30、あるいは偽りでさえも
すれ違う誰もが殺気立っていた。厳しい甲冑を身に纏った騎士達や、洗濯物やら食事やらを抱えた女中たちまでも忙しなく動き回り、昨夜までの浮かれた空気は微塵も感じられない。一夜にして、まるで違う場所に来てしまったような、そんな気さえ起こすほどの変わりぶりだった。
「…………何か、あったのでしょうか?」
「わかりません。ただ事でないのは確かですが……」
夜が明けても、辺境伯が目を醒ますことはなかった。しかし、呼吸は乱れておらず、安らかで深い眠りだった。当面のところ心配はない、そう判断したユスティーツァはアイラを連れ立って食堂へと向かっていた。これからのためにも遅めの朝食をとっておくのは悪くない。
けれども、その時間はユスティーツァにとっては決して不快なものではなかった。住み慣れた城の情景も一人で見るのとは違ってみえる。灰色の廊下も、厳格な表情を浮かべた肖像画たちも、これまでよりも色づいて見えた。きっと豪勢なれども代わり映えのしない朝餉も違ったものに思えるはずだ。
城中の様子がユスティーツァをして未経験なほどに一変したのはその矢先のことだった。
「――もし」
「は、はい、姫様」
慌しく廊下を駆けて行く騎士の一人を呼び止める。
甲冑の上にはヴァレルガナの臣下たる証、獅子の刺繍の陣羽織、城中にもかかわらず、腰には剣を佩びており、儀礼的なものではない戦支度が整えられていた。
「朝から騒がしい、何事か?」
「憚りながら私めの口からは申し上げられませぬ。姫様におかれてはどうか、ご静養のほどを」
「こう騒がしくては朝餉一つ、穏やかにすませられません。誰の命か?」
「ご家老様にてございます」
「……わかりました、下がって宜しい」
求める答えが返ってこなくても、彼女には落胆も怒りもない。騎士が臣下として示す態度も、彼女が姫としてみせる態度もお互いの望むもの故に。
ヴァレルガナ公が娘としての顔、ユスティーツァ個人ではなくユスティーツァ・エル・ヴァレルガナとしての仮面で臣下と接する。それは彼女が生を受けてから続けてきた習慣のようなものだった。
「爺は謁見の間かしら。アイラさん、とりあえずそっちに行ってみましょう!」
「……はい、お供いたします、姫様」
まるで別人、数秒前の彼女と今の彼女はどうしようもなく一致しない。アイラには自らに向けられる無邪気な笑顔と先ほどの冷たささえ感じられる能面が一つの人物の持つものだとはどうしても思えなかった。
ユスティーツァの読みどおり、グスタブは謁見の間で見つかった。それもそのはず、城全体の指揮を取るのならその場所にいるのは当然のことだった。
「グスタブ!」
「……姫様」
同じく戦支度を整えた老年の騎士は恭しく彼女に答える。普段のような気安さを今は見せるわけにはいかない、姫として、家老としての厳格さを損なうわけにはいかないのだ。
「城が騒がしい、何事ですか?」
「戦でございます、姫様。西の狼煙台にて火が上がりました。おそらくはラケダイモニアかと」
「え?」
驚きの声を上げたのはユスティーツァではなく隣に控えていたアイラだ。彼女には目の前の老騎士が口にした短い言葉の意味が直ぐには咀嚼できなかった。戦になる、城中で目撃したはずのその前兆、それを加味しても自らのいるこの場所が戦場になるなど想像すらできなかった。
そんな彼女に対して、ユスティーツァはできるだけ状況を理解しようと努めていた。ヴェレルガナの娘として教育は受けてきた。その中には当然、有事の際の心構え、覚悟も含まれている。ただ城に籠もり政務を行うだけが行うべきことではないのだ。
「ラケダイモニア……では、敵は……?」
「間違いなくタイタニアかと」
続く言葉がユスティーツァを大きく揺さぶった。思わず左手が胸元へと向かう、そこにあるべきを物を探して指が彷徨った。だが、どれだけ探してみても母の形見は見つからなかった。
「……タイタニアとは和議を結んでいるはずです。それがどうして……」
「和議を破ったのはこちらが先、ということになるのでしょうな。クリュメノスの皇帝の行幸を受け入れると決めた時点であちら側につくと公言したようなものですから」
「……そう、ですか。では……」
タイタニアと戦う、それはすなわち巨神教の教皇を敵に回すということに他ならない。教皇に破門されれば、アルカイオス王国そのものが異端の徒となる。当然そこに住まう信徒達もその日から巨神の手から零れたものとなるのだ。それはすなわち、死後の安寧を奪われることに他ならず、地獄へ落ちるのだと宣告されたの同じ。そして、この国にも多くいる信徒達にとっては絶望にも等しかった。
「……遅かれ早かれ、こうなっていたでしょう。それにしても速過ぎますがね」
不器用な慰めも耳には入らない。
覚悟はできていたはずだった。この城を旅立ったあの日から、信仰を捨てたはずだった。自らの痛みを神に訴えたことは一度もなかった。
それでもやはり、その事実は彼女を容赦なく打ちのめした。
「……姫様」
それでもその声が彼女を現実に引き戻す。一つ信じるべきものを失っても、まだ信じられるものがここにあった。
「大丈夫です、私は大丈夫です、アイラさん。だから、心配は要りません」
真っ直ぐにこちらを見詰める潤んだ瞳に笑顔で返す。
たとえ、神が救ってくれずともユスティーツァにはいまここには救いがある。国が滅び、城が焼けても、彼女がいる限り、なんの心配をする必要はない、彼女はそう確信していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
弥三郎に半ば連れられるようにしてアンナは城の食堂を訪れていた。事の次第は未だ定かではなく、彼女自身の心構えもできているわけでもないが、それでもとるべきものはとらなければならないと、弥三郎が無理やり彼女を連れ出したのだ。
昼時を過ぎていたからか、それとも城全体の変化のためか、いつもはごった返しているはずの食堂は拍子抜けするほど人がいなかった。元より人ごみを好まない彼女には好都合ではあった。
「――ふむ。これはまたなかなかに……」
肉の浮いた汁物にどっぷりと浸したパンを口にしながら、弥三郎はそう舌鼓を打った。城のこういった大雑把な味付けは彼に一抹の懐かしさを思い起こさせた。
厨房で働いていた使用人に姫の客人とだけ伝えると、直ぐにありあわせの食事が用意された。彼等にとっては相手が見慣れない異民族と年端のいかない少女だということはどうでもいいことのようだった。
「……巫女殿、多少はうけつけずとも食事は取られたほうがよい。日の本でも腹が減っては戦はできぬ、という言葉がありますゆえ」
「…………それこっちにもある。確か……」
「糧がなくては兵馬は進まず、だろ?」
「……ヴァンホルト殿」
邪魔するぞと声を掛け、答えを待つことなく、ヴァンホルトはアンナの隣に無造作に腰掛けた。他の騎士達と同じく、彼もまた戦支度を整えている。二人と同じく食事をしにきたのか、目の前には同じような膳が置かれていた。
「あんたらも災難だな。よりにもよってこんなときに城に来るなんてよ。いつもなら色々と案内できる余裕もあったんだが……悪いな」
「間が悪かった、それだけのこと。そちらの気に病むことでもあるますまい。それより、どれほどの戦になると睨んでおられる?」
申し訳なさそうにそういったヴァンホルトに対して弥三郎はそう返す。彼にいわせれば、この城の殺気だった様子も、特段気にするようなものでもない。むしろ、こうした戦前の張り詰めた空気こそ、昔懐かしい、慣れ親しんだものだった。
「正直わからん。西の国境の砦で何かあったのは確かだが、小競り合いの類かもしれんし、狼煙台の小火ってこともありえる。当然、その逆もな」
「ふむ、隣国とは不仲か?」
「タイタニアとは五十年前に和議を結んでる、それ以来連中との戦はなかった。それがいきなり攻めてくるなんてこと、ないとは思うんだが……」
「そうでもありますまい。和議や盟など所詮は破られるもの。ましてや隣国など機会があらば手切れとなりましょうや」
「なんだ、随分と知った風じゃないか。もしかすると経験済みか?」
「左様。今日の味方が明日の敵に、昨日の敵が今日の味方になるは弓矢を取るものの倣い。こちらでも珍しからぬ仕儀にござろう?」
「むう、そりゃそうだが……」
どうにも腑に落ちていない様子のヴァンホルトに対して、弥三郎はさも当然の如くそう言い切った。両者共に、弓馬を操り、剣を振るう士分でありながら、二人の間には大きな隔たりがある。短いながらもその人生のほとんどを戦いに投じてきた弥三郎と太平を維持するために鍛錬を積んできたヴァンホルトではその土台からして異なっているのだ。
けれども、それを言い訳にできるほど状況は優しくない。相手がなんであるにせよ、敵は迫っているのだから。
「……本当に……戦になるの?」
堪らなく消え入りそうな声。もう心中に渦巻く不安を隠しておくことすらできない。森の精気を受けるのと同じように、アンナは城中に満ちた恐怖を常に感じている。戦が現実のものだというのはこの場所にいる誰よりも彼女が実感している。その実感は弥三郎とヴァンホルトの言葉を受けて、より現実味を増していた。
だからこそ、恐ろしくてたまらない。あの時感じた死の感覚がすぐ傍に感じられる。今まさにその場所にいるかのような錯覚と命の消え行く実感が常に傍にある。できることなら、この場から直ぐにでも逃げ出してしまいたかった。
故に、その言葉は心からの懇願だった。感じている恐怖をそこにある死を否定して欲しくて、知らずその言葉をこぼしていた。
「――ええ。十中八九は」
そのわずかばかりの懇願を弥三郎は退けた。
無論、弥三郎に彼女の恐怖が伝わっていないわけではない。彼女の感じているものは彼の感じているものであり、その恐怖も不安も実感として知っている。
それでも弥三郎はうわべだけの気休めを口にはしない。主のためを思うからこそ、厳しい現実を口にしなければならないときがある。今こそがそのときだ。
「――巫女殿、このアルカイオスは堅城にござる。こちらの城の造りを知らぬ某にも、それは確信をもっていえます。さらに城を守るはここにおられるヴァンホルト殿を含めた猛者ばかり。敵が如何ほどのものであれ、万が一にも城中に火が及ぶことはありません。なあ、ヴァンホルト殿?」
「――ああ、そいつは請け負う。客人に傷をつけちゃヴァレルガナの沽券に関わる」
慰めとも励ましとも取れるような弥三郎の言葉にヴァンホルトが力強く応える。二人の言に一切の偽りはない。両者共に心底からの確信をもってアンナにそう告げていた。
「……うん、わかった」
思わず漏れたその言葉は初めての偽りだった。目の前の誰かを、自らの従者に心配を掛けまいと、生まれて初めて口にした偽りだった。
例え通じ合っていても、理解できているとは限らない。彼等の言葉は誠意に満ちた一切の偽りのないものであった、けれど、それが彼女の恐れをはらうことはない。
彼女の実感は、感じている恐怖はもっと根源的なもの。戦に負けることを不安に思っているわけでもなければ、自らの死を恐れている訳でもない。あの鮮烈さ、あのおぞましさ、あの激しさ、命を散らす戦いという行為そのものを彼女は恐れていた。
「――騎士長! ここにおられましたか!!」
僅かに訪れた沈黙を一人の闖入者が破った。食堂に飛び込んできた歳若い騎士はヴァンホルトを見つけると、息を切らしながら歩み寄ってくる。
「おう。どうした?」
「ご家老がお呼びです! お客人も共に参られるようとの仰せでした!!」
「あ、ああ、わかった。だがな、坊主、少し肩の力を抜け、喧しいぞ」
「はい! 申しわけありません!!」
緊張しきった若い騎士に苦笑しながらも、ヴァンホルトは残っていた料理を直ぐに掻っ込む。悠長にも思えるが、きちんと食事をとるのは戦うものとしての倣い。そういう意味でもヴァンホルトは騎士あるべき姿を体現しているといえるだろう。
「そういうことだ、お二人さん。叔父上のお呼びだ、一緒に来てもらうぜ」
「――相分かった。巫女殿……」
何時の間に食べ終えていたのか、弥三郎は立ち上がり、アンナへと心配げな視線を送る。理解はできずとも、未だに彼女の心中で渦巻く不安を彼は感じていた。
「……私は大丈夫、行こう?」
故にまた、嘘をついた。
彼と共に行くために、また一人にならないために、彼女はまた自らを偽った。森の掟において嘘とは避けるべきもの、己を偽ることは世界を偽ることだからだ。森と、世界と繋がる事を務めとする森の魔女にとってそれは自らを傷つける自傷行為に他ならない。
それでも彼女は嘘をついた。今ここにいるために、彼の傍にいるためにアンナは初めての嘘をついたのだった。




