26、あるいはその盟約が
彼らが件の野営地を出立したのは次の日の昼過ぎだった。本来ならば、早朝にでもアウトノイアへと向かうべきだったのをユスティーツァの体力が戻るまで待った結果、この時間での出発になった。
ヴァンホルトを先頭に騎士達の一団は二日ぶりの旅路を急ぐ。既に予定から二日も遅れている、ユスティーツァの容態を鑑みても、できるだけ早くアウトノイアの城へと帰り着くべきだ。
しかし、急いたところで大して速度が変わるわけでもない。馬も人も些か疲れすぎていた。
「あの丘を越えればもう一息だ! 根性入れろ!」
ヴァンホルトが幾度目とも知れぬ発破を掛けた。日は傾き始めている、若く体力の余っていた騎士を使者として送ってはいるものの、日が暮れる前に城門まで辿り着かなければ、再び野宿ということになりかねない。城を目と鼻の先にして門前払いなど、御免被るところだ。
「ほう、あれが……」
騎士達と共に中段を進んでいた弥三郎が感嘆に声を漏らす。手綱から感情が伝わり、ぺルソダスが甲高く嘶いた。
丘を越えると、驚くべき光景が眼前に広がっていた。山を背にした天を突くような白亜の石城。大理石を精巧に積み重ねて作り上げられたその城こそは、世にも名高きアウトノイア城、アルカオイオス王国有数の城塞都市にして、南側を守護する要害だ。
弥三郎にとっては石造りの城など初めて目にするもの。周囲を囲む城壁、内部に広がる街も含めてその全てが弥三郎にとって初めての光景だった。
「裏門に回るぞ。もう一息だ!」
丘を下り終えると、ヴァンホルトが全体に方向転換を指示する。正門へと続く街道ではなく、わき道にそれ城の東側へ。
足場も確かでない道なき道を隠れるようにして進む。彼等の歩みは故郷へ帰るものというよりは、盗人が夜を忍んで歩くような、そんな足取りだった。
ようやくのこと城門へと辿り着くと、門の上から、見張りのものが手を振ってくる。ヴァンホルトは声を上げることなく、手を振り返すことで門番に合図を送った。使者に送った騎士がきちんと仕事をしていれば、到着次第門を開ける手はずは整っているはず。面倒なやり取りや手続きは無視できる。
「……あ?」
合図を返しても、遥か頭上の門番は動こうとせずに、そのまま突っ立ている。まるで何かに驚いたように動きを止めていた。
「……姫様」
心当たりに振り返ると、ヴァンホルトは溜息混じりにそう呟いた。
ここまで辿り着いてもヴァンホルトの頭痛の種は消えてはくれない。むしろ、増したとさえいえるかもしれない。
背後では門の上から手を振る門番に、ユスティーツァ姫自ら馬車の窓から乗り出し、手を振り返していた。
「姫様! おやめください! なんてはしたない!!」
侍女の言葉を無視して、ユスティーツァは上機嫌に窓から身を乗り出したままだ。全くもって彼女らしからぬ行動だ。これだけではない、治療を終え、今朝目覚めて以来、彼女はずっとらしからぬ行動を続けていた。
薬草のおかげで体調がこれまでになく良いということは勿論あるが、この変化はそれだけで説明できるものでもない。もっと劇的な変化が彼女に訪れていた。
「ひ、姫様、危ないですしお止めになられては……」
「わかりました、やめますね、アイラさん」
侍女たちへの態度とは対称的に、ユスティーツァはアイラの言葉に大人しく従う。窓から半身を引っ込めると、馬車の中へ。アイラの隣へと腰掛けると、そのまま畏まった様子のアイラににこやかに微笑みかける。
今朝からずっとこの調子だった。目覚めてからこの方、ユスティーツァは常にアイラを傍に置きたがった。それだけではない、自らの世話を古くから仕えていた侍女たちではなく、ほとんど初対面に等しいアイラに任せようとすらしていた。
さすがに、それは実現しなかったものの、ユスティーツァはアイラをこの半日間、供の者、いやそれ以上の賓客として彼女を扱っている。馬車の席を自らの隣へ移させ、馬車に揺られる間、まるで友人に接するように彼女に接していた。
けれども、ユスティーツァがアイラに対して親しくしようとすればするほど、ますますアイラは畏まってしまう。その反応を見たユスティーツァはアイラへとさらに距離を詰めようとする、そうなるとアイラはさらに緊張を強める。
その繰り返し、まるで終わらないイタチゴッコだ。行き着く先はなく、得られるものもない、全くの無意味といってもいいだろう。
「…………はあ」
そんな二人の様子と、困惑の真っ只中の侍女たちを傍目に森の魔女は深く溜息を吐いた。
ユスティーツァの変化は彼女にとっては全くの想定外だった。与えた霊薬と薬草の効能は全て知識のなかにある、龍斑病の症状を押さえ込み、生命力を増強する効能はあるものの、性格や人格に変調をきたすようなものは含まれていない。
彼女の急激な変化は薬の影響ではない。つまりは一切彼女の責任ではないのだが、それでも侍女たちの視線が突き刺さる。彼女達は、アンナを姫を救った恩人というよりは妙な薬をもった余所者としか認識していない。
それは無理からぬことではあるし、元から感謝など期待してないのだから失望してはいない。ただ一刻も早くこの気まずい空気から解放されたかった。
しばらく止った後、馬車がゆっくりと動き出す。漸く城門が開いたのだ。そうして一行は漸くの事、アウトノイアの城に帰り着いた。ユスティーツァと騎士達が城を出て七日、それだけの日数と手間をかけて漸く彼らは城へと戻りきたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
城門を抜け、狭い裏道を通って、城へと入る。
薄暗い裏道が、城へと近づくほどに雅な趣のあるものへと変わっていく。確りとした造りの裏門を抜け正門側へと抜けると、そこには別世界のような光景が広がっていた。
まず目に入るのは視界を埋め尽くさんばかりに巨大な正門、無骨な石と分厚い扉は一つの大きな山を連想させる。その堅牢な門は彼らを迎えるために、大きく開け広げられており、その向こうに贅を凝らした内装が伺えた。城の丁寧に作り上げられた大理石の壁、金細工の燭台と獅子の紋章のタペストリー。その全てが王族に準じた家格に相応しいもの、委細の分からぬ弥三郎やアンナにもそれらがどれだけの価値を持つかは容易に想像がついた。
「姫様! まずはご無事のお帰りをなによりで御座います!!」
「心配を掛けましたグスタブ」
門前に傅き、頭を垂れる家老を含めた家臣たちを当然のように労うとユスティーツァはそのまま彼らを無視して、進んでいく。形式ばった挨拶を聞く気はない、七日も城を空けたのは外の世界を漫遊するためではないのだ。
先程までとは雰囲気までも異なっていた。それもそのはず、今の彼女はヴァレルガナ公が息女、ユスティーツァ・エル・ヴァレルガナとしての仮面を被っているのだから。
「お、お待ちくだされ! 姫様、まずは薬師の見立てを! お体を…………」
「必要ありません! どうせ効きもしなのですから下がらせなさい!」
「な、なにをもうされます、姫様!!」
ユスティーツァのあまりの変わりように家老筆頭たるグスタブ・ユーティライネン卿は驚き戸惑う。普段は撫で付けているだけの自慢の白髭を乱して、慌てて彼女に追いすがる。
「付いて来るなと申しているのです! 私は父上のお部屋に行きます、早速ですがアイラさんと魔女様は私と共に……」
何事か捲くし立てるグスタブと侍従たちを無視してユスティーツァは二人を呼び寄せる。
「は、はい、参らせていただきます……」
「…………わかった。ヤサブロウ、後で」
「は、御武運を」
自分が何故呼ばれたのか分からず、恐る恐ると突いていくアイラに対して、アンナは自らのすべきことを過たず理解していた。背後に控える弥三郎に別れを告げると、そのまま迷いなく、慣れぬ城の中を進んでいく。
「…………」
その背中を弥三郎は複雑な面持ちで見詰める。ここから先は彼がついていくわけには行かない、ユスティーツァは彼に同行するようにとは言っていない。これから彼女達が向かうのは城主の寝所、許可がない以上は立ち入るわけにはいかない。ここに留まり、主の帰りを静かに待つことしか彼にはできないのだ。
「くっ、一体何がどうしたというのだ! おい、ヴァンホルト説明してもらうぞ! 先程のあの妙な格好した女といい、このみょうちきりんな男といい、姫様のご様子といい、貴様、七日も何をしておったのだ!!」
「まあまあ。そうどなられちゃ説明するもんも説明できませんって、叔父上」
怒鳴り散らす自らの叔父にして筆頭家老たるグスタブに対して、ヴァンホルトは軽い調子で答えた。本来なら、姫の行動を彼に黙っていた時点で厳罰ものの大罪ではあるものの、事情をきちんと説明すれば納得させるだけの自信、自らの叔父が秘密を託すにたる人物であるという確信が彼にはあった。
「ここじゃなんですし、場所を変えましょう」
「何故だ? 何か問題でも……」
「叔父上」
「……わかった、皆付いて来い」
言葉をかわすまでもなく、グスタブはヴァンホルトの意図を察する。確かに往来のあるこの場所は相応しくない。
場所を移して城の一室へと向かう。小間使いや使用人たちの食堂として使われる広い部屋、甲冑を纏った体格のいい騎士達十数人が一堂に会しても問題にならない場所で彼らは密談を始めた。姫が城へ帰ってきたということはまだしも、それ以上のことはここにいる十数人以上に知られるわけにはいかない。ここで語られる事情を墓へと持っていくだけの覚悟が全員に必要だ。
「……つまりあの女、いや魔女殿は大殿の病を治すことができるかもしれないというわけか?」
「そうだ、叔父上。俺も最初は半信半疑だったが、目の前であんなものみせられちゃそう信じるほかないさ」
話を聞き終えても、未だに半信半疑な様子のグスタブに対して、ヴェンホルトはあの夜の出来事を語り始めた。亡霊と弥三郎の関係は伏せつつ、目撃した魔女の御業について叔父へと物語る。
そんなことができるのだから、不治の病の治療も可能なはずだと、彼は語った。彼にとってあの戦いの経験は未だに鮮烈なままだ。
「……姫様のお体も魔女殿が見られたのだな?」
ヴァンホルトの経験談を聞き終えると、グスタブはそう聞き返した。事の真偽でも、魔女の異端を問いただすでもなく、彼はただそう聞き返すだけだった。
「あ? ああ、叔父上の見たとおり別人みたいにお元気だぜ」
「そうか……」
それだけ呟くと、それきりグスタブ卿は黙りこくる。
ヴァンホルトの返答はこれまでのどの言葉以上に、彼にとっては重要なものだったのだ。
グスタブだけが知り、ここのいるほかの誰もが知らされていない事実がある。その事実が彼に一つの希望を見出させた。
ユスティーツァが患っているのは龍斑病、この城の主にして彼女の父であるアレンソナ・フォン・ヴァレルガナと同じ病だ。かの魔女は姫の病を鎮めて見せたという、ならば当然その父たるアレンソナを癒すことすら可能のはず。諦めかけていた命に一筋の希望が差した。
「……此度の件、知っておるのはそのネモフィ村の者達とそなたら、そしてそこにおわす従者殿だけで相違ないな?」
「おうともさ、叔父上。なんのために七日も草を寝床にしてきたとおもってるんだ? 誓って事情を知ってるのはここにいるのはそれだけさ」
「……わかった。お前を信じよう」
静かに頷くと、グスタブ卿の表情に俄かに力が籠もった。老年に差し掛かり、すでに衰えた身だが往年の力強さはまだ生きている。ヴァレルガナの懐刀としての自負は未だに壮健だ。
「皆の衆、重々承知のこととは思うが、此度の件、決して外に漏らしてはならぬぞ。全員、己が家名と名誉に誓って墓の内まで秘めるのだ。よいな?」
言外に裏切り者は決して許さぬとグスタブ卿は宣言した。
辺境伯家が異端の魔女に頼ったなどと世間に知れれば、取り返しのつかないことになる。お家のおとり潰しは当然として、それを切欠に西の国々との戦端が開くということもありえないことではない。ましてや今は国難のとき、この秘密は決して外に漏らしてはならない。それこそ、そのためならばどのような悪徳も許されるほどの秘密だった。
「――しかし、皆のもの、此度の件はようやった! 褒美は出せぬし、名誉も与えられぬが、ワシが認める! そなたらこそ真の忠勤の騎士であるぞ!」
だが、それと彼等の行いは別だ。難を退け、この任を全うした彼等の働きは賞賛されてしかるべきもの。
家老筆頭たるグスタブ卿直々の賞賛の言葉に騎士達が喜びの声を上げる。ここにいる騎士達は全て、グスタブの教え子、恩師自らの言葉ともなれば、それは領地や金銀財宝にも勝る褒美だった。
信賞必罰を疎かにしては人の上に立つことはできない。その点においてグスタブ卿は非常に弁えた人物だった。
「――さて、従者殿」
「は! なんなりと」
一通り詞を述べるとグスタブは弥三郎へ向き直る。その真っ直ぐな視線には侮りも軽蔑も一切ない。純粋な武人として相手を尊重した視線だった。
「名を伺ってもよろしいだろうか? 甥子や教え子、我らが姫の恩人の名をぜひに伺いたい」
「――森の魔女殿が従者、下方弥三郎忠弘と申します。家老殿、以後お見知りおきのほどを」
名を尋ねられる栄誉に堂々とした名乗りで応える。お互いがお互いに敬意を払った武人としての礼節。生まれた地、生まれた世界が違っていようとも確かに通じ合うものがそこにはあった。




