19、あるいは痛みにこそ
痛みは彼女にとっては日常の一部だった。それを辛いと思おうにも、彼女は痛みのない世界を知らない。物心がつく前、生れ落ちたその時から彼女共に生きてきたのだ、それが無くなる事など想像することすら想像したことすらなかった。
故に、その痛みが増したところで彼女にとっては大した問題ではない。血が焼けて、内臓が裂け、熱に浮かされても辛いとさえ思えない。
「――――っく」
「ユスティーツァ様」
咳に混じって血が零れる。控えていた侍女が慣れた手つきで血を拭い、彼女の背を摩った。
初めてのことではない。この旅に出てから一週間足らず、毎夜彼女は血を流していた。城にいるときよりも明らかに症状は悪化している。持ち出してきた薬は何の効能も発揮していない。夜の冷たさと疲労は着実に彼女の体を蝕んでいた。
「…………姫様」
「そんな顔をするものではありませんよ、クローディア。私は大丈夫です、この程度、父上に比べれば大したことはありませんから」
彼女本人以上に痛みの滲んだ表情を浮かべた侍女に彼女はそう返す。強がりではない、彼女は苦痛を感じてはいても、それを苦にしたことは一度もない。血を吐いたところでただそれだけのことでしかない。
だが、彼女の心情とは裏腹に周りの人間は彼女がなにか症状を起こすたびに恐れおののき、彼女に哀れみの眼を向けてきた。その視線は病の痛みよりも遥かに彼女にとっては堪えるものだった。
父も母も兄弟達も侍女たちも誰一人として例外なく、彼女を哀れみの眼を向けてる。そのことが幼い彼女にとってはどんな痛みよりも酷だった。
「さ、私のことはもう心配ありません。もう下がりなさい、明日も早いのでしょう?」
「は、はい、姫様」
微笑を浮かべ、まだなにか言いたげな侍女たちを下がらせる。辛くはなくとも休まなければならないの確かだ、もう床についてしまいたいのというのは彼女の本音だ。
来る日も来る日もそんな視線を受けるうちに彼女は一つの事を憶えた。気付いてしまえば、それはなにも難しいことではなかったし、彼女にとってそれは自然なことでもあった。
いつの日からか、ユスティーツァの顔には笑顔が掛けられていた。痛みの中でも熱の中でも彼女は笑みを浮かべられる、感じているものを億尾にも出さずに彼女は微笑むことができる。両親や生涯のほとんどを共に過ごしてきた侍女たちでさえ気付いたことはない。
人はその笑顔を見て、姫は気丈だと持て囃す、病を得ていても笑顔を絶やさぬ素晴らしい御方だと。その事を喜んだことはない、ただ哀れみの目線よりもそのほうが楽だった、ただそれだけのこと。仮面を外すことさえ忘れてしまった、ただそれだけのことなのだ。
「――――っ」
床に入り、瞼を閉じるとある光景が蘇る。大理石の床に飛び散った赤に、苦しさにうめく声、生臭く饐えたような臭い。何もかもが鮮明に思い出される。
あの時、父が自らと同じ病に倒れた、その時、彼女は自らを目の当たりにした。侍女たちの、兄弟達の、母の、そして父の眼を通して自らがどう見えていたのかその時漸く彼女は理解したのだ。
故に彼女は城を出た。父を救うため、自らを救うため彼女は自らの世界から逸脱し、大樹の森を目指した。
その旅ももう終わりが近い。眠りに落ちれば、その時は直ぐにでも訪れる。眠ってしまえば、痛みをつくろう必要もない。
そうして彼女は眠りに落ちた。この夜こそが、彼女の運命を変えるその夜だと知らぬままに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女の忠告が無駄に終わったことは言うまでもない。そもそも侍女に阻まれ、ユスティーツァ本人に目通りすることもできなかったのだ、落胆しようにもそれだけのことすらできなかったのだから説得以前の問題なのかもしれない。それでも義理を通すために、今夜何か良くないことが起きるかもしれないということは伝えてあるものの、それが伝わることはないだろう。
そのことに落胆はしていなかった。この結果は当然予測できていたことであり、期待もしていない。わざわざ時間を割いてユスティーツァの元を訪れたのは自己満足以外のなにものでもないのだから、そこに何かを期待するのはお門違いというものだろう。
兎にも角にも、これでなすべきことは一つに絞り込まれた。何が起こるにせよそれからは逃げることも適わないのなら、迎え撃つまでのこと。そのための力はまだ、彼女に残されている。
野営地の周りに陣を敷くのは今の彼女でも難しいことではない。力は弱まっていても、詞はこの地でも生きている。この野営地を丸ごと森の魔女の領域として作り変えるくらい簡単なことだ。
「……何してるんだ? あの魔女」
「さあ、俺が知るわけねえだろ」
「まさか、俺達に呪いでもかけてるんじゃ……」
「お、おっかねえこというんじゃねえよ」
詞を口ずさみながら野営地の外延を歩く彼女の背中に心無い言葉が投げつけられる。彼らに自らが行う儀式の意味を懇切丁寧に説明するつもりは毛頭ありはしない。理解して欲しいとは思いもしないし、彼女自身も彼らに何の感情も抱いたことはない。普段の彼女ならば彼らを認識することすらなかっただろう。
「…………」
ただ、永遠に彼らと分かりあうことはない、そう考えると無性に寂しく思えたただそれだけのことだ。
僅かではあるものの、詞に乱れが生じる。儀式の最中に雑念を持ち込んだことなんて、今までの人生で一度たりともなかった。
ましてやそれで、繋がりを乱すことなど絶対にありえないことだった。外の世界がどうであれ、彼女と森、詞を通したその繋がりが揺らぐことなど考えられないことだったのだ。
「……ッ」
乱れた詞を必死で繋ぎなおす。喉から出る音ではなく、心が発する祈りとして真摯に詞を統べる。一つの詞を繕うには百の詞を費やす必要がある。扱いようによっては、彼女の魂そのものを代価として差し出さなければならない。
自らの未熟さに怒りを感じても詞を乱すことはない。痛みや怒りなら今まで通り切り離すことができる、今までもずっとそうしてきた。今でも変わらずそうするだけだと、自分に言い聞かせる。
「…………」
本来儀式に必要な時間の三倍もの時間をかけて、彼女は漸く陣を敷き終えた。簡易ではあるものの形のないものを退ける陣を野営地を囲むように、これで彼女の知りうる限りの脅威は近づくこともできない。完璧とは言い難いが、それでも最善の策を行った。これ以上を望まれても、もはや彼女にできることはない。
ひとまずはこれで安心、そのはずだ。
「…………ッ」
そう思うと途端、緊張の糸が切れ、どっと疲れが噴出してくる。視界が回り、脚がふらついた。立っていることすらできない、堪えることすらできずに一瞬で崩れ落ちてしまう。
「おっと」
「……え」
倒れそうになった身体を大きな手が支えた。思わずその心強さに見も心も任せてしまいそうになる、そんな力強ささえ感ぜられた。
「大事ございませんか、巫女殿」
「う、うん、大丈夫、だから」
弥三郎に助け起こされるもののすぐさま離れる。彼女にしては珍しく動揺しきっていた。儀式の最中の試みだしこも含めて、戸惑いの連続だ。感情を抑えるよりも先に行動に移ってしまっている。
「しかし、何かなければそのようなことにはなりますまい。いかがなされた?」
「……少し疲れただけ。心配ない」
どうにか平静を繕い、心配ないと告げる。多少ふらついているものの、心中のざわめきは多少なりとも落ち着いていた。少なくとも突如わいてきた孤独感は嘘のように消えていた。それが弥三郎が現われたからなのか、それともただ単に儀式が終わったからなのか、それは彼女自身にも分からなかった。
「……どうして?」
「む、お帰りがあまりに遅い故お探しておったのです」
「……そう」
人間との会話はいまだに不慣れだが、全て言葉にせずとも察してくれる弥三郎との会話は彼女にとっては気楽なものだった。もちろん気疲れしないわけではないのだが。
「……とりあえず、ここの周りに陣を敷いたから」
「安心というわけですな」
「……うん」
「では、改めて夕餉と参りましょう。食べねば明日まで持ちませぬぞ」
「……わかった」
二人は連れ立ってその場を後にする。天幕に向かう前、彼女はほとんどアイラの用意した食事に手をつけていない。如何な森の魔女とはいえ、空腹ではどうしようもない。食事を摂るのはやぶさかではなかった。
「あれは、アイラ殿か」
前方できょろきょろと何かを探すアイラを逆に見つけ、弥三郎が手招く。それを見けつたアイラは足音を殺しながら、近づいてくる。周囲ではすでに就寝の準備が始まっており、声を出すのも憚られた。
「魔女様……ご無事で」
「う、うん」
声を潜めていても幽かに見えるアイラの表情からは心底彼女を心配しているのが伝わってくる。その想いは彼女にしても知らぬものではない。幼い日の思い出がそれだけで蘇るようだった。
「アイラ殿も共に探してくださっていたのです」
「……そう。その……」
「大したことではありません、お帰りが遅いようなので心配していただけですから。それよりも、さ、こちらに」
そういうとアイラは二人に対し、焚き火のほうへと行くように促す。未だ夏とはいえ、夜の風は寒さを帯びている。今の弱った森の魔女にとってはその程度のことにさえ、注意を払わなければならない。
三人で焚き火を囲い、暖を取る。明日の夕刻ごろにはアウトノイアに辿り着く。それまでにできる限り、体力を温存しておかなければならない。
あくまでこの旅は道中に過ぎない。アウトノイアに辿り着いてからこそが本番、末期の龍斑病の治療という難行が待ち受けている。この場所で何が起こるにせよ、こと半ばで力を使い果たすことは許されない。
だが、ゆっくりと過ぎていくその時間はただの休憩以上の意味を持っている。何もかもが戸惑いに満ちたこの旅の最中にあってこの時間だけは、アイラにとって、弥三郎にとって、そして彼女にとっての安らぎとなっていた。
この安らぎのまま、夜が過ぎたのならそれもまた一つの物語といえただろう。しかし、この夜は、この夜だけはそうはならなかった。
獲物に這いよる獣のように、静かに、確実にその時は訪れる。
「――――っ!」
「――む」
瞬間、弥三郎と彼女の背筋を冷ややかな気配が駆け抜けた。
おもわず刀の柄に手が掛かる。戦場で培った嗅覚とも言うべきものが、空気の変化を嗅ぎ取ったのだ。先程までとは明らかに違う、人も物もそれまでとは何も変化していないというのに戦場真ん中に立っている、それと同じだけの重さと渇きを確かに感じている。
対して、彼女の方は驚愕から危機を察知していた。周囲に漂う精気の質がおぞましいほどに変質している。空気そのものが重さと質量をもち、体に圧し掛かるような、そんな錯覚。この場所そのものが彼女を異物として排除しようとしている。野営地の周囲が丸ごと異界に呑み込まれた、そう言っても過言ではない。
「…………なぜ」
襲来は予想していたこと、驚くべきなのはそこではない。驚くべきなのはここまで侵略されているというのに陣が破れてはいないという点。もし、この異変の原因が彼女の知る魔の類なら陣を食い破ってしか野営地に入り込むことはできない。事ここに到るまでに彼女が気付かないことなど、絶対にありえないことのはずだった。
「ど、どうされたんです……お二人とも…………」
二人の只ならぬ変化を察してアイラが声を挙げた。彼女も含めて、眠りかけた周囲の騎士達も寝ずの番をしている者もこの異変に気付いてはいない。
「アイラ殿、なんでもいい武具の類はお持ちか?」
「え、護身用のナイフくらいなら……」
突然そう問われたアイラが小指程度のナイフを取り出す。護身用だとしてもあまりにも頼りない、人どころか兎一匹殺すにも苦労するだろう。
「ではこれをお預けいたす。これでも心もとないが、抜かずに済むように某が尽力いたす」
「は、はい!」
そういうと、弥三郎は腰から脇差を引き抜き、アイラに手渡す。言葉の通り、これでも足りるものではないが、それでも無いよりはある方が心強い。
それになにより、弥三郎のその言葉がアイラには頼もしく憶えた。百人切りの荒武者が自らのためだけに刃を振るう、下方弥三郎のその言葉はどんな武具よりも彼女を勇気付けた。
「――巫女殿」
「……うん」
言葉をかわすことなく、二人はこれからの行動を打ち合わせる。やってきたものが何であれ、何をするべきかはハッキリしていた。
試練の中にあってもこの二人だけは己のすべき事を見失わずにいたのだった。




