21、あるいは戦いのみが
彼女の眠りを刃金の鳴る音が醒ます。続いて悲鳴と怒号が飛び交い、天幕の向こう側で炎が揺れた。瞼を開き、視線を動かすと忙しなくしている侍女たちと地面の転がされた誰か。彼女が眠りに落ちる前とは何もかもが異なっていた。
彼女の知らない音、彼女の知らない光景、彼女の知らない世界が広がっている。
「ク、クローディア……何事ですか?」
「姫様! 私にも何が何だか……ヒッ!?」
天幕の向こうから気を失った誰かが引きづられてくる。傷こそ負ってはいないが、糸の切れたマリオネットのようにその騎士はピクリとも動きはしない。
今の状況を問いただそうとしても、肝心の状況は刻一刻と変化を続けている。状況に置いてけぼりにされているのは何もユスティーツァに限った話ではない。この場にいるほぼ全員がこの状況に当惑していた。
「クソッ! ここからは一歩も退くな! 絶対に天幕には近づけるなッ!!」
呻き声と戦いの音に混じって、ヴァンホルトの怒鳴り声が響いてくる。倒れた騎士は先程のものも含めて四人、すでに三分の一の戦力が欠けていた。当惑しきった彼女達でも状況が切迫したものであるということは容易に想像がついた。
「あれは……」
視線の先、天幕の隠された向こうを垣間見る。僅かなそれは赤、彼女が今まで眼にしたことのない鮮烈な赤だった。戦いの赤、火と血の彩る世界のもう一つの顔、否定することのできないそれが向こう側には広がっていた。
「ひ、姫様、なりません!」
意識する間もなく、火に誘われたようにユスティーツァは外側へと歩み寄っていく。侍女たちの制止も耳には入らず、誘われるまま、外へと、戦場へと近づいていく。
別段何か、特別なものがあったわけでない。彼女はこの天幕の向こう側についてはまるで無知といってもいい。ただ単に目の前で繰り広げられているものの真実をどうしても知りたいただそれだけのことが彼女を突き動かしていた。
「……駄目」
そんな彼女を短い言葉とか細い腕が引き止める。静かであるものの、その声には抗いがたい強制が、小さな指には見かけ以上の力が籠もっていた。
そのまま森の魔女は短い詞を口にする。彼女の状態は森の魔女にとっては既知のもの。何が原因か、どうすればいいのかまで森の知識には含まれていた。
「あ、私、なにを……」
彼女の呟いた短い詞にユスティーツァは正体を取り戻す。
天幕の向こうには魅入られるものがある、気を確り保っていなければ誘われてしまう。端的に言えば、外に広がっているのは異界と同じもの、夜の大樹の森と似て非なるもの。迂闊に近づけばただではすまない。
だが、その正体が何であれ異界ならば森の魔女の彼女の領分、外で直接暴れているものに対応はできずとも、治療や守護なら容易い。
「……貴方」
思わず森の魔女は言葉を漏らした。直接触れた瞬間に感じたものを、胸の奥に封じ込めるよりも早く、言葉を口にしてしまった。ユスティーツァを侵した瘴気ではない、彼女を驚かせたのは外で起きている異常とは関係のないものだった。
驚愕を感じる間もなく、一際大きな悲鳴が天幕の外で挙がった。戦況は明らかに悪化している、このままでは敵がこの天幕に辿り着くのも時間の問題だろう。
「魔女様、私に何かできることは……」
「……それをとって」
臨時の本陣ともなった天幕内では魔女による治療が行われている。詞による呼び掛けはもちろんのこと、彼女の知識にはさめることない眠りについてのものも当然備わっている。森から持ち出した霊草が続く限りは治療だけなら可能だ。
しかし、それだけだ、これからどうすればいいのか、それは彼女にも分からない。傷を負い、倒れた騎士達を癒すことはできても敵を祓うことは彼女にもできはしない。ただ怯えと惑うだけの侍女たちやユスティーツァ、おっかなびっくりながらも彼女の手伝いをしているアイラと同じただ只管いずれ来る朝日を待ち続けることしかできない。外で戦うものたちが必ず守りきってくれるとただ信じて待つことが彼女達にできることはなかった。
「…………ッ!」
それは闇と共に現われた。守りを抜け、囲いを破り、姿を現した。堂々と進んでいくそれに対して、彼女達には悲鳴を上げることすらできない。目の前に存在しているものが現実であるのかということさえ、信じることができないでいたのだ。
闇の中で鈍く光る赤の甲冑、鬼の角のような前立てを備えた兜、美しささえ備えた白刃。そして、影、顔のない何かがそれらを身に纏っていた。
何一つとして尋常なものはない。彼等を構成する全てのものが彼女達の世界を侵す異物だった。
亡霊は倒れた騎士にも、呆然と自らを見詰める魔女やアイラ、侍女たちを無視してただ進む。存在していないはずの目玉はただ一点を見据えていた。
「させない!」
「……!」
そんな状況で唯一、行動を起こしたのはアイラだった。弥三郎から預けられた脇差を抜き、背後から亡霊へと切り掛かる。
無論彼女とて恐れが無いわけではない。それでもただ呆然と見過ごすことはできない、その使命感が彼女を突き動かしていた。彼女は彼女自身に恥じることがないように行動したのだ。
「――っ!?」
だからといって、その行動が意味を持つとは限らない。彼女の勇気はほんの一瞬で退けられる、亡霊は振り返ることすらせずに背後からの凶刃をかわしてのけた。
勢い余って倒れこんだアイラを無視したまま、亡霊は目指すものへと向かっていく。彼等にとってはただの女首になど興味はない。目指すは一つ、自分たちと同じく死のにおいを発する手柄首のみだ。
「ひ、姫様!!」
白刃が振り上げられた。容赦もなければ、憎しみも無い、ただ義務的に彼らは刃を振るう。
彼らは彼らの無念に従って動き続ける、目指すものは一つ、かつて失った勝利を再び勝ち取るのみだ。
「――――」
瞬間、彼女は瞳を閉じた。恐怖はなかった、ただ自らの終わりを直視することすら億劫に思えたのだ。いずれ来るもの、遠からず来るそれが少し早まっただけのこと。死は彼女にとっても慣れ親しんだものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
弥三郎の中では今までにないほどに多様な感情が渦巻いていた。驚きはもちろんのこと、悲しみや喜びさえ覚えている。刃を振るうその一瞬一瞬が得難いものだと、そう実感できるほどに弥三郎は戦いへと自らを埋没させていた。
「――――せい!」
振るわれた刃を打ち払い、返す刃で亡霊の首を狙う。僅かな動作で切っ先をかわされるが、その勢いのまま蹴り付けて距離を開ける。双方が業を用いた立ち合い、文句のつけようの無い真剣勝負であった。
声無き武者と正面から打ち合う。目の前にあるものが先達の亡霊であれ、全く別の何者であれ、刃を用いる限り、彼らと戦うことはできる。むしろ、その事を彼らが望んでいる、弥三郎にはそのようにさえ思えた。
「まだまだぁ!」
ならば応えずしてなにが武士か。相手は幾百年もの時を待ち続けた、平氏の荒武者。夜が明けるまで全身全霊で戦い続ける、あらん限りを持って応えるのが彼らへの礼というもの。軍記に語られる彼らと矛を交えることに喜びを感じる余裕さえある。
「畜生が! いいから陣形を建て直せ! 打ち合えるんなら殺せるはず、そうだろうが!?」
全てを尽くして戦っているのは弥三郎に限った話ではない。ヴァンホルトを含めた騎士達も自らの主を守るため、死力を尽くして戦っていた。天幕を囲うように展開した騎士達は四方から迫る亡霊たちにそれぞれで対応している。一人また一人と倒れた味方を庇いながらも、一歩も退かずに剣を振るい続けていた。
「木偶かと思えばなかなか……」
あらん限りに吠え立てるヴァンホルトに合わせて弥三郎は動きを変えていく。まだ騎士達が戦い続けていられるのは他でもない、ヴァンホルトの存在があってこそ。既に四人が倒れ陣形は崩れかけ、その劣勢にあってヴァンホルトの采配はますますの冴えを見せている。それこそ、弥三郎が舌を巻くほどに彼の式ぶりは熟達していた。
実際のところ、一度は瓦解しかけた士気が盛り返しているのはほかならぬヴァンホルトの功績に他ならない。正体もわからぬ、人ですらないものと戦っているというのに恐怖を殺し、自らにできる最善を尽くしていた。
「ヴァンホルト殿、左翼が崩れておるぞ!」
「うるせえ! 分かってるよ!!」
弥三郎の進言にヴァンホルトがそう怒鳴り返す。じわりじわりと包囲を狭め、天幕を狙う亡霊たちに対して彼らは消極的な守りしか展開できていない。攻勢に打って出ようにも手がどうしても欠けている。弥三郎を足しても十人に満たない彼らではどうやっても事態を打開できない。
それでも守ることはできる。今戦っているのは一人一人がヴァレルガナ領でも選りすぐりの騎士達、例え相手が亡霊であろうとも容易く敗れることなどありえない。夜明けまであと数時間、戦い続けるだけの力は充分に備えている。
「では如何となす?」
「アンタが行けばいいだろうが!!」
「応!!」
ヴァンホルトの声に弥三郎が応える。どれほどいがみ合っていても、いざ戦い出せば蟠りなど存在しないのと同じだ。戦うものの嗜みとして互いのするべきことに私情などはさみはしない。
敵の凶刃を払いのけながら、左翼側へと弥三郎は回りこむ。倒せはせずとも、弥三郎は亡霊たち相手の五分以上の立ち回りを見せている。太刀の間合いや彼らの戦い方は弥三郎にとっては見知ったもの、体力が続く限りは生き残るのは容易い。
敵の数は我と比してもそう差があるわけではない、入れ替わり立ち代り攻め立てては来るものの、総数は十数程度。ただの戦であるのなら、充分勝機はある。
けれども此度の敵は常世のものにあらず。剣で斬りつけ、槍で突き、火に掛けたとて倒れもしなければ、怯みもしない。対してこちらは所詮は人、日の出までの戦いとはいえ、時は利してはくれない。延々と攻め寄せる亡霊の群に何時囲いを食い破られるともわからない。
「っいかん!」
その時は弥三郎の予想よりも遥かに早く訪れた。加勢に回るよりも早く左側が総崩れに陥る、守りについていた三人の騎士達を抜けて、亡霊の一体が天幕の中へと押し入っていく。
すぐさま、後先考えずその背中を追う。天幕の中にいるのは戦士ではない、戦う術を持たない彼の主と手弱女たちがしかいない。万が一彼女達が命を落とすようなことがあれば、いや彼女達が掠り傷の一つでも負うものならそれは敗北だ。彼女達を無傷で守りきって初めて、勝利といえるのだ。
「――ッ巫女殿!」
敵を追い、天幕へと飛び込む。すぐさま目に入るのは倒れこんだ彼の主、森の魔女。瞬間、怒りに思考が染まる。敵への、そしてなによりも再び主を守りきれなかった自分自身の不甲斐なさへ烈火のごとく燃え上がった。
だが、刀も投げ捨てて駆け寄ろうとした弥三郎をほかならぬその声が引き止めた。
「弥三郎! あっち!!」
「――!!」
森の魔女の詞に弥三郎は視線と思考が誘導される。彼女にではなく、今まさに凶刃に晒されんとしていているユスティーツァの元へと、弥三郎の注意を向けさせた。
自身の名をはじめて呼ばれた事を認識するよりも速く、状況について思考をめぐらせるよりも速く、弥三郎は動いた。
刃を振り上げた亡霊までは三歩足らず、一呼吸で間合いを詰める。狙いは振り上げた腕、殺すことは出来ずとも打ち合うことはできる。動きを止めるにはそれだけで充分だ。
「――おおおおおおお!!」
「キャっ!?」
右の手、持ち手を狙って村正を振りぬく。相手がただの人間ならば、寸分違わず手首を跳ね飛ばしていたことだろう。しかし、此度は敵も然るもの。源平合戦を戦った古の荒武者だ。そう簡単には勝ちを譲りはしない。
返ってくるのは刃金を打ち合う音。間合いをつめ、刀を振るうまでの僅かな間に亡霊は足運びだけで、弥三郎の一撃を防いでみせたのだ。
それに構わずや三郎はさらに間合いを詰める。刀を抜くにも近すぎる至近の間合い、その距離に弥三郎は自ら飛び込んだのだ。
勢いをそのままに迎撃に振り上げられた右の腕を弥三郎が取る。聞き手を抑えたまま、入れ違うように場所を入れ替えてみせる。弥三郎の背にはユスティーツァが、亡霊の背には外へと繋がる出口が、というように二人の位置が入れ替わった。
「巫女殿! アイラ殿! 某の後ろに!!」
「は、はい!」
振り返ることなく再び弥三郎は切り掛かる。なんとしても、この亡霊を天幕の外へと押し戻さなければならない。この場所は、この場所こそが守るべき場所。命を賭すだけの意味がこの場所にはある。
「っはああああああ!!」
一気呵成に切り掛かる。通じずとも、殺せずとも、そうするしかない。夜が明けるまで、あてのない終わりが訪れるまで、只管戦い続けることが彼にできる唯一のことだった。




