97、あるいは一度の
弥三郎の騎士卿への叙任式は拍子抜けするほどに、ひどく質素なものだった。もとより、派手な式を行うだけの財政的余裕なかったというのもあるが、それ以上に騎士卿への叙任程度では大した儀礼を必要としないというのが大きな理由だった。
騎士卿は爵位ではあるが、もっとも扱いは低く、平民や傭兵であっても戦功さえあれば叙されることもあるため、名誉としての意味合いが大きい。
しかし、異民族が叙させれるというのはアルカイオス王国二百年の歴史に照らしても初のこと。正直なところ、大々的に行うわけにいかないというのもまた事実だった。
その場に立ち会ったのは、仮の城主たるアレクセイとグスタブ、そして、弥三郎の主人たるアンナリーゼ。会場となった謁見の間の外には、騎士達が詰めかけていたものの、彼らは数には入らない。
質素ではあるものの、厳正且つ厳粛に式は行われた。通常の式とは違い、アルカイオス王国への忠誠の祝詞はなく、あくまで騎士卿への叙任のみを告げるものとなった。
それでも、騎士たちが一斉に敬意を示したのは、彼の活躍を皆が知るゆえ。本来ならば、勲功一等、いや、国王が手ずから称してもまだ足りないような戦功だ。騎士卿への叙任程度では到底相応しくない。
ならば、せめてものこと、最大限の敬意を示すのが彼らのやり方。王族や将軍にしか行われない、剣を掲げての敬礼が弥三郎には送られた。
無論、その後に待ち構えていたのは、ささやかとは言いがたい宴会。傭兵からクリュメノスの兵までが入り混じり、お広間は再び喧騒に包まれることになった。機会さえあれば酒をかっくらい、倒れるまで騒ぐのが兵というもの。そんな彼らが、こんな絶好の機会を見逃すはずがない。
「……ようやく休めますな」
「……うん」
弥三郎とアンナが乱痴気騒ぎから抜け出せたのは、宴の始まってから四刻が経過した頃だった。早々に気配を消して広間の端に移動していたアンナは未だしも、弥三郎の方は主賓として引き回され疲労困憊といった様子、意外なことに戦場で戦っていた時よりもなお疲れきって見えた。
「……大丈夫?」
「なんのことはござらん、と申し上げたきところですが、些か疲れ申した」
「……そう、此処座る?」
「ええ、では、失礼して」
アンナがそう勧めると、弥三郎は意外なほどあっさりとアンナの隣に腰掛ける。彼が素直に疲れを見せるのは、アンナの知る限り初めてのことだった。
広場の中心では主賓を欠いてなお、宴会が続いている。疲れ知らずなのか、それとも、宴会となれば疲れも吹き飛ぶのか、そのどちらにせよ、彼らに付き合えるのは同類だけだ。
「……珍しい」
「流石に疲れ申した……しばらくは酒も戦も遠慮願いたいところです」
「……私も」
だいぶ酔いが回っているのか、弥三郎にしてはひどく砕けた態度だったが、アンナにはそれが嬉しかった。彼がこのような姿を見せるのはおそらくは自分にだけだろう。主人として敬われるのも悪くはないが、こうして信頼されていると感じるのはそれだけで満たされるようだ。
それにしても、あの弥三郎が戦も遠慮願いたいと口にするとはアンナとしても予想外だった。戦場に立つ時の彼の横顔は精気に満ち満ちている。自身の本分を果たす、その充足感は他に比肩するものがない。
そんな彼をして、そう言わしめるほどに一連の戦は激烈なものだったのだ。
「……傷、大丈夫?」
「アンナ殿の煎じてくださった薬のおかげで痛みはとんとござらん。まあ、多少は不自由ではありますが」
「そう……無茶しないでね」
「は、この腕の戻りしあかつきには一層の活躍をご期待あれ」
傷の具合を尋ねると、弥三郎は自然な調子でそう言い切ってみせる。気負った様子も、あからさまにアンナを気遣ってるわけでもない。これが彼の自然な振る舞いだった。
「……活躍するよりいつも通りでいてほしい」
「………なんと」
思わず心が漏れたのは、そんな自然さに当てられてか。
胸に去来した穏やかなもの。わずか半年にも満たぬ間ではあったが、確かに満たされていた大樹の森での日々がどうしようもなく心を過ぎる。
おもえば、あの日々には求める全てがあった。穏やかな木漏れ日と肺を満たす森の精気、愛する人。あまりにも遠く離れてしまったが、だからこそ、その価値が痛いほどに突き刺さる。
「……ごめん」
けれども、それを口にするのは自身に禁じてきたことだ。弥三郎にとっては今が面目躍如の時。アンナ自身彼のためにこの場所に残った、そう自分で決断するしたのだ。自分自身の決断である以上、誰のせいにもできないし、してはいけない。
「いえ、謝るべきはそれがしにございます」
「……違う、ここにいるって決めたのは私だから」
「それに甘えていたのは事実でございますれば。それに気付かず好き勝手していたのはそれがしの不徳の致すところ。お詫びの次第もございませぬ……かくなればーー」
「――死ぬのは駄目、それだけは絶対に駄目」
それにこのことを言いだせば弥三郎がどうするかなど分かりきっている。
弱みを握り、言うことを聞かせるような真似は決してしたくはなかった。彼の意志であったとしても、自分の心情で歪められたものでは意味がない。愛するからこそ、弥三郎には己がままに振舞って欲しい、そんな愚直なまでの純粋さも確かにアンナの本心だった。
「……は、主命、確とこの胸に刻みつけまする」
「……うん、無茶をしないでとは言えないけど、絶対にそれだけは守って欲しい」
それでも、彼の死だけは容認できない。もう一度、あの喪失を味わうなど想像することさえ恐ろしかった。
戦場に立つ戦士に死ぬなと命じる。それ自体が大きな矛盾ではある、彼らの役目には死ぬことすらも含まれているのだから。
「この弥三郎の首はアンナ殿にお預け申しておりますれば。敵にくれてやる首級はございませぬ」
「……うん」
どこか伏し目がちなアンナに対して、弥三郎は自慢げに宣言してみせる。励ましのようでもあり、強がりのように思えるそれ彼なりの優しさでもあった。
弥三郎とて、木石ではない。己が主がなにか思い悩んでいることなど百も承知。かの東方辺領騎姫に対して、なんの解決策も持たぬ自分自身に対して怒りさえ感じていた。
「……巫女殿、近いうちにねもふぃ村へ、いえ、森へと帰りましょうぞ。某も少々、木々の香りが恋しくなってまいりました」
「……え?」
弥三郎の言葉に、アンナは一瞬面食らう。森へと帰る、何よりも望んで止まないそれが弥三郎の口から発せられるとは思っても見なかったのだ。
「城主殿やグスダブ殿に許しはもらわねばならぬでしょうが、まあ、惜しまれはしても渋られはいたしますまい。客将の一件をどうするにせよ、まずは一旦、森へと帰り、英気を養ってから、返答いたしましょうぞ」
「う、うん……そうしよう、そう、したい」
だが、喜びは驚き以上に鮮烈なもの。森へ帰る、そうに考えるだけで身体が浮き上がりそうになる。
それに弥三郎は帰ると口にした。方便や気遣いではなく、本心から自然と帰ると口にしていた。それが何よりも、嬉しくてたまらない。あの日々を愛おしく思っていたのが自分だけではなかった、その証拠を得たようで。
「では、宴が終わり次第、言上いたすとしましょう。ああ、アイラ殿も連れて帰らねばなりませんな」
「うん、そうだね……」
巨神暦千六百九十年、八の月の四つ目週、その三日目、後に「アウトノイアの攻防戦」と呼ばれる戦の終幕はひどく静かな、そして、穏やかなものだった。