プロローグ2 あるいは開幕を告げる詞
弥三郎の生きた日ノ本よりはるか彼方、超えられぬ世界の壁を隔てたその向こう側に「オリンピア」と呼ばれる大陸がある。
そのオリンピアでは巨神暦千五百九十年、諸民族を糾合した「クリュメノス帝国」と教皇を中心とした連合国家「タイタニア連合」が大陸全土で覇を競っていた。
オリンピア中部には、二つの大陸に翻弄されるある国があった。国の名はアルカイオス王国。その国の南部に位置する大樹海「大樹の森」の周辺にはある言い伝えがあった。
言い伝えに曰く、大樹の森の奥深くには緑衣の魔女が住んでいる。
言い伝えの起源は、今から六百年前、クレタ王朝の第四第国王アドレクト王の御世の頃のころに遡る。
ちょうど、巨神教を国教とするカエルス帝国成立の頃であり、魔女達もまた彼らに追いやられた数多の種族の一つだった。
森に移住した魔女たちは幾つもの国が興り、滅びていく間も、静かで穏やかな暮らしを続けていた。
一族は時が経てば経つほど数を減らしていくが、それでも他の種族のような急激な滅亡は回避することができた。時代の流れに逆らうことの愚かさを彼女達は他のどの種族よりも理解していたのだ。
そうして五百年後の巨神暦千五百九十年、大樹の森には一人の少女が住まうのみとなっていた。
◇
森の朝は静寂から始まる。
寝台から起き上がると澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むのが、最後の森の魔女の目覚めの日課だった。
直ぐに着替えを済ませ、小さな小屋から外へとでる。見上げるような高さの大樹たちとは対称的に、彼女の小屋は酷く慎ましい。あくまで必要最低限、遊びの無いその住まいは物悲しくも見えた。
緑色の外套を目深に被り、北西の小川を目指して歩いていく。
これまた朝の日課、生まれてからこのかた欠かしたことはない。
ようやく起きだしてきた鳥達のさえずりを聞いていると、いつの間にか小川に辿り着いている。
手にした木の桶に水を汲み上げ、視線を上げると彼女の目に灰色の巨塊が飛び込んできた。
大樹の森の灰色熊。熟練の狩人すら恐れる森の主だ。
「――おはよう」
この熊に遭遇するのも、毎朝のことだ。挨拶を口にする余裕さえあった。
彼女を認識した灰色熊が顔を上げ、視線のみで挨拶を返した。
手早く水をくみ上げ、その場を離れる
道中、足元に群生している薬草や木の実を拾い、時間を有効活用しながら、小屋へと戻る。
見掛ける大鹿や森狼、狐狸の類も彼女の存在を認識しながらも、無視している。足元の草花に一々注目するものがいないように、この森では彼女を気に掛けるものはいない。
小屋へと戻り、湯を沸かす。これまた小さな炉に火を入れるまで数分の時間を要した。森の魔女である彼女は火の扱いが不得手だった。
卵を割り、火に掛け、戸棚から小さな麺麭を取り出す。あとは薄味の汁物と僅かな葡萄酒。慎ましやかな朝食だが、彼女一人だけならこの量で十分だった。
「――森と精霊に感謝を」
そうして、ようやく彼女の一日は始まる。
最初の月から最後の月まで、彼女は勤めをこなしていく。
今日は六の月の初めの日、年に一度の戦神祭だ。夜までに祭壇を組んで、貢物を捧げなければならない。
必要なものは森狼の血と大猪の毛皮を少々、啄木鳥の羽との菩提樹の枝。どれも手に入れるのは難しくはないが、狼と猪の縄張りが離れているせいで、森を端から端まで歩いて回ることになる。
まずは東側。朝日に向かって太陽が頭上に昇るまで歩き続ける。戦神に捧げる以上、狼の毛は群の長のものでなければならない。
昼ごろには、狼の縄張りへと到着した。牙をむく狼たちを無視して、縄張りの中心へと歩を進める。
一際大きな群の長がゆっくりと彼女に歩み寄る。見れば後ろ右脚の白毛が黒く濡れていた。
「血を少し。その代わり怪我を治す」
言葉にしたのは相手に伝えるためでなく、自戒の為。秘術を軽々しく扱うべからず、先祖から伝えられた訓戒は言葉よりも先に叩き込まれた。
施しには必ず報いを。それも訓戒の一つ、ただ血を貰い受けるのではなく、傷を治す。そうでなければ釣り合いが取れない。
群の長はゆっくりと頷くと、彼女の前に寝そべり、後ろ足を差し出す。
知らない仲でもない、彼女の人生の大半は森の主達との交友が占めている。言葉は通じずとも、彼らは彼女にとっては家族のようなものだ。
ゆっくりと傷に触れ、森の詞を紡ぐ。治療自体は簡単だが、簡単な術でも使い方を誤れば命取りになる。
数秒もしない内に、傷が塞がり始めた。おそらくは群れの中での闘争による傷。彼も歳をとったということだろう。
「じゃあ、また今度……」
目測どおり治療自体には数分と掛からなかった。
その間、吼えるどころか呻き声一つ上げなかったのは流石は群の長といえる。
むしろ重傷に見えるのは治療を施したはずの彼女のほうだ。
額には玉の汗、息も絶え絶えだ。今にも倒れかねない有様だった。
術には代償が伴う。体力の消耗はその一端だった。
零れた血をビンに掬い取った所で立っていられなくなった。
ふらついた体を大きな鼻面に支えられる。いつものことながら、彼女の姿は獣の目から見ても痛々しいものがあった。
「ありがとう」
礼を告げ、そそくさと狼の縄張りを立ち去る。
時間は余っているほどだが、あまり無様な姿を見られたくなかった。見送りに随伴した若い狼に別れをいうこともなく、彼女は森の反対側まで歩き出す。
出だしから躓いたが、それでもやるべき事は変わらない。時刻はおおよそ昼過ぎ、休むにはまだ早い。
◇
残りの貢物はそれほど苦労せずに集めることができた。
大猪は足に刺さった棘を抜くだけで毛を一房譲ってくれたし、枝と羽根は幸運にも道中で拾えた。
「急がないと……」
日は既に翳り始めている、夜になる前に小屋に戻らなければならない。
外套をより一層深く被り、森を駆ける。木の根を飛び越え、洞を掻い潜り、家路を急ぐ。小柄でひ弱に見えても彼女は健脚だ。生まれてこのかたこの広大な森で過ごしてきたのだから、それは当然といえる。
半刻を待たずして、小屋に辿り着いた。日はまだ空にあり、鬱蒼と茂った森にも赤い夕日が落ちている。
夕餉を食べ、精をつける時間は十分に確保できそうだ。
「――かしこみかしこみ、奉る」
夕食を終え、彼女は祭祀を始める。
野外に用意した木組みの祭壇の頂上には、一日がかりで用意した貢物と貯蔵していたワイン。衣装は変わらずに、森の緑より深い緑衣、手にはこの森のオークから切り出した身の丈ほどもある杖が握られている。
杖の先端には伝来の灰水晶、彼女の受け継いだ唯一の形ある遺産だ。
夜の森の空気は昼間や朝のものとはまるで違う。
無慈悲で、冷酷で、どこまでも底が知れない。
その森の空気を体に取り込む、必要なのは抗う意思ではなく、身を任せ同化する希薄さ。その点彼女は歴代の魔女のなかでも傑出していた。
「我が身をもって祭具と成す――」
森の深遠さと冷酷さを我が身に写し込む。
神と通じ、贄を奉じ、扉を開く鍵となる。
そう難しくはない、短い生涯をただそれに費やしてきた。苦痛に声を上げる必要も感じない。
繋がった。その末端の末端ではあるものの、太古の神秘のは彼女の詞に応えた。
閉じた瞼の向こうに強烈なまでの熱と光を感じる。鼻をツンと突くのは木々が焼ける匂い、耳を聾するのはバチバチという生木のはじける音だ。
直接神の姿を見ることは彼女にはできない。それは道具たる彼女には許されぬ越権行為だ。
杖を持つ両手が汗で滑る。皮膚を焼くような熱さは、戦争と火を司る神の神威だ。
肌を泡立たせる火の熱さに必死で堪える。熱が収まるということは無事儀式を終えたということ、それまでは何が何でも杖を放すわけにはいかない。唱える詞は澱みなく一切の遺漏はない。
どれだけの時間をそうして堪えていただろうか。ほんの少しだけだったかもしれないし、酷く長い時間をそうしていたかもしれない。
不意に、熱が消えた。
恐る恐る瞼を開くと、そこにあったのは焼け跡のみ。木組みの祭壇も、頂上に供えていた貢物も全て焼け落ち、灰だけが残っている。戦神祭の祭祀はとりあえず完璧に遂行できたとみて間違いない。
「――ふう」
開放感に息を吐く。
この戦神祭は一年を通じて、一番労力のかかる祭事だ。それを無事にこなせたというのは彼女としても喜ばしいことだった。
今すぐ寝台に潜り込みたいがそういうわけにもいかない。この灰は立派な聖遺物だ。このまま野ざらしにはできない。
足はふらついているが、苦しくはない。黙々と袋に灰を収める。すべてというのは無理だが、大部分を集めてしまえば問題はない。
「――え?」
灰の中に埋もれたそれを見つけたのはまったくの偶然だった。
大きな灰の塊。最初彼女はそれを燃え残った祭壇の一部だと誤認した。目を凝らすとそうではないと理解できた、祭壇の一部にしてはあまりにも大きい。
それにそもそもこの儀式において燃え残りなどでようはずもないのだ。
ではなんだろうか。
塊に向かって一歩近づく。
考えられるのは偶々ここを通りかかった動物が火に撒かれたのではないかという可能性。だがこの場所に近づく獣はいない、ましてや望んで火に飛び込もうなどという獣など考えられない。
目と鼻の先まで近づいて、彼女はその正体を理解した。
人間、それも死体。見た事も聞いたこともない衣装を纏っている。
悲鳴を上げることはない。死体を見るのは初めてのことではない。森の端に迷い込んできた無縁仏の墓を立ててやることは彼女の仕事の一部だ。
だが、こんな森の中央部で人間を見かけることなど今の今まで一度もなかった。有り体にいえばありえないことだった。
「と、とにかく埋葬を……」
混乱した頭は疑問の解決を放棄して、とりあえずの問題解決を優先した。
如何にこの場所が外とは仕切られているといっても、人間屍を放置してはよからぬものを引き寄せる。
げんに意思を持たない木霊の類が集まり始めている。時間が経てば、もっと厄介なものがやってきかねない。
呼吸を唱え、死体に触れる。見れば見るほど奇妙な出で立ちだった。
黒い光沢のある甲冑は、彼女が読んだことのあるあらゆる絵巻の騎士甲冑とも異なる。右手にしかと握っているのは奇妙な形をした剣。これまた彼女の知るどの剣とも合致しない。
また黄色い肌と黒い髪を持つ民族を彼女は知らない。
顔を検めようとした瞬間――、
「――――っ!?」
屍に腕を掴まれた。
死に体の目が彼女の瞳を覗きこむ。両者の瞳には困惑が浮かんでいた。
どうも、みなさん、big bearです。今回で導入部分は終了です。前回と今回で雰囲気がぜんぜん違うのは仕様なのですよ。次からは最初と同じ雰囲気になるかも…
では、こんなだめ作者と拙い文章ですが、どうかこれからも暖かい目でよろしくお願いします。
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