29、あるいは混迷のとき
彼は昼夜をおして、只管街道を駆けた。
馬に鞭打ち、雨風を物ともせず、矢のように道を進む。一刻も早く、立ち止まる暇さえも惜しんで、その一団は南へと降った。
目指すは場所はヴァレルガナ領、その領都たるアウトノイア。彼等の故郷、友が、家族が住まう場所、その場所に炎が上がるよりも早く、嵐が訪れるよりも先に辿り着く必要があった。
果たして、彼らが城へと辿り着いたのは報せを受けてより、二日の後、八の月の二つ目の週、その二日目の夜のことだった。本来ならば、五日は掛かる道程を半分にまで短縮して、彼らは自らの居城へと辿り着いた。
息も絶え絶え、疲労に視界は滲み、両の手足は鉛のように重い。生きているというよりは、動いているだけのようなそんな有様でも彼らは己として、成すべき事を過ちはしなかった。
辿りついてみると、城は既に防備を固めていた。四方の門は硬く閉じられ、城門と城壁には鎧を纏った兵士達が見張りついている。使者は届かずとも、西方、イルンラト山の狼煙が上がったようだ。家老たるグスタブ卿の元、アウトノイアの城は戦の準備を整えていた。
既に閉じ、決して開くことのない正門を無視して、裏門へと回る。体面を気にしているような余裕は無い。
すでに城に戦火が及んでいる、城そのものが落ちているという最悪の事態は避けられたものの、事態が好転したわけではない。ここより南西、国境沿いのラケダイモニアの砦にはすでに敵が迫っている公算が高い。
すぐにでも、軍議を開き、防備を固めなければ次はこの城の番。敵は大軍、総大将を欠いては戦に勝つことはできない。この城が落ちれば、王都まで進軍するのは容易、アウトノイアの落城は即ちアルカイオスの王国の滅亡をも意味している。
渋る門番に獅子の紋章を突き出し、裏門を抜け、騎乗のまま石畳を駆け上がる。その途中、彼を止めようとするものは誰もいなかった。
汚れを落とすこともせずに、大広間へ。世話を焼こうとする城の者達を全て退け、すぐに召集を命じる。少しでも早く、一瞬でも早く、焦る気を抑えて彼は自らを落ち着ける。この場所で無様を晒すわけにはいかない。
謁見の間、城主の居わすべき場所であり、城の中枢。王家、公爵家に続く家格として決して恥じることの無い内装と装飾、華美にして優雅というべきその場所こそが彼の本来の居場所だった。
呼びつけた家臣を待つ間、彼は相応しき装いを身に纏う。獅子の紋章の縫い込めれたマントに、同じく獅子の柄頭を持つ剣、ヴァレガナ辺境伯家の跡取りとして相応しき姿へと戻るのだ。
夜もすがら彼の帰りを待ちわびていた城の重臣達がゾクゾクと彼の目の前に集っていく。だれもが上座に腰掛けた彼の姿を見ると、最大級の敬意を示す。主を前にして如何な無礼も許されようはずもない、最大限の敬意をもって接するのは当然のことだった。
城の重臣、家老や騎士長たちが一堂に会したのはそれから半刻の後のことだった。
そこにきてようやく、彼は口を開く。
”敵は西方、教王諸国”
彼の口から告げられることになるその言葉は、城の平穏、このアルカイオス王国の二百年の太平を決定的に打ち破ることになった。
アレクセイ・フォン・ヴァレルガナの帰還。その出来事もまた後の歴史、そして下方弥三郎と森の魔女、アンナリーゼの運命を大きく変えることになるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
イルンラト山に狼煙が上がったのは、アレクセイが城へと辿り着く一日前、その朝方のことだった。
古来より、南と西、二つの国境を有するヴァレルガナ領には国家鎮護の役割が与えられてきた。天然の要害大樹の森を有する南方とライナス河を隔てた西方。このオリンピアにおいて最大級の版図をもつタイタニアを西側に抱える以上、西方の防備を固めるのは自明の理といえた。
その河の上流に鎮座するイルンラト山の狼煙台には国境際のラケダイモニア砦を見張る役目を与えられている。もし何事か砦にあれば真っ先に狼煙を上げ、アウトノイアに知らせるその任を帯びていた。
しかし、それも七十年前までのこと。先々代の王の時代にタイタニアとの和が為ってからは、堅牢とされたラケダイモニア砦も、イルンラトの狼煙台も形ばかりのものとなった。狼煙台はその役目を一度も果たすことなく、その役目を終えた、そのはずだった。
その日の事は、幾多の書物に記されている。八の月の二つ目の週、その二日目、イルンラトの狼煙が上がる、と。
忘れ去られていた鎮護の守りはその役目を正しく果たしたのだ。
狼煙が上がったという報せは、驚くことに、すぐさま城の留守を任されたグスタブ卿の元へと届けられた。姫の行方を捜すため、城壁の見張りを増やしたことが幸いしたのだろう。その日の夕方には城の守りは万全と為った。
後の世において、この迅速な守りを実現したのは若き騎士長、ヴァンホルトによる功績と語られるが、実際のところ、見かけほど城の防備は順調に進んだわけではない。それ相応以上の労力が費やされていた。
その時、その場所には、後に歴史の転換点として語られるその城に、アルカイオスの黒雷、下方弥三郎忠弘、大樹の森の魔女、アンナリーゼ・クレイオネス・シビュラネア、そして、アイラ・カレルファスもまた居合わせていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女が目を醒ましたときには事態は動いていた。
宛がわれた城の一室、きちんとした内装や羽毛の入った毛布や天蓋のある寝台も彼女にとっては初体験のものだった。何せ普段はあの小さな小屋で一枚の布に包まって眠っていたのだ、まともな寝台で眠ったことさえ初めてだった。
「…………ん」
疲れきっていたのだろう、何の声も聞こえず、なんの夢も見ない眠りというのも初めてだったかもしれない。眠りそのものはこれまで体験したことのないほどに快いものだった。
その証拠に格子窓から差し込む日の光は昼間の暖かさをもったもの。朝を寝過ごしたことなど今まで一度たりともなかった。
「…………」
長い髪を纏め、魔女の証たる深草色のロープを身に纏う。寝起きの準備はそれで終わり。着替えや細かいところに気を使っている余裕はない。
昼までの寝坊というのは少々拙い。痣は鎮まっていたものの、眠りこけていた間に辺境伯の容態がどう変化していてもおかしくはない。森の魔女としては恥ずべきこと、こんなことで約束をやぶっては先祖代々に申し訳が立たない。
「……!」
部屋から出ようすると、コンコンと控えめな扉を叩く音が部屋に反響した。
「……だれ?」
「は、弥三郎めにてござれば」
恐る恐る扉の向こうを誰何すると、聞きなれた声が返ってくる。
「……そう。入って」
「――――失礼仕る」
ゆっくり扉を開け、弥三郎は部屋の中へと。伏せた視線を上げることなく、臣下としての礼を保ったまますぐさま扉の横にて控える。アンナとしてはただの部屋だが、弥三郎にとっては主の寝室、気軽に踏み込めるような場所ではなかった。
「お目覚めでしたか」
「……うん。どうして……起こさなかったの?」
「お疲れのようでしたので。独断ながら」
その態度がアンナにとっては奇異に映る。契約を結んだとはいえ、彼女にとって下方弥三郎は下方弥三郎だ。元より恩人として扱われてきたにしても、ここまで尊重されるのはどうにも違和感が拭えない。それがただ単になれていない故からか、それとも別の理由故なのか、それは彼女にも分からなかった。
奇異といえばもう一つ、見過ごせないおかしなものがもう一つある。
「……その格好、なに?」
「む? ああ、この着物にござるか。城中を甲冑姿で歩き回るのは咎められましてな、ヴァンホルト殿に押し付けられました。……なにか、おかしなところでもありますか?」
「……そういうわけじゃない」
思わず漏れそうになった笑いを堪える。
おかしなといえば、全てがおかしい。普段身に纏っていた黒の甲冑や紺の小袖とは対称的な襯衣、下には洋袴と何もかもが今まで違うのに、腰に佩びた刀だけはこれまでと同じ。ちぐはぐでしかたがない。だというのに、似合っていないわけではなく、多少なりとも様になっているのが、その印象に拍車をかけていた。まるで、熊が服を着こなしているような、そんな印象すらも感じられた。
「おお、そういえば巫女殿のお着替えも預かってまいりました」
そういうと弥三郎は右手に抱えていたものを静かに差し出す。
「城の方々が用意したものです。よろしければ」
「…………うん」
服を受け取ると、ある程度検め、袖を通す。強がったものの、この三日、まともに着替えていない。清潔な着物はそれだけでありがたかった。
森で作られたものではないものを身に纏うのは初めてのことだが、日の暖かさを残したこの麻の服も悪くはない。
「……私が寝てる間……」
「ご隠居様におかれては恙無く」
「うん」
本当に問いたい事を問う前に弥三郎は彼女の求める答えを返す。契約による共有の影響かとも思えるが、彼はそれ以前から、こうして彼女の思考を先読んできた。長年の経験と訓練の培ったものだろう。
なにはどうあれ、言葉少なでも意図を察してくれる弥三郎との会話は彼女にとっては変わらず、快いものだった。
「しかしながら……」
何時でも率直さを胸とする彼にしては弥三郎には珍しく言葉を濁す。これも初めてのこと、余程のことがなければ、こんなことにはならないはずだ。
「なにかあったの?」
部屋の外、城の中へと意識を広げてみれば、違和感に気付く。城中の人間が昨日よりかなり増えている。しかも、そのほぼ全員が慌しく動き回り、まさしく蜂の巣をつついたような騒ぎ。辺境伯の身にはなにもなかったにしても、この城に何かあったのは確かだ。
「――なんでも戦になるかも知れぬ、と」
「……戦?」
弥三郎の言葉は彼女にとっては聞き慣れぬものだった。確かにネモフィ村での戦い、あの亡霊たちとの戦いに居合わせてはいたものの、あれは特別なことだと思っていた。
戦、互いに命を消費しする行い、あの森で感じ取った痛みや激しさは今も鮮明に思い出せる。言葉を聴くだけで、森から読み取った記憶が蘇るようだった。
「なんでも西の砦にて狼煙が上がったそうで。じきこの地にも戦火が及ぶ公算があると、城代どのが仰っておいででした」
「…………そう」
事情は分かった。しかし、それを実感できているかどうかは別だ。自分があの記憶の中にある戦い、ああして命を散らすあの渦中に自らがいる、それがどうしようもなく他人事のように思える。傍観者であることはやめてしまったが、それでも自身が大きな物事の一部に、その当事者となるなんてことは想像したことすらなかった。
「とりあえずは目覚め次第、ご隠居の居室にと、城代は仰せでした。如何いたしましょうや?」
「…………とりあえず、そうする」
それでも、彼女を置いてけぼりに状況は進んでいる。例えそれが理解できずとも、一度動き始めたものは誰にも止めることはできない。押し流されるままに、転がり落ちるままに、変わりゆくままに、その終着点まで進むしかない。その先になにが待ち受けようとも、終わりが来るその時までただ進むしかないのだ。
もはや、止ることは誰にもできなかった。




