99、あるいは館の中
森がその営みを続けるように、ネモフィ村もまた同じ平穏であり続ける。国全体の喧騒も、大陸規模の動乱もこの辺境には届かない。天下国家どころか、ヴァレルガナの執政にさえ、関心はない。彼らにとっての問題は、明日の暮らしであり、これからくる冬の寒さであり、次の季節の収穫のことだ。
もっとも、平穏であるからといって、変化がないわけではない。この半年の間に、このネモフィ村にも大きな変化があった。
その変化とは、村の片隅、大樹の森との境界にある一つの館。かつては代官の館として使われ、随分前に空き家となっていたその場所には今は人が溢れかえっている。
「――まったく、どうして誰も掃除しないんですかね、貴方達は」
「め、面目ない……」
空の酒瓶を手に、アイラ・カレルファスは屈強な大男相手に一歩も引かない。それどころか、その剣幕と迫力に大男は悪戯をして叱られる童のように神妙になっていた。
それもそのはず、この館ではアイラは三番目の権力者だ。下手に逆らえば、次の日から誰も料理をしてくれなくなる。それは困る、如何に屈強な戦士でも兵站がなければ戦えない。平時においても、戦時においても、兵站を握るものこそがすべての権力を握るのだ。
「暇だと騒ぐくらいならば、酒瓶の片づけくらいは、自分達でやってもらいたいですね、本当」
「はい、はい、今度からはそうします……団長にも、そう伝えます……」
アストライア傭兵団がこの館に住み着いてから、もう二月。きちんと修繕され、家具を新調された館はすっかり彼らの家と化していた。
しかし、この館はなにも彼らのようなゴロツキのために修繕されたのではない。もっと相応しい者たちのために村人達はこの館を身銭を切ってまで修繕したのだ。
木造の館の大きさは、装飾こそ立派だが、村長の館とそう代わりはない。部屋の数も十数程度で、今では傭兵団の面子ですっかり埋まってしまっている。それもそのはず、この館はあくまで臨時のもの。代官が急死しなければ、もっと大きな屋敷が建てられていた。
「それで、ヤサブロウさんはまだお帰りじゃないんですか?」
「ええ、まあ、朝方からいつもの釣りでさ。旦那はどうにも付き合いが悪くて……」
「貴方達みたいに緩みきってないだけです。昼間から酒をかっ喰らい、寝ても醒めても乱痴気騒ぎ、戦士として恥かしくないんですか?」
「……どうにも暇すぎて……あ、そういや、魔女殿も今朝からいらっしゃいませんね……逢引かな?」
「………あまりふざけてると、本当にこの村から尻を蹴飛ばしますよ」
アイラの眼光を受けて、傭兵はようやく黙る。有している権限以上に、自らの言を実行しかねないのが彼女だ。彼女が尻を蹴りだすというなら、翌日にはそれを実行している。彼女はそういう女性だ、そうでなければこの館と村の仕切りを兼業するなどできはしない。
「……とにかく、余り騒ぎ過ぎないように。ここは貴方達の館ではないんですから」
「へいへい、わかってますよ。俺たちは所詮添え物でさ」
彼等傭兵団はこの館を我が家のように扱っている、だが、彼らはこの館の主ではない。この館の支配者はあくまでここにはいない二名だ。
「む、アイラ殿、いらしておったのか」
「お、お帰りなさいませ! ヤサブロウ様に魔女様!」
館の主が、連れ立って帰ってきたのは、もう掃除も終わりかけた夕暮れの頃だった。
森の魔女とその従者下方弥三郎、彼等二人のためにこの館は修繕されたのだ。弥三郎の手には、空の籠。此度の釣果も、奮闘の甲斐なく坊主だったらしい。
「毎度毎度、申し訳ない。そろそろ、街にやったものも帰ると思うのだが……」
「いえ、私が好きでやっていることですから……それにまたこうしてお二方のお世話が出来るのが楽しくて……」
この館の、家事全般は概ねアイラが担っている。時折、傭兵団の面子が手伝うことはあるが、それでもこの館の管理は自分の仕事だと自ら率先して行っていた。
その一方で村での仕事に一切の齟齬をきたしていないのだから、彼女の優秀さは疑うべくもない。生まれ持った知恵才覚に、確かな経験。あのアウトノイアの戦は、アイラの才能を成長させていた。
もっとも、このアイラの激務は一時のこと。館の主たる弥三郎が何人か小間使いを雇えば済むだけの話。アウトノイアにやった人手がきちんと人を集めていれば、この問題は解決する。
「…………私は今の方がいい。ロベルトたちはいらないけど」
「某もできれば、あまり人を増やしたくはないのですが……」
「そうですね……でも、ヤサブロウ様の体面というものもありますし……」
自分の立場にまだ実感のない弥三郎とようやく手に入れた安寧に変化を受け入れたくないアンナ。どこか消極的な二人に対して、アイラだけはこの状況に能動的に対応している。この三人の中では、世俗の監修に通じているのは彼女だけ、その自覚があるからこそ、彼女は自らの役割を定義していた。
この館は、アンナと弥三郎のために整えられた。アウトノイアの戦で大手柄を挙げて、騎士卿に任ぜられた森の弥三郎とかつて村の象徴たる森の魔女、その二人のために村人達はこの館を提供したのだ。
勿論、それはただの親切心からではない。英雄の帰還、その扱いと去就は村の面子に関わる。この館の修繕は、ネモフィ村の再興のための必要経費でもある。
戦争の英雄、異民族初の騎士卿に貧相な暮らしはさせられない。館とそれに相応しいだけの使用人、功績に相応しいだけの体面を整えて、初めてこの出費は意味を持つのだ。
「まあ、とにかくしばらくはお二人のお世話は私にお任せください! 早速夕餉の用意、いたしますね」
「かたじけない。では、巫女殿、それまで……」
「……わかってる、じゃあ、今日は歴史から……」
上機嫌なアイラに炊事を任せ、森の魔女の主従は上階の書斎へと向かう。荒れ果てていたこの館に残されていた唯一の財産が、幾つかの書物。このオリンピアのことを学び始めた弥三郎にとっては、まさしく渡りに船。その上、アンナという優秀な指南役が付いているのだ、弥三郎が文字の読み書きを覚えるまではそう長くは掛からなかった。
もっとも、今でもアンナの講義は続いている。森の歴史に始まり、神話から戦史に至るまで自身の知りうる全てをアンナは伝えようとしていた。
この館に、弥三郎とアンナが移り住んでからはもう二月。弥三郎は兎も角、アンナにとっては抵抗を感じることだったが、それでもこの館は森に近い。あの石造りの城に比べれば、遥かに好ましい。
それに、この館での暮らしにはアンナの求める全てがある。あの森の小屋での暮らしも幸福だったが、この館での暮らしはそれ以上のものがある。
弥三郎に教える、弥三郎と食事を共にする、弥三郎共に過ごす。そんな穏やかな全てが彼女にとっては幸福そのもの、この日々が続くだけで彼女には充分すぎた。それこそ、他の何もかもを引き換えにしてもいいほどに。
平穏と幸福。何れの世界であれ、どのような時代であれ、それは諸人の望みだ。戦士にも休息は必要であり、幸福があるからこそ戦う意義もある。ここは確かに帰るべき場所であり、家となった。
しかし、安寧とはいつかは終わるものだ。どんな夜にも夜明けがくるように、歴史が繰り返すように、必ずいつかは戦いが訪れる。それが人の世の常であり、変わらぬ理。このネモフィ村も、そして弥三郎も、アンナもその例外ではない。
巨神暦千五百九十年、十一の月、アルカイオス王国で起きた騒乱はオリンピア全土に伝播しようとしていた。