28、あるいは平穏の外で
アレクセイ・エル・ヴァレルガナが王都を発ったのは、八の月の一つ目の週、その末のこと。アウトノイアへの城まで五日の旅路だった。
故郷を出立してから二月近く、ようやく大もめにもめた御前会議に一つの結論が出され、漸く彼は家路へとついたのだ。
かといって、心が休まることはない。皇帝の行幸を受け入れる、つまりは帝国の軍門に降るという決断はヴァレルガナの跡取りである彼にとっても無関係ではない。行幸においては古くからアルカイオスに仕えてきた辺境伯家の負う役割は大きい。もし一つでも手抜かりがあれば、国の存亡にも関わる。
その上、事は行幸だけには留まらない。帝国に臣従するとなれば、現在西方の教王諸国連邦と結んでいる盟約も事実上反故にすることになる。そうなれば当然、手切れとなり、戦ともなりうる。よしんば、帝国の庇護を得られたとしても百年以上続いた王国の太平を維持することは難しいだろ。
名誉ある行幸といえば聞こえはいいが、事実上建国以来の国難といってもいい。一歩間違えば国が滅ぶ、そんな状況に王国は置かれているのだ。
その国難において、南の守りを担うヴァレルガナ家は万全とは言いがたい。当主たるアレンソナは不治の病に倒れ、跡取りたる己は若く未熟。父が万全であれば、とアレクセイが考えるのは当然といえた。
彼が無能というわけではない。同年代の若者達にくらべて、アレクセイの軍才および政才は優れたものであるのは確かであるし、幼少から荒獅子といわれた父の薫陶を受けてきただけあってある種得難い度胸を持ち合わせている。
ただ惜しむらくは彼に経験が欠けているという点だろう。生まれてこの方、戦の経験も無ければ、家裁を取り仕切った経験もない。いざ、その時になって立派に家を治めることができるという確証が彼には欠けているのだ。
主の不安は当人だけでなく仕える臣下たちにも伝わるもの。父の病気とあいまって辺境伯家そのものの土台が揺らいでいた。
――その報せが彼の元に届いたのはそんな頃合だった。
旅も半ばの三日目の夜、カイネイア領を通り過ぎ、手ごろな宿が見つからず野宿を余儀なくされたそんなころだった。
王都からの早馬。馬は泡を吹き、乗り手は疲労のあまり気を失いかけていた。聞けば、王都からの三日は掛かるこの道程を一日半、一瞬たりとも休むことなく駆け抜けてきたという。明らかにただ事ではない。
その急使の告げた伝令の名は残されていない。だがしかし、彼の告げたその言葉は後世まで永く語り継がれることになった。
「タイタニアが宣戦布告。すでに軍をなして南方より迫る。至急所領に戻られたし」
たった三言、それだけの伝令が彼等の運命、王国の運命、そして、二人の運命を再び変えることとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一旦、施術を切り上げたアンナは城の露台にて夜風を浴びていた。
この石と鉄に覆われたこの城にあっても、こうして吹きつける風だけは彼女の輩。特に今宵は北風、肌に感じる風、吸い込む空気には大樹の森の息吹が息づいている。
疲れ切った体、憔悴しきった心を落ち着けるのには、僅かでも故郷に触れる必要が今の彼女にはあった。
「――お疲れ様でした」
「――ヤサブロウ」
何時の間に隣に来ていたのか、弥三郎がそう声を掛けた。
背後の扉の向こうでは騎士達の愉快そうな騒ぎ声が続いている。
「……いなくていいの?」
「この地の酒は未だ慣れておりませんので、退かせていただきました」
「……………そう」
今回の旅の慰労と辺境伯の快方を祝しての宴席、家老たるグスタブ卿により設けられたそれは控えの間の一つを貸しきって行われている。
夜も深くなり、宴も酣。抜け出すには少しばかり、機を逸していた。
「少し、某も夜風に当たらせていただきましょうか」
そういうと弥三郎は彼女の傍に控える。彼にとっては宴席で労を癒すよりも、彼女の傍に控えていることが遥かに重要だった。
魔女による治療は半日にも及んで行われた。夜の帳が下りるまで一度も休むことなく彼女は懸命に治療を続けた。
その甲斐あってというべきか、それともそこにいたるまで無駄な努力を続けたというべきか、辺境伯の容態は小康状態に至るまでの回復を遂げた。
全身を覆いつくさんとしていた龍の痣は胸にまで後退し、途切れ途切れだった呼吸は一定の規則性を取り戻している。とりあえず急場は凌いだ、あの異常な量の香を焚かずとも、彼が眠りにつけるだけの処置は精一杯行った。
そこに一つ、決定的で致命的な誤解が生じている。
城の者達はこの快方を吉兆だと捉え、森の魔女はその快方を一時的な現実だと捉えた。魔女は根本的な解決を求め、城の者達は救いを望んだ。それだけの違い、ただそれだけのこと、それだけのことがどうしようもなく乖離していた。
宴になど参加できようはずもない。この遠いアウトノイアの城にまでやってきながら、こうしてユスティーツァや騎士達の期待を背負いながら辺境伯を救うことができなかった、それを彼らに告げることすらできていない。あの場へ出で行く資格もなければ、森の魔女としての誇りさえ傷つけた、彼女はそう思い込んでいた。
「…………ヤサブロウ、私……」
消え入りそうな声。何か間違えば、この場から消え失せてしまいそうなそんな声だった。
全てを己の咎と受け入れ、一切合財を背負い込む。それ以外に彼女は失敗への対処法を知らない。無理もあるまい。これまでの短い人生、ただの一度もしくじったことなどなかったのだから。
「アンナ殿、貴女はできる事を成された。それでよいではございませんか」
何もできなかった、そう口にしようとした彼女を弥三郎が遮る。治療を行ったアンナの疲弊は未だ繋がれた契約から痛いほどに伝わっている。彼女の抱えている感覚も余さず弥三郎は知っているのだ。
どれだけ彼女が悩み、どれだけ彼女が必死だったかは弥三郎が一番理解している。だからこそ、彼女の詞を否定した。
例え一時のこととはいえ、彼女は確かに辺境伯の命を救った。その事実に変わりはない、彼女は何もできなかったわけではない。それが失敗であったとしても、そのために彼女が行ったことは決して無駄ではない。
そのことを言葉少なに弥三郎は彼女へと伝えていた。ただの表面だけの慰みの詞とは違う、あの炎を潜り抜けた弥三郎だからこそ、心から彼女にその詞を伝えることができた。
「なに、ご安心召されよ。この城の方々はそう狭量ではござらん。アンナ殿に感謝しこそすれ、責める等万が一にもありはしますまい」
「……それは、そうだけど……」
「万が一があれば、この弥三郎、一人でもアンナ殿を森までお連れ致す。故に、今はお心安らかに」
なおも不安を見せる魔女にその従者は力強い笑みで応える。
彼女の不安、懸念は無理からぬこと。慣れぬ地にて、決して容易くはない秘儀を行う、それだけの事をしたのだ。心が弱るのも当然だ。
ならば、それを払い、彼女の背を守ることこそ、従者たる弥三郎のすべきこと。そのすべきことのためなら、身を捧ぐだけの覚悟を確かに弥三郎は持っていた。
「…………うん」
つられて彼女の顔にも微かな微笑が浮かぶ。
弥三郎が彼女の想いを理解するように、アンナもまた弥三郎の思いを理解できる。弥三郎の覚悟も、思いも、全て余すことなく彼女には伝わっていた。
故に彼女は立っていることができる。最初は仮初であったとしても、この目の前の男の主として恥じぬ行いをする、それが彼女のもう一つの誇りになりつつあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
握られた手からは確かな温もりが伝わってくる。それと僅かな震え、痛み、哀しさ。繋いだ手からわかるのは一つではない。相手の全てを感じることができるといっても過言ではないだろう。
だからこそ、確りと握り返す。相手の掌から伝わる全てをそのまま受け入れた上で、自らの持つ全てを伝え返していく。私はここにいると、すぐ傍に居続けると、繋いだ掌から彼女へと想いを返す。
「……ありがとう、アイラさん」
「い、いえ、このくらい……」
感謝の言葉も、花のような笑顔も、アイラには畏れ多いもの。多少は慣れたが、面と向かってそれを与えられるては、恐縮するのが当然だった。
しかし、そもそもこうして御手を握っていることそのものが可笑しなことなのだ。この動揺そのものが今更なことなのかもしれない。
辺境伯の寝室、本来ならば立ち入ることの決して許されないであろうその場所にアイラは留め置かれていた。魔女の治療が済んでからさらに数刻、緑の旅装を着替える間もなく、彼女はこの部屋でこうしてユスティーツァの手を握り続けていた。
断ろうにも、ユスティーツァたっての願いとなれば断れるはずもない。平静を保つためにアイラが必要だというのはユスティーツァ御自らの詞だった。
「姫様、せめてお食事を……」
「私は父上がお目覚めになるまでお待ちします。アイラさんこそ、お食事を……」
「い、いえ、私もご一緒にお待ちします」
ユスティーツァを先置いて自分だけが食事をとることはできないと、アイラは慎みをもって答える。休むにしても、食事をとるにしても、どちらにせよユスティーツァのあと。決して先であってはならない。
便宜的な見習い扱いとはいえ、侍女である以上、それが当然の行いだった。
「…………アイラさん。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい、なんでしょうか、姫様」
恐る恐るといった様子でユスティーツァがアイラへと言葉を掛ける。それはおよそ、彼女のような立場の人間が平民に対してみせる態度ではなかった。まるで彼女に対して遠慮しているような、何かを恐れているようなそんな態度だった。
「…………アイラさんは、何故そこまで私に良くしてくださるのでしょうか? 私が貴族だからですか? それとも私が哀れだからですか?」
「え、私はそんな大したことは……」
「あのとき、アイラさんは私の手を握ってくださいました。いまだってそう、あのものたちの誰もできなかったのに、この病が移るかもしれないのに、あなたは私の手をこうして握ってくださいました」
それは心からの恐れの表れだった。涙に潤んだ瞳も、擦れた声も、すべて心からのものだった。
漸く得たもの、天から与えられた僥倖のようなもの、それを自ら疑う。それは強固で決定的な自己否定に他ならない。
死の淵にて確かに握られた手。誰も救わなかった、誰にも掬えなかったその手はただの平民によって、アイラによって救われた。それは仮面を被り続けてきた彼女にとって、唯一とも言える真実。置き去りにした信仰に代わって、彼女を導く光だった。
それでも、彼女は疑ってしまう。その光を信じていいのか、この目の前にいる誰かは求めて求めて終ぞ諦めたものだと信じていいのか。求めてきたからこそ、疑うほかになかった。
「私は、私は…………ただ……」
「ただ?」
そう問い掛けられても答えは簡単に出せない。
あの時、ユスティーツァの手を握ったのはそれしか自分にできることがなかったからだ。薬の知識もなく、武器をとって戦うことのできない自分に唯一できることが、ユスティーツァの手を握ることだった。それにどれだけの価値があったのかは分からない。ただ打算も下心もなく、そうするべきだと思ったから彼女は行動したのだ。
だが、それを端的に言葉にするだけでは足りない。アイラは人の望むことに関しては人並みはずれた敏さを持ち合わせている。村の家裁を取り仕切るなかで自然に身につけたものであり、天性として持ち合わせた資質でもあった。
その才能が告げている、彼女が望むのはそんなことではない、答えはもっと確かなものでなければならないと。
「……私があの時、姫様の手をお取りしたのは…………」
「したのは?」
「――ただ姫様をお助けしたかったからです。でも、私は学もありませんし、武具も扱えませんから、せめてできる事をと思って……」
言葉を選んだ先に出たのがそんな素朴な、飾りのない答えだった。一点の偽りもなく、一縷の迷いもない。彼女の心から出た、誠の詞だった。
「――――ありがとう、アイラさん、本当の本当にありがとう……」
「ひ、姫様!? そんな、えっと、どうしたら……」
最後の言葉は掻き消えた。とめどなく涙は溢れ出す、ただアイラの言葉にわけも分からず涙を流していた。ただそれだけのこと、ただ本心から出ただけのその言葉が彼女の心をこれ以上なく揺さぶったのだ。
彼女の求めたもの、得られなかった本当の真心。ただの平民だけが、このアイラだけが、心からユスティーツァのためだけを思い、行動していた。その事実は彼女にとって福音に他ならなかった。
そうして、各々の平穏と共に夜は更けていく。日が昇ってもこの平穏が続くと、そう信じながら彼女達は朝を迎える。その夜が平穏の最後だと、知らぬままに。




