98、あるいは平穏
元来、オリンピア大陸の三分の一を有するクリュメノス帝国にとってアルカイオス王国は取るに足りない小国の一つでしかなかった。
わざわざ征服する価値もなければ、交渉をする余地もない。ましてや、同盟など埒の外、国力の差を鑑みれば対等な関係など成立しえない。
国是たる東方制服における通り道の一つ、それが二年前までのクリュメノスにとってのアルカイオス王国の認識だった。
それが改められたのは、いや、改めざるをえなくなったのは二年前のことだ。
東方辺領域における初の敗戦、および戦線の膠着。建国より五十年、破竹の勢いで版図を広げてきた竜の牙は聖女の旗の前に停止を余儀なくされたのだ。
この二年、僅か二年ばかりの停止がクリュメノス帝国にとってはまさしく最悪の出来事だった。
無論、クリュメノスはまごうことなき大国であり、その武勇はオリンピア最強を自他共に許すものだ。しかし、新興の帝国であるクリュメノスにはあらゆるものが不足している。氷に覆われた本国では、占領からの搾取こそが唯一の生命線、交易だけでは兵は勿論の事、民を養うことすら不可能だった。
東方への侵略は望みではなく、必要なもの。拡大し続けるからこそ、クリュメノスはその巨大な占領地を維持できていた。
占領地では叛乱の兆しが見え始め、前線の軍団では来年の兵糧の確保が困難になる。拡大し続け、全方位へと及んだクリュメノスの戦線が崩壊し始める。
パウサニアス山脈に抜け穴が見付かったのは、そんな頃合だった。
膠着した前線を迂回して、さらに東方へと侵攻する為の足がかり。侵略を続ける各軍団への安全な補給路。ただの小国に過ぎなかったはずのアルカイオス王国は途端に驚くべきほどの戦略的価値を帯びたのだ。
それを知るからこそ、タイタニアは無理やりにでも軍を進めた。膠着した北方戦線を抜かれれば、タイタニアはその咽喉元をクリュメノスに晒すことになる。タイタニアにとっては、それだけは避けなければならない。
アルカイオス王国こそ、このオリンピア全土を巻き込んだ戦乱の中心、その嵐の目となったのだ。
そのことを把握できていないのは、皮肉なことにアルカイオス王国そのものだけ。彼等には自らの置かれた状況と価値を把握するだけの余裕がなかった。目の前の困難に振り回される小国、どれだけ優秀な人材を有していたとしてもそれがアルカイオス王国の現実だった。
もっとも、それは、彼等二人とて同じこと。戦国よりの異邦者下方弥三郎とその主にして森の魔女アンナ、オリンピアの騒乱も蚊帳の外。今は目の前の安寧をよしとし、英気を養うことこそが彼らにとって重要なことだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
澄んだ水面が翠を映し出す。静けさの中にあるのは川のせせらぎと鳥の鳴く声だけ。外界の喧騒などここではあずかり知らぬこと。幾つの国が興り、滅ぼうともこの光景は決して変わらない。
大樹の森を流れるこの川は森における唯一の水源であり、多くの命を育む恵みの源でもある。木々も、獣も、蟲も、勿論魚も、この川の恩恵がなければ生きてはいけない。
人間ですらもその例外ではない。この川が流れるからこそ、森の魔女達は長らえ、ネモフィ村もまた慎ましいながらも生活を続けられてきたのだ。そして、今もまた――。
「――ふむ」
水面に小さな浮きが揺れる。木材を削っただけの素人に毛が生えた程度の代物だが、それでも用は成す。釣り糸も竿も、同じく即席のもの。それを使うものの腕前と同じく、間に合わせのものだ。
生来、下方弥三郎には戦と武芸以外に、なにか嗜みといえるものは一切持ち合わせていなかった。茶の湯や花道は一応の作法こそは理解しているが、それを楽しいと思ったことはほとんどない。
武士の本分は戦であり、両の手は武具を振るうためにのみある。そう信じてきたし、実践してきたのが、彼の人生だ。
「……釣れぬな」
だからこそ、いざ戦から離れてみると、なにをすればいいのか何一つ見当がつかない。考えあぐねた挙句、こうして慣れぬ釣りなどに興じてしまうほどに弥三郎は退屈していた。もとより、釣りは嗜みというよりはただの食糧確保の手段でしかないのだから、楽しもうにも楽しめない。あくまで理由をつけて暇を潰している、ただそれだけだ。
アウトノイアの城での一件が片付き、この大樹の森に帰ってからもう三月が経つ。季節は、冬に差し掛かるあたり。この常緑の森にもその気配は確かに訪れている。
「っと、いかんいかん」
まどろみそうになった意識を竿と共に引き戻す。こんなところで居眠りをするなど、武士としてはあるまじき失態。幾ら森が平穏無事とはいえ、けのものは跋扈しているのだ。そんなところで呑気に昼寝など、気が緩んでいる証拠だ。
それも無理からぬこと。あの戦から三月、それだけのときが経っても、森の安寧は続いている。
「……さて、小魚の一匹でも掛かればよいのだが」
自ら頬を叩き、気合を入れなおす。いくら今が平和とはいえ武士たるもの、坊主などという無様をそう何度も晒すわけにはいかない。
刻限は日の暮れ始めるまで。それまで弥三郎はこの川岸で粘るつもりだった。
今はまだ日が中天に昇ったころ。それこそ魚の一匹も吊り上げれば腹の足しになる。まだまだ時間はある、むしろ、余っているくらいだ。
この三月、弥三郎の日常はこのようなものだった。戦の気配などどこにもない、穏やかで静かな日々。錆びつかないようには気を張っているものの、それだけ。日々少しずつ大きくなっていく脾肉を嘆くだけの毎日、恐怖もなければ大きな楽しみもない性に合わない日々だった。
戦場では無双の勇士たる弥三郎も、こうして平時となればこんなもの。市井の人々と何一つ変わるところはない。
「……釣れてる?」
「……まあ、良くもなく悪しくもなく、といったところでしょうか、アンナ殿」
背後からの声に振り返らずにそう答える。どれだけ気が緩んでいたとしても、主の気配に気付けないような弥三郎ではない。隠身の術でも使われてなければ、足音だけでも気付ける。腐っても武士、どれだけ緩んでいても頭のどこか常に周囲に気を巡らしている。
この二人の関係はそういうもの。あの旅と長い戦いは二人を深く結びつけた。それこそ、一心同体。切り離そうにも、切り離せないのがこの主従だ。
「……つまり、釣れてない?」
「…………左様で」
「だとおもった」
仏頂面で首肯した弥三郎に、アンナは慣れない微笑を浮かべてみせる。美しくはあるが、まだ不自然さは抜け切らない。彼女にとって感情は大事なものだが、未だに異物。感じるたびに頭のどこかで、諌める声が響いている。
それでも、この三ヶ月、できうるかぎりそれに馴染もうとしてきた。自分の中で荒れ狂う黒いもの、粘ついた冷たい炎と折り合いをつけてきた。
「いつからこちらに? 直ぐに声をかけてくださればよかったのに」
「……少し前から」
一方で、嘘をつくのには少し慣れた。弥三郎を見ていたのはもっと前から。実のところ、彼が釣りを始めたころから、隠れて見ていた。
彼の一挙手一投足、独り言の一つから溜息まで、すべてが彼女にとっては愛おしいものだった。胸に去来するのは静かな暖かさ。もしこの感情に名前をつけるとしたら幸せと呼ぶべきなのだろう。
これが今の彼女の唯一の楽しみ。弥三郎と語らうこと、共に過ごすこと、こうして隣にあり続けること、それが彼女の幸福だった。
「それと、あの、私、昼餉を……」
「では。ありがたく戴きましょう」
これもまたこの三ヶ月の日常の一部。最初は互いに緊張しきっていたが、今は違う。森の外から切り離された一つの平和、一つの世界だ。
巨神暦千五百九十年、十一の月、冬に差し掛かる大樹の森は平和そのものだった。