っているのか、息も絶え絶えでまともに歩くこともままならないものの、その目だけは未だ生き生きとした戦意を讃えていた。
「な、なにごとか! この謁見の間に……」
「ご家老! このものはラケダイモニアの御使者にございます! ロエスレラ卿からの書状を携えておりました!」
「それは真か!?」
「書状はこちらに――」
今にも倒れそうな彼を支えていた騎士の一人が家老に書状を手渡す。砦の窮乏を知らせる文章の最後に、卿からの正式な書状である事を示す花押が押され、彼のサインもある。間違いなくロエスレラ卿からの書状だ。
「ご報告申し上げる……! 砦は既に敵に囲まれております。旗はタイタニア、数は三万、率いる将はガストン司祭長……退路は既になく、ロエスレラ騎士卿旗下、我らラケダイモニア衆、死してアルカイオスの盾となる覚悟でございます」
声も枯れているがそれでも彼の声は堂々としたものだった。彼に後を託して砦に残った卿と一千の兵、その覚悟と命を彼は背負っていた。
「役目、大義であった」
アレクセイがそう労うと、その使者は事切れたように動かなくなった。この城に至るまで敵の囲いを抜けてきたのだろう、脇腹に負った傷はすでに命へと届いている。彼か生かしていたのは託された使命であり、背負っていた覚悟の重さだった。
場の空気が凍ったように冷たくなる。ラケダイモニアからの命懸けの使者はこの状況は否応なく彼らに思い知らせた。
三万の軍勢、それだけの数を揃えていてもタイタニアとっては先駆けに過ぎない。これを遥かに上回る大軍勢が本国には控えている。山の裾野を埋め尽くさんばかりの大軍勢が砦には迫っているのだ。ラケダイモニアどころか、篭城したとしてもこのアウトノイアでさえ危うい。
「三万とは、それほどの軍勢をこの短さでいったいどうやって…………かのタイタニアといえ、北方ではクリュメノスと戦っておるだろうに……」
「やはり、あの話が漏れていたとしか思えぬ。でなければこのようなことできようはずがない」
「……なんであれ、敵は迫っておるのだ。評定のとおり、篭城あるのみ。万が一此処が落ちれば、王都は目と鼻の先、なにがなんでも守り切らねばならん」
ますます状況は切迫しているが、もはや選択の余地はない。戦うか、死か、戦においてはそれだけしかなく、それが真理だ。
そこに悲壮感も、絶望もない。これ以上ない大敵を前にしても、アウトノイアに集った戦士たちは、その身分を問わず、諦めを抱くものは一人としていなかった。
「では、若殿、評定どおりに」
「うむ。皆の衆、先程のとおり此度の評定は篭城と――――」
「――待つがよい。倅よ、決を下すにはいささか性急にすぐるぞ」
篭城の他ない、そう場が決しようとするその直前、厳かで深い声がそれを遮った。
その声に、アレクセイやグスタブ、アウトノイアの家臣たちは己が耳を疑うことになった。二度と聞くことのかなわぬと思ったその声、時に彼らを叱咤し、時に励ましてきたその声の主こそ、このアウトノイア城の真の主、アレンソナ・フォン・ヴァレルガナであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――皆、心配を掛けたな」
謁見の間の玉座に腰掛けた辺境伯はようやくといった調子でそういった。決して大きな声ではないのに、その言葉は広い部屋の隅まで轟くようだった。
「……父上」
「アレクセイよ、王都での役目、大儀であった。これでそなたも一人前のヴァレルガナの嫡子よ、父はうれしいぞ」
「も、もったいなきお言葉。しかし、父上……」
「心配はいらん。このアレンソナ、大戦を前にして寝床でなど死ねるものか」
気遣いは無用とばかりにアレクセイを制し、辺境伯は集った兵たちを玉座から満足げに見渡す。戦支度を整え、戦意をたぎらせた軍勢、それを目の前にしているだけで病に蝕まれた体が若返ったかのようだった。
在りし日、もう二十年も前のこと、甲冑を身に纏い軍馬に跨り、戦場を駆けた日々。トスカノトの内乱、北方との小競り合い、幾度となく剣を振り、幾度となくその手を朱に染めた。決して良い思い出ばかりではないものの、得るものは大いにあった。
こうしているだけで、その日々が蘇るようだった。
「大殿……」
「お前も下がっておれ、グスタブ。事の委細は承知しておる。身体は動かぬが、頭までは耄碌しておらんわ」
「それを聞いて安心いたしました。大殿に痴呆になられては我らが始末に困りますゆえ」
「抜かしおるわ、老いぼれめ。見ておれ、そなたよりも長生きしてくれようぞ」
緊張しきった家臣たちの中で、グスタブだけが砕けた調子でアレンソナと冗談を交わす。彼にとって辺境伯は敬愛する主君であるのと同時に、背中を預けあった戦友でもある。
ヴァレルガナの荒武者あるところその懐刀あり、そう謳われたころの記憶は今でも生き生きと二人の中で輝いていているのだった。
「――それにしても篭城とはな。皆の衆、嘗ての内乱でわしの戦歴は知っておるな。特にカドニアでの篭城の談を思い出して欲しい」
場が落ち着いたところで、辺境伯は重臣たちへとそう語りかけた。彼の豊富な経験の中には篭城のものも当然ある、二十年前の内乱の折には城を取り囲まれ、三月に渡って篭城を続けた。
彼の経験の中でも最も激しく、最も凄惨なもの。賊軍は堅固に守りを固めた城にたいして、田畑を全て焼き払い、補給路を断った。
二月の戦いの後には、城の庭を埋め尽くすほどの死体の山が積み上げられ、動けなくなった病人と怪我人が城の廊下で順番を待っていた。援軍がたどり着いたのは、飢えた末に軍馬までも食し、殺気だった味方同士で同士討ちが始まる、その直前だった。あの時ほど戦を呪ったことも、死を身近に感じたこともない。おおよそ規律や秩序といえるものはそこには存在していなかった、この世の地獄があるのなら正しくあれの事をさすのだろう。
それが自らの居城で、故郷で行われる、その事実の重さと厳しさを誰よりも辺境伯その人が理解していた。ただ篭城するのではあの時の二の舞になりかねない。しかも、相手は統制の取れぬ賊軍とはわけが違う、オリンピアにその名も轟くタイタニア、その大軍勢が相手だ。グスタブ以外の重臣たちが考えるよりも遥かに戦は厳しいものになるだろう。
「ただ篭城するだけではおそらくは援軍が来るまで我等はもたん。下手を打てば、城は内部から引き裂かれる、タイタニアの城攻めはそれが定石、今の我らでは連中の術中に嵌るのみだ」
「し、しかし、父上、敵は大軍で……」
「だからこそだ。篭城するだけでは勝てん、我らには策が必要なのだ。なあ、皆の衆?」
しかし、辺境伯とて何か明確な策があるわけではない。居並ぶ重臣たちにも何か献策できるほどの考えはない、きっての知恵者たるグスタブでさえ口を噤んでいた。彼らとて無能なわけではない、だが、危険を顧みない策を容易く選べるほど彼らは若くはなかった。
「では、他の者どもに問おう。若衆よ、このアレンソナが差し許す。身分の如何は問わん、傭兵でも若輩でも何か策あるものはこの場にて言上せよ」
居並ぶ若輩たちを前に辺境伯はそう宣言する。体裁ややり方に拘っている余裕はない、何か策があるのならそれがたとえ飯炊き女の思いつきでもいい。
されど、口を開けるものはそういない。辺境伯に献策するということへの緊張は勿論あるが、それ以上に誰一人として自分の考えに確信が持てない。激戦を経験した辺境伯やグスタブ卿でも思いつかないものが自分たちで思いつくはずがないと、彼らを敬うからこそこの場に揃ったものたちは策を述べることができなかった。
「…………畏れながら言上仕る」
その中でたった一人だけ、居並んだ者たちのなかでたった一人だけ、恐れずに詞を上げるものがいた。末席にいた、奇妙な男。見慣れぬ甲冑の上にヴァレルガナのマントを纏った異民族、客将としてこの軍議に列席していた下方弥三郎忠弘、その人であった。




