プロローグ あるいはある男の最期
バーエリア盆地を一陣の風が吹きぬけた。
小高い丘や山に囲まれ、古くから交通要所として知られるこの場所には今、十数万の大軍勢が蠢いている。
西側に陣取るのは、クリュメノス帝国軍、総勢五万五千。中央に最精鋭たる北方領騎士団五千が布陣し、その左右を辺領諸侯の軍、各数千が固め、さらにその背後には今回の戦の総大将たる第三皇子のおわす本陣が位置している。これらの主力が合計して、三万五千。帝国における最高戦力がこの小さな盆地に集結していた。
残る二万のうち、一万三千は主力から見て、西側の丘に布陣している。その大軍を率いるのは東方蛮域王であり、前皇帝の姪である辺境領騎妃。残る七千は辺境妃の義理の父、モウレ侯爵公の指揮下にある。敵陣の後方に位置するカレンソノ山に布陣し、敵の退路を絶つ構えだ。
帝国側の兵力の大多数を占めるのは、北方の本国にて鍛えられた軽騎兵と他民族の入り乱れる重歩兵団。騎兵の機動力で敵陣を蹂躙し、重歩兵で制圧する、それが帝国の基本的方針であり、この時代における定石の戦法だった。
対して、東側に陣取ったアルカイオス王国及び小国連合の出で立ちは帝国のそれとは大きく異なっていた。長弓を備えた弓兵隊が主軸となり、昨今発明されたばかりの火薬を使った兵器も散見される。その盾となるは長さ一パーチ以上はあろうかという長槍を構えた軽歩兵の段列。本来戦力の主軸とすべき騎兵は各諸侯の供回りと遊軍であるキロン伯の部隊のみだ。
布陣に関していえば、諸王国側は甚だ不利であった。総勢四万五千、その主力はカレンソノ山の麓に陣取ったアルカイオス三世率いる一万五千の精鋭部隊。ここ十年の戦乱を初期から戦い抜いてきた百戦錬磨の兵どもだ。だが、それ以外の小国連合の戦力はアテにできたようなものではない、大半の士気は高いものの練度は低く、戦力として数えられるのは先陣を担うアギス連盟くらいのもの。さらには前述の通り、背後のカレンソノ山はすでに抑えられ、帝国側の布陣は数において劣る王国側を囲みこむように配置されている。もし正面から主力が激突し、その頃合いで横合いから辺境領騎妃の一万三千が丘を下って突撃すれば、王国の主力は成す術もなく潰走することとなるだろう。
これが、後の世に歴史の転換点として語られるバーエリア大会戦の大まかな陣容であった。居並ぶ諸将は全員、寝物語に語られる名将ばかりであり、この戦いが如何に壮絶なものであったかというのを如実に物語っていた。
――そのそうそうたる面々の陣旗の中に奇妙な旗が一つある。この世界の誰も、その由来を知らぬその紋は、アルカイオスの黒雷の紋。この世界には存在しないある文字をあしらった陣旗はかつての主筋の言葉を拝借したものである、と伝えられている。その真偽は定かではないが、その奇妙な角ばった文字の意味を理解できるものはその場にはいなかったことは確かだ。
その旗には、天下布武、そう記されていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
事が起こったのは天正十年六月二日、その明け方のことであった。
京は洛中、四条坊門にある本能寺にて火の手が上がった。それもただの火ではない、戦の火だ。硝煙と血しぶきの混じる炎が明け方の京の空を明々と照らしていた。
寺を取り囲むは、水色桔梗の御紋を掲げた鎧武者達、明智日向守光秀の軍勢である。それらが討ち取らんとする相手は彼らの主にして天下人である織田前右府信長に他ならない。
後の世に言う本能寺の変である。この反逆の理由はいまだ定かではないが、もたらした結果は歴然としている。
この日、この明け方に数え切れないほど多くの人間の運命が確かに変わった。その運命が善きにせよ悪しきにせよ、これほど人の世の行く末を揺るがした出来事はそうない。
明智日向、ご謀反。その報せが信長の嫡子たる織田左近衛中将信忠に届いたのは、全て事が終わってからだった。
同じく京、妙覚寺に滞在していた彼が手勢を率いて本能寺に駆けつける頃にはもう既に趨勢は決していた。
「――恐れながら上様は既に身罷られました、本能寺は焼け落ちてございます。殿、ここは御退きあれ!」
本能寺の門前で、傷だらけの村井貞勝がそう告げた。
まさしく驚天動地、そのような驚愕が彼等を打ちのめした。
あの信長が死んだ。言葉だけなら現実味の無い事実を目の前で燃え盛る本能寺がこれ以上ないほどに証明している。受け入れるしかなかった。
目の前には寺を取り囲む水色桔梗、その数にして三千。対して、信忠が手勢は極僅か。
到底勝ち目など無い。この場より引き退き、二条御所に立て篭もったとて一刻はもちはすまい。それは誰の目にも明らかであり、諦観にも似た確信が彼らのうちにはあった。
当然、敵の間隙を縫い、岐阜か安土の城まで落ち延びるべきだという進言もあった。
だが、家中随一の知恵者たるあの明智日向が主要な街道を抑えていない筈もなく、逃走は恐らく不可能である。と信忠は判断した。雑兵の手に掛かるよりは、ここで潔く討ち死にせんと。
それこそ、その判断は誰の目にも正しいものと思われた。実際のところはどうであれ、彼らは彼らにできうる限りで最善の選択をした。
そうして彼らの運命は決した。彼らはまさしくこのとき、死兵となったのだ。
抗することも、逃げることもかなわない、ただ死に花を咲かせるしかない百足らずの死兵。その中に彼はいた。
その者の名は下方弥三郎貞弘。後に異界オリンピアの地にてアルカイオスの黒雷と呼ばれることになる男の今生最期の姿であった。
◇
数十人を討ち果たした。
矢を射つくせば、槍を突き、槍が折れれば、刀で切り捨てた。
小姓上がりであるものの、弥三郎は武勇拙きものではない。稲妻の如しと讃えられた父、貞清の血をしっかりと継いでいる。五尺九寸の体に父に倣った黒の羽織と甲冑を纏い、並み居る明智勢を押しとどめていた。
齢二十三歳、若輩の身でありながら鬼神の如き活躍であった。
しかし、勇戦虚しくも、ついには御所にて火の手が上がる。信忠自ら太刀を抜き幾数人を成敗するも、数の不利は覆しがたい。
残されたのは数人の供回りのみ。村井貞勝も、かの今川義元を討ち取った毛利進介も、既に身を盾にして討ち死にした。
最期の時は刻々と迫っていた。
「――殿!」
「弥三郎か」
もはやこれまでと信忠が覚悟を決めるその時、弥三郎は奥の間へと辿り着いた。
左の足を貫かれ、切り裂かれた脇腹は抑えていなければ腸がまろびでるだろう。痛みを通り越し、意識を保つで精いっぱいだった。
満身創痍、そう呼ぶのさえためらわれるような死に体であった。
今生の別れと観念したが故に、弥三郎は主の下へと最後の挨拶へと参じたのだ。
痛ましいまでのその姿を見て、信忠は頬を緩めた。こんな姿になってもいまだに戦意衰えぬ弥三郎の豪傑ぶりに憧憬すら覚えている。
幼少の砌から、弥三郎は小姓として信忠に仕えてきた。元服してからも、馬廻りとして戦場では常に傍らにあった。
もはや言葉は不要である。お互いの姿を認めた瞬間、これが最後だと理解した。
「流石は弥三郎。その姿、その武勇、まさに勇鋭と言うべきかな。奇しくも今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ。弥三郎、先に黄泉路で待っておれ!」
「――は!」
満身創痍とは思えぬほどに力強い声。別れに愁嘆は不要、あるべきはただ武辺の矜持のみである。
だが、黄泉路の一番槍を担わんとする背中を、同じ声が呼び止めた。
すぐさま振り返り、傷にも構わず姿勢を正す弥三郎の姿に信忠は思わず笑みを漏らす。こんなときにでもとことん律儀なこの男を信忠は気に入っていた。
「殿、如何なされました?」
「……うむ、うむ、弥三郎。城も所領もやれぬが、一つやれるものがあったぞ」
息を切らしながら聞き返した弥三郎に、信忠は悪戯っぽい笑顔を浮かべ、
「名よ。我が名よりそなたに一字賜わす」
そう告げた。
炎の向こうには既に明智勢が押し寄せている。それでも信忠は平時と変わらず、亡き父似たその相貌には天下人の誇りが溌剌としていた。
「これよりはそうじゃな……忠弘と名乗るがよい!」
偏諱を受ける。その名誉に打ち震える体を抑え、弥三郎は平伏の礼をとる。
自分が死にかけていることさえ頭から消えていた。
「……ありがたき幸せ! しからば殿、この下方弥三郎忠弘、黄泉路の一番槍、頂戴いたす!!」
「応、行って参れ!」
涙は流さない、ただその名誉に相応しき武功を最後に挙げるのみ。主君の言葉に答えられぬようでは武士の端くれにも置けぬ、と総身が声を上げている。
次の瞬間には弥三郎は駆け出していた。動かないはずの左足は平素よりも軽やかに。腹の傷は掠り傷のようにも思えた。
一歩ごとに命数を削る。削れば削るほど、身は軽くなる。
霞み始めた視界には、廊下に群れたる五人の兵ども。黄泉路の道連れには丁度よい。
「――あああああああ!!」
裂帛の気勢と共に、右の脚を踏み込んだ。
短い廊下を矢のように跳び、刀を振りぬく。
振るいたるは銘は無くとも世に名高き村正の一振り。通り抜けに、帯びた甲冑ごと目の前の敵を切り捨てた。
まずは一人。横合いから突き出された槍をかわし、また一人切りつける。
狭い廊下では一度に戦えるのは多くて二人、それならば十分今の弥三郎でも相手にできた。
続いて三人目。倒した兵からもぎ取った手槍で切りかかってきた相手を突き刺す。そのまま敵を突き飛ばし、背後の二人に押し付ける。
目の前の敵のあまりの気迫に、攻めかかってきた明智勢は恐怖に慄いた。
地獄より迷い出た幽鬼。彼らの目には、弥三郎がそのように映ったであろう。源平の御世に語られる豪傑平能登守もかくやといった有様であった。
「――我こそは織田家家中、下方弥三郎忠弘なり! 我と思わんものは我が首討って手柄となせ!」
半死半生にして全身総毛立つ大音声。もはや数瞬と持ちはすまいが、それでも主君が腹を召すまで下郎を通すわけにはいかない。
一拍の間をおいて、明智勢が攻めかかる。一人ではかなわぬみての二人がかりだ。
「――せいっ!」
打ち掛かってきた刀を払い、返す刀で首を断つ。勝負は一瞬、まともに打ち合っている暇は両者ともに存在していない。
一太刀目はどうにか凌いだ。目はもうほとんど見えないが、それでもこの間合いで敵を捉えられぬ弥三郎ではない。
間髪いれず二人目が袈裟懸けに切りかかってくる。それが振り下ろされるよりも早く、弥三郎はその間合いのうちに踏み込む。柄頭で腹を打ち、体制の崩れた敵を正面から唐竹割りにする。
これで四人目だ。
息絶えた敵には目もくれず、残る一人をしっかりと見据える。
「――ヒッ、ヒィィィ!!」
弥三郎の瞳が、ぎらりと煌めいた。死をとした人間の放つすさまじいまでの気迫だった。
その形相に耐えかね、最後の一人は怯えて逃げ出す。士分の誇りもかなぐり捨て、自分の命をとったのだ。
しかし、それを追わんとした弥三郎の足は前には出ず、地蔵のように身体は動かない。
見れば、足元に広がる血は屍骸のものではなく己のものだった。心は如何にはやろうとも、身体はすでに限界を迎えていたのだ。
膝が崩れる。刀を杖に立ち上がろうとして、血で滑った。
「…………殿、お先に」
もはやここまでと悟った瞬間、とうとう身じろぎ一つできなくなった。
途切れ行く意識の中、弥三郎が耳にしたのは廊下をかけてくる多くの足音と煌々と燃えさかる火の音であった。
胸に去来するは在りし日の記憶。齢二十三歳、短いながらも満ち足りた生涯だった。悔いなどあろう筈がない。
それから刻の間に、二条御所は落城した。
自刃した信忠の首は父信長同様、明智勢に渡ることはなかった。弥三郎らが奮戦し、斎藤利治が火を放ち稼いだ僅かな時はけっして無駄ではなかったのだ。
弥三郎の首も焼け跡から見つかることはなかった。彼の首、そして彼自身の行方を知るものは、この世界にはただ一人としていなかった。
どうも、みなさん、big bearです。知ってる人は知っている、知らない人は知らない、big bearでございます。まさかの戦国異世界転移もの……手抜かりは平にご容赦くださいませ。
では、こんなだめ作者と拙い文章ですが、どうかこれからも暖かい目でよろしくお願いします。
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