05 散歩する。
食器を洗い終わると、食卓についたままのルカさんがじっとわたしを見ているのに気がついた。なんとなく不思議そうな顔をしている。はて、何か変わったことをしただろうか。
思わず首を傾げたわたしに、彼は少し困惑したように口を開く。
「お店……」
「ああ、そういうこと。今日はね、お休みなんですよ」
納得したわたしはすぐに暦を持ってきて、彼の目の前で今日の日付に丸をつけて見せる。同じように定休日に丸をつけて、否定するようにひらひらと手を左右に振った。
ルカさんは、数字が並んだその紙をしばし不思議そうに見つめていた。単語はだいぶ覚えてきたようだけれど、まだ文字は読めないはずなので無理はない。
わからなかったかと苦笑すると、その内彼の指が今日から数えるように数字を辿り始めた。長い指はゆっくりと時間を遡り、前回の定休日に行き着いたところで彼はなんとなく理解したようだった。
気にしたことはなかったけれど、ルカさんは拾われた日から日付を数えていたらしい。わたしには彼の言葉を聞き取ることさえ難しいのに、彼はぎこちなくても綺麗にわたしの言葉を真似てみせる。わたしより随分と賢そうだ。
「まあ、そういうわけなので。ルカさん、お昼までお勉強しましょうか。お勉強」
にっこりと笑えば、ルカさんはしっかりと頷いた。
彼と出会って十日が経った。暗い瞳をしていた彼はもうどこにもいない。彼は少しずつ、けれど確かにこの場所に馴染みつつあった。
わたしは少し古ぼけたカードを持ってきて、ルカさんに見せる。
これもサム先生からいただいたものだ。教科書はまだまだ彼には難しすぎて使いものにならないので、サム先生が知人から譲ってもらったらしい。子供に外国語を教える時に使うのだそうだ。手のひら二つ分くらいのカードにはいかにも子供向けの絵が描かれてあり、その下にはわたしの国の言葉、そして外国語の二種類で描かれたものの名前が書かれている。
文法は後回しだ。まずは単語を覚えなければ何も始まらない。
「はい、ルカさん。これは何?」
「馬車」
「正解です!」
ルカさんは、わたしからすれば驚くべき速さで学習している。上手く自分は話せなくても、わたしたちがゆっくりはっきり喋ってあげると、何を言っているかなんとなく理解できるようだった。サム先生に言わせればそれほどすごくはないらしいのだけど、それでも全然すごいと思う。
サム先生曰く、人は覚えたと思ってもすぐに思い出せなくなるので、何度も同じことを繰り返すのが暗記には重要らしい。だから細かいことにはこだわらず、一度ざっと最初から最後までさらって、また同じように全部さらっていくのが効果的だそうだ。とても教師っぽい助言である。
だからひとまずの目標はこのカード全部を暗記することにして、ルカさんには毎日これと睨めっこしてもらっている。昼間わたしが相手できない間は、店の常連さんが手伝ってくれた。『外国人』に興味を示しているというのもあるけれど、どの人も親しみやすくて優しい人なので、困っているのを放ってはおけないのだろう。代わる代わる相手をしてくれるお客さんにルカさんも少々戸惑っていたようだけど、今ではだいぶ慣れてくれたようだった。
十日。短くも長い時間の中で、彼は確かにわたしたちに馴染んでいたのだ。
午後は二人で出かけることにした。午前中に頑張りすぎたようで、ルカさんはお疲れ気味だ。あんまり一気に詰め込んでも仕方ないだろう。
今日もとてもいい天気だ。この時期は雨が少ない。だけど一月ほど前まで雨季だったお陰で水不足にはならない。穏やかな日差しが降り注ぐ春が過ぎれば、すぐに木の葉は枯れて冬が来る。そしてまた雨季になって、雨が延々と降り続くのだ。
「まあ。リリィ、ルカ。二人でお散歩? 仲良しね」
「おうルカ。俺たちの名前覚えてるか? な、ま、え。言ってみろ」
「……リッキーさん。イーディスさん」
「おお、あってるあってる。正解だ」
よしよしよし、と少し乱暴にリッキーおじさんがルカさんの頭を撫でる。イーディスさんも嬉しそうに微笑む。ルカさんは猫のように目を細めて、おじさんの手を受け入れていた。
ルカさんも近所では随分と知れた人になった。わたしがどこにでも連れ回すからというのもあるけれど、マルヴおばさんや常連さんからの話が広まっているのだろう。出歩けばかなりの確率で誰かが声をかけてくれる。気さくな人が多いのだ、この街は。
はぐれては困るので手を繋いで歩くわたしたちを、誰もが「姉弟のようで微笑ましい」と言う。ルカさんはどう思っているかわからないけれど、少なくともわたしは満更でもなかった。
「空。雲。鳥。蝶」
「人。家。壁。……あー……」
「うん? 窓?」
「ん。まど」
ぽつぽつと、目についたものを呟く。どちらからというわけでも、やろうと誰かが言ったわけでもなく、なんとなく外を歩く時はそうなった。
ルカさんはいろんなものを見て、いろんな名前を呟いて、わからなくなったらわたしが教えてあげる。そして確かめるように彼はまた呟き、記憶する。素晴らしい積極性だ。
わたしはそれが嬉しくて堪らない。彼も歩み寄ろうとしてくれているのだと、そう思えるから。
街を適当に散策して、それから森に入った。休日の度に赴いているので、行かないとなるとなんだか居心地が悪いのだ。できればお節介なマルヴおばさんの説教は回避したいのだけど。
森に入ってすぐはルカさんも居心地悪そうにしていた。多分、勝手にいなくなった日を思い出したのだろう。森に来るのはあの日以来だった。
ルカさんが呟く声もなくなった。森には、「木」と「葉」と「花」しかない。時折、鳥が羽ばたく音が聞こえた。
「ねえ、ルカさん。ルカさんの街にも、森はありましたか?」
信じられないことに、世界には森がほとんどなく人々が苦しんでいる国があると言う。一緒に歩いていて思うのだけど、ルカさんは森を歩き慣れていない。だから彼の国もそうなのかもしれない。
そう思って尋ねたわたしに、彼はゆるく首を振った。
「ない。でも、国はある」
「……よくわかりません。どっちなんですか?」
「……俺の街は、ない。少しだけ。でも、森……や、ま? 山が、他の街はある。たくさん。だから、国はたくさんある」
ルカさんは軽く眉を寄せて、たどたどしく単語と単語を結びつける。
多分、彼が住む街はそれこそ民家や店ばかりなのだろう。けれど彼の街を出れば緑に溢れていて、国として見れば自然が豊かだと。多分、そんな感じなのだろう。多分。
「そういえば、ルカさんの国はなんて名前なの?」
「国の、名前……は、ニホンコク。んん、でも……ニホン? ニッポン?」
「ええ……どれなんですか……」
「……ニホン。うん。ニホン」
まるで自分に言い聞かせるようにルカさんは頷く。いろいろ呼び名があるらしい。
「ニホン、か。難しい名前じゃなくてよかった」
これなら、未だに彼のフルネームを覚えていないわたしでも覚えられそうである。初めて会った時以来フルネームを口にしない彼は、不思議そうにわたしを見下ろした。
「リリアンさん。ここの名前は? ここの、国」
「フェアウェリンス=ガーディアル王国」
「…………」
そこまであからさまにげんなりした顔をしなくてもいいと思う。わたしでも少し長いとは思っているけれど、こういう名前なのだから仕方ない。文句なら王様に言ってください。
だけどわざわざ国名を口にする機会なんてそうそうないから、覚えなくても大丈夫だろう。そうへらりと笑えば、彼はどこかほっとしたように笑った。
しばらく歩くと、ふとルカさんの足が止まった。
黒い瞳が僅かに見開く。その反応に、やっぱり覚えているんだなと、何故か胸がつきんと痛んだ。
目の前には、絨毯のように敷き詰められた淡い色の花。
わたしはそっと彼の手を離した。彼はふらふらと数歩進んで、立ち尽くす。彼が何を考えているのかは、相変わらずわたしにはわからない。
「……ルカさんは、どうしてここで寝ていたの?」
ここに来たのは偶然だった。適当に歩いているつもりだったのに、無意識に足が進んでいたのだ。
きっと、この問いを彼にする為に。
ルカさんは立ち尽くしたまま、わたしの方を見ることもなく首を振った。ふるふると、力なく。
「……わからない」
――やっぱり。
当然だ。わかっていたら、帰り方だってわかっただろう。馬鹿なことを聞いてしまった。
そっと彼に歩み寄って、ごめんねと呟く。ルカさんはまた首を振った。
「ルカさん。少しお花摘んでもいいですか?」
「うん。……リリアンさん、前、摘んでた?」
振り向いた彼は、いつも通りだった。わたしは安心して、うんと頷く。
花は好きだ。可愛いし、綺麗だし、見ていて癒される。
その場にしゃがんで花を摘み始めたわたしを見て、ルカさんもとりあえずといった様子で傍に腰を下ろした。
「ねえルカさん。ルカさんは、お花は好き?」
「……嫌い、じゃない」
「はっきりしませんね。どっちなんですか」
「……好き、です」
たどたどしい答えについ笑ってしまう。ルカさんは困ったような顔をして肩を竦めた。
甘い果物のような色をした花を摘んで、細い茎を少しずつ編んでいく。わたしの手元をじっと見つめる彼はやっぱり可愛く思えてしまって、わたしの頬は緩みっぱなしだ。
日々の暮らしに不満なんて感じたことはなかったし、充足感で満ちていた。けれど、こんなに穏やかな休日は一体いつ以来だろうと思う。
少しずつ少しずつ、蔓のように花が連なっていく。あともう少しかな、というところで、花を摘もうとした手に何か硬いものが触れた。
「ん?」
一旦手を止めて、それを見てみる。花や草に隠れるように、何か黒いものが落ちていた。
拾い上げてみると、手のひらに収めるには少し大きい板のようだった。だけど木製ではない。つるりとした光沢があって陶器のようにも見えるけれど、陶器とか感触が違うように思う。上手くは言えないけれど、何かが違うのだ。なんだろう、これ。
ふと顔を上げてみると、ルカさんが食い入るようにわたしが持つそれを見つめていた。困惑や動揺をない交ぜにしたような、それでいて真剣な……初めて会った日と似たような表情をした少年が、そこにいた。
「……もしかして、これ、ルカさんのもの?」
尋ねると、彼はゆっくりと、どこか怯えるように頷いた。
ルカさんの持ちもの。心の中で呟いて、それを彼に差し出す。ルカさんは、やはり恐る恐るといった様子でそれを受け取った。
彼はそれを覗き込んだり上に掲げたりして、何かを確認しているようでもあった。その確認作業が終わると、骨ばった手で包むように持って、指をそれに滑らせる。わたしが感触を確かめた時のような動きではなくて、面をなぞるようだった。
けれど彼が期待したものはなかったのか、しばらくしてルカさんは落胆したように溜息を吐いた。
その一連の動作を、わたしはどこか落ち着かない心持で見守っていた。何故だかどくどくと鼓動が耳の奥で響いている。
「……ルカさん。それ、何?」
搾り出した声は僅かに震えていた。
ルカさんはわたしを見つめて、困ったように眉を下げる。
「スマートフォン。スマホ」
「……スマ、ホ……?」
「デンワ。……パソコン? ……うんん、触ると、ガメン変わる。デンワとか、メールする。ええと、家族とか、と、と……ともだ、ち? とかと。どこでもできる。あと、シャシンとか、ドウガ見るとか…………ごめん、なさい。わからない。なんて言うか」
たどたどしく謝罪を述べて、ルカさんは項垂れた。上手く説明できないことを本当に申し訳なく感じているのだろう。
だけど、多分、説明されても理解できない。わたしにたいした学がないから? いいや、違う。きっとサム先生だって理解できない。だってこんなもの、わたしは見たことも聞いたこともない。
世界は平和だとは言えない。今日もどこかの国で誰かが貧困に喘ぎ、戦火に焼かれて死んでいる。けれど、少なくとも、この国は平和だった。平和で、豊かだった。
詳しくは知らない。わたしは学校にも通わず食堂を営むただの小娘だ。だけど、自分の国が大国であることは知っている。理解している。
その国の一応は都会に住んでいる。それでも見たことがないとしたら、王立研究所の研究内容であるとか、裏社会で暗躍する貴族の企てだとか、本当にそういう一般市民が知る由もないところでの物事しかないと思う。
「……ルカさんは、王子様とかじゃないですよね?」
「…………えっ」
しばし考えるように間を置いてから、ルカさんはぎょっと目を剥いて慌てて首を振った。
「え、ええと、学校行ってる。フツーの、子供」
困惑を隠しもせずに必死に覚えたての言葉を漁っているのがよくわかった。だからこそ、愕然とした。
一般市民が、それも子供が、こんな未知の物体を持っているのだ。ルカさんの国では、世界では、それが当たり前なのだ。
まさにこれを衝撃と言うのだろう。ちっぽけなわたしを襲うのは強烈な驚きと、好奇心と、……ほんの少しの恐怖。
世界が違いすぎる。言葉なんて些末な違いだ。
――ルカさんは、本当に別世界の住人なのだ。
ふっ、と全身の力が抜けた。わたしは呟くように尋ねる。
「……それ、使えないの?」
「え、うん……使えない。……デンチない。たぶん」
ルカさんが肩を落とす。また知らない言葉だ。恐らくそのないものも、この世界では手に入らないだろう。
わたしはなんて馬鹿だったんだろう。ルカさんが故郷に帰りたいと思うのは当然なのに、忘れようとしていた。……自分が、一人になりたくないが為に。
小さく唇を噛んで、傍に咲いていた花を一輪摘む。それを握ったままだった蔓に編みこんで、輪の形にして留めた。ルカさんは不思議そうにそれを見ている。
わたしはにっこり微笑んで、黒い頭に優しく乗せた。
「ルカさんにあげます。花冠」
「……花、かんむ、り?」
「はい。似合いますよ、ルカさん」
わたしの体温で少ししおれてしまったけれど、それでも可憐に咲き誇る花たちは彼の黒髪によく映えた。
「似合う」という言葉がわからなかったのか、ルカさんはきょとんとしていたけれど、微笑むわたしを見て次第に表情を綻ばせる。
「……これ、俺の国あった。女の子が作る」
「そうなんですか? ええと、ニホン、でしたっけ」
「うん。ニホン」
闇色の瞳が眩しそうに細められるのを、わたしはどこかぼんやりとした気持ちで見ていた。
ルカさんはそんなわたしに気づかず、柔らかく笑む。
「でも、初めてもらった。ありがとう、リリアンさん」
じんわりと、胸があたたかくなった。
とても表情が豊かになったと思う。時々寂しそうな表情を覗かせても、もうあの抜け殻のような瞳はどこにもない。
でも、違うのだろう。彼は帰りたいはずだ。彼の国に、彼の街に、彼の家に。帰りたいに決まっている。
遠い遠い、どこにあるかもわからない、彼の故郷。本当に、一体どこにあると言うのか。
帰してあげたい。何をすればいいのかなんてわからないし、できることなんかないのかもしれない。それでも、彼を家族のところへ帰してあげたい。
だって、家族を恋しく思う気持ちは痛いほどわかる。
「どういたしまして、ルカさん」
いつか彼が帰るその時までは、わたしが彼の家族で、彼はわたしの家族。
彼がわたしに穏やかな日々をくれるように、わたしも彼にたくさんのものをあげられるといいな。