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04 可愛がる。

 懐かしい夢を見た。そんな気がする。



 白い朝日が差し込む中、くるくると鍋を混ぜる。うっすらと鍋底を透かす野菜スープをお玉で掬って、一口味見。うん、今日もおいしい。

 一人満足して火を消したところで、静かな足音が聞こえた。振り返ると、一昨日と同じように黒髪の少年が食堂の入り口に立っていた。今日は先に顔を洗ったらしい、髪についた水滴がきらきらと光っている。

「ルカさん、おはようございます」

「…………おはよ……ござい、ます……」

 たどたどしい挨拶につい笑みを零してしまうと、彼は気恥ずかしそうに目をそらした。なんだか可愛くて、また笑ってしまう。

 すると今度は少しむっとした顔を作って、わたしのもとへ歩み寄る。なんだろうと首を傾げつつ彼の動向を見つめていると、彼は一度鍋の中を覗き込んで、食器棚から皿を取り出した。わたしがいつも使うお皿と、彼がいつも使うお皿。その内、毎朝スープを入れていたお皿二枚をわたしにずいっと差し出してくる。どうやら取ってくれたらしい。

「ありがとうございます」

 にっこり笑って受け取ると、ルカさんも少しだけ表情を緩めてくれた。



 昨日、あれからルカさんはわたしを背負って帰ってくれた。

 というのも、打ち付けた背中の他にも地面を転がったお陰で擦り傷がいくつかできていて、それが彼の目にはたいそう痛々しく映ったらしい。捻挫もないし痛みもだいぶやわらいだから大丈夫だと懇切丁寧に説明したのだが、何分彼は言葉が通じない。わたしに背を向けてしゃがんだまま、わたしがその背に乗るのを待ち続けた。多分、通じていようがいまいが関係なかっただろうけど。

 しばらく一方的な問答を続け、結局わたしが折れたのは言うまでもない。

 ルカさんはその細身にあわず力持ちなようで、わたしを軽々と背負ってしまった。わたしが指差すとおりに彼はしっかりとした足取りで進み、通行人の好奇の視線に晒されながらも家まで無事に辿り着いた。

 この歳になって、しかも年下の男の子におんぶされるのは恥ずかしかったけれど、少し気分が弾んでしまった。やっぱりわたしは子供っぽいのかもしれない。

 けれど、楽しかったのはここまで。大変だったのはそれからである。家の前では、マルヴおばさんが待ち構えていたのだ。

 そこからは怒涛の説教だった。まずボロボロなわたしの有様について言及され、わたしの傷を少々手荒く手当しながらフラフラ出歩くなとルカさんを怒鳴りつけ、手当てが終われば勝手に一人で突っ走るなとわたしを叱り飛ばし……本当に大変だった。彼女の旦那さんがわたしの家に来るまで止まらなかった。旦那さんがどうどうと宥めて連れ帰ってくれた後、わたしたちは顔を見合わせて苦笑したものだ。

 もうその頃には二人とも疲労困憊で、簡単に夕飯とお風呂を済ませるとすぐに眠ってしまった。

 寝て起きたら、またいなくなっているんじゃないか。そんな不安に駆られずにいられたのは、彼が初めてわたしが部屋に入るまで一緒にいてくれて、ぎこちなく「おやすみなさい」と言ってくれたからだと思う。



「ご飯」

「ごはん」

「食卓」

「しょくたく」

「お皿」

「おさら」

 覚束ないながらも、真剣に言葉を一つ一つ復唱するルカさんが可愛くて仕方がない。頬が緩んでしまう。

 目の前にあるものの名前を呟きながら朝食を並べ、わたしたちは席に着いた。わたしがスプーンを持つと、ルカさんは静かに胸の前で手を合わせる。

 何かしらを呟いて朝食に手をつける彼を見て、わたしは一旦スプーンを食卓に置き、彼を真似るように手を合わせた。きょとん、黒い瞳が丸くなる。わたしには彼の言語は難しいので、ただ念じるようにぎゅっと目を瞑っただけで誤魔化すように笑った。

 黒髪の少年は苦笑する。困ったような、仕方ないなとでも言うような、そんな柔らかい苦笑だった。

「ルカさん。ご飯、おいしい?」

 名前を呼ぶと、ルカさんは必ずわたしに注目してくれた。

 わたしは何も乗っていないスプーンを口元に運んでぱくぱく食べる真似をした後、人差し指を口端に添えてわかりやすくにっこり笑いながら、首を傾げる。

 彼と出会った時から思っていたことだが、どうやら彼の国とわたしの国はジェスチャーに関してはほとんど変わらないらしい。隣国ですら意味が間逆にとられてしまうこともあるのに、遠い遠い彼の国とは一緒だなんて、少しおかしい。

 ルカさんは大きく頷いてくれた。微かに表情を緩めて。

 伝わらなかった時は無反応か、あるいは眉間に皺を寄せてこれでもかと「意味わかんねえ」って顔をするので(多分無意識)、ちゃんと伝わったようだ。わたしは満足して自然と笑顔になる。

「ルカさん。ご飯、足りる?」

 ちょうど空になった彼のお皿を指差し、それから鍋を指した。彼のお皿が空になったのは昨夜が初めてだった。

 わたしは朝からガッツリ食べられないので、あまり多くはない。けれどルカさんは違うかもしれない。細身でも男の子だから、たくさん食べるだろう。違う民族だし、男女で違うのかもわからないけれど。

 ルカさんはまた頷いた。遠慮しているのかと思ってじっと見つめてみたけれど、見つめ返されるだけで特に何もなかった。

 遠慮していないならそれでいい。残さず全部食べるようになってくれたから。ひとまず彼が空腹で倒れるというようなことはないはずだ。

「ルカさん。あなたにとって、ここが居心地のいい場所になりますように」

 微笑むわたしに、ルカさんは不思議そうに首を傾げた。



 七時には身支度を整えて家を出る。朝から賑やかな市場でおいしそうな食材を適当に買って、八時前に店に辿り着く。

 白く塗られた煉瓦の壁に大きな窓がついた茶色の扉があって、店先には小さな花を植えた鉢植えが並ぶ。扉の上に取り付けられた黒い文字は店名を綴っていた。民家にも見える、落ち着いた可愛さのある建物。それがわたしの店。

 裏口から店内に入って、灯りをつける。この時間は白い朝日が窓から差し込んで灯りがなくても大丈夫だけど、灯りをつけない店は普通ない。

 髪を簡単に結い上げて、円卓に上げていた椅子を下ろした。

「ルカさん。ここは、『フィーリア』」

「……フィー、リア?」

「そう。わたしのお店」

 とりあえずといった様子で椅子下ろしを手伝ってくれたルカさんに、床、そして自分を指し示してみせた。彼は目をまんまるに見開く。ふふ、と笑ってしまった。

 この反応には慣れっこだ。今でも、初めて来たお客さんはそんな風にして驚く。この歳でも働いている人はたくさんいるけれど、さすがに店主はなかなかいないから。

 一番奥の椅子を引いて、手招きをする。ルカさんは少しだけ訝るような顔をしながらも、素直にそこに座った。

 わたしはエプロンをつけ、調理場でさっさと下ごしらえを済ませてしまう。これといって人気メニューがある訳ではないけれど、作るのはだいたい毎日同じ。いつも常連さんがたくさん来てくれるから。

 あとは仕上げのみになったところで、二日連続で扉に貼ってあった貼紙を剥がし、変わりに開店中を知らせる看板をかける。

 午前十時。『フィーリア』開店です。

「ルカさん。お客さんが来るまで、一緒にお勉強しましょう」

 ルカさんの向かいの席に座って、サム先生からもらったばかりの教材を卓上に広げた。

 わたしとルカさんの生活がかかっている以上、わたしは仕事を休むわけにはいかない。だからといって彼を一人家に残すことはできないし、まだここに慣れないのに誰かに預けることもしたくはない。彼には少し申し訳ないけれど、閉店までここにいてもらうことになる。

 開店してすぐにお客さんが来るわけではないから、それまでは彼と勉強しよう。本当はお喋りでもしている方が楽しいだろうけれど、まずお喋りができないのだから仕方がない。

 そう思ったのだが、教科書を広げて思わずぽかんとしてしまった。思っていたよりも、絵が少なくて文字が多い。

「……これ、ルカさん一人で勉強するのは難しいね?」

 向かい側を見てみると、ルカさんは暗い顔をして頭を抱えていた。予想以上にダメージを受けてしまったらしい。

「だ、大丈夫! わたしもいるから! 一緒に頑張ろう!」

 ぐっと拳を作って励ましの言葉を送る。ああ、言葉が通じないんだった!

 わたしまで頭を抱えそうになったけれど、顔を上げたルカさんは不安げな顔をしながらもこくこくと頷いてくれた。言葉の壁を越えた感動とルカさんのやる気に胸が熱くなる。学校に通っていないから手助けできることは少ないだろうけど、精一杯わたしも頑張ろう。

 そう思った時、カラン、と扉につけられたベルが鳴った。お客さんが来てしまったようだ。残念だなんて思っちゃいけない。お客さんが来てくれるのはいいことありがたいこと。

 振り返ると、常連のおじさん二人だった。たいてい開店一番に来てくれるのは彼らだ。どうやら仕事の空き時間に来てくれるらしい。詳しくは知らないが、休日が滅多になくて大変な仕事だとぼやいていたことがある。

「おじさん、いらっしゃい」

 すぐさま対応に向かうと、おじさんたちはわたしを見てぎょっとした。

「リリィ、どうしたんだその怪我! あちこち傷だらけじゃないか」

「ちょっと森で転んじゃって」

「転んだって、お前なあ……女の子なんだから体は大事にしろよ。突然二日も休むから、こっちは心配してたんだぞ」

 呆れたような顔をして、おじさんが頭を撫でてくれる。大きくてごつごつとした無骨な手は、お父さんの手のように安心感があって好き。

 ごめんなさいと素直に謝ると、二人は「次からは気をつけるんだぞ」と笑って許してくれた。

「ご注文は? いつものでいいですか?」

「ああ。三日食べてないからな、とびきりうまいの作ってくれよ」

「いつでもとびきりうまいの作ってますよ」

 くすくすと笑って、調理場に引っ込む。調理場と言っても、大きな店ではないし、仕切りも作っていないから客席から丸見え。家の台所のようなものだ。

 隔たりのないこの店内の雰囲気がわたしは気に入っている。お客さんをとても近くに感じるから。

 あらかじめ下ごしらえしていた食材をまとめて炒めていると、ふとルカさんがこちらをじっと見ているのに気づいた。教科書も読めないし、暇なのだろう。どうしようか。

 すると、ルカさんの存在に気づいたおじさんたちが話しかけ始めた。

「坊主、初めて見る顔だな。なんだ、リリィばっかじっと見て。まさか惚れてんのか?」

「やめとけやめとけ。気持ちはわかるけどな。リリィは食いもんしか考えてねえよ。料理と男っ気のなさは天下一品だぜ!」

「ははは、言えてる。……にしても、珍しい髪してんな。目まで真っ黒じゃねえか。国はどこだ? このあたりに住んでんのか?」

 円卓を一つ挟んでの襲い来るおじさんたちの会話にルカさんはたじたじだ。狼狽えた様子でこちらをちらちら見て助けを求めてくる。ルカさん可愛い、なんて思っている場合ではない。

 おじさんたちにやめさせようと口を開いた時、またカランとベルが鳴った。

「よう、リリィ」

「サム先生、いらっしゃい」

「あ? ルカもいんのか」

 ちょうどいいところに入ってきたサム先生は、ルカさんを見つけて「お前らべったりだな」と気だるそうに言う。どうせ寝起きに違いない。

 今日は世間は休日、つまり学校もお休みだ。サム先生は、休日はほとんど一日中店に居座っている。居座って何をしているかと言えば、テストの採点をしたり本を読んだり、ぼうっとしたり。閉店時間まで適当に過ごしている。

「サム。この坊主と知り合いか?」

「まあ一応? こないだからリリィが面倒見てる『外国人』だよ。言葉通じねえから喋ったことはねえけど」

「面倒? おいおいリリィ、母親の真似事する前に恋人の一人や二人作れよ」

「余計なお世話です。そんなこと言う人のご飯は減らしちゃいますからね」

「悪かった! リリィは俺たちみんなのリリィだもんな! 男なんかいらねえよ!」

「おっさんきめえ」

 大きな欠伸を零しながら、サム先生が奥の円卓に向かう。

 わたしは盛り付けを終えたお皿をおじさんたちの前に置いた。しっかり量が減らされていないかチェックされていることは気づかないふりをしてあげよう。

「おいリリィ、俺にどこ座れって言ってんの」

「え? いつも通り、そこにどうぞ」

「ルカ座らせたのお前だろ」

「はい。サム先生なら、ルカさんのお勉強見てくれるかと思って」

 剣呑な視線に、にっこりと笑みを返す。

 先生の特等席は一番奥の円卓。これは何年も前からそうだ。わたしはもちろん、常連さんもみんな知っているので、休日は誰もそこには座らない。

 サム先生は不機嫌丸出しでわたしを睨む。「休みの日まで教師しろって言ってんのか」と細い目が唸っている。でもわたしはにこにこ笑うだけ。

「サム先生が一日中居座るので、いつも席が一つ使えなくなるんですよ。使えない席を二つに増やせって言うんですか? 稼ぎ時の休日に?」

「…………」

 むすっとしたまま、サム先生はルカさんの向かいに腰を下ろした。なんだかんだ先生は優しいんです。

「ありがとございます、先生。いつものサンドイッチ多めにしてあげますね」

「……しゃあねえなあ」

 ガシガシと無造作に頭をかいて、先生がルカさんに向かい合う。それを見届け、もう一度調理場に戻った。

 サム先生はまずサンドイッチを食べ、三時頃にスパゲティ、八時頃にシチューを注文する。本当は、シチューはメニューにない。一人で調理と接客をするわたしにはそんな時間がないから。だけど先生はお得意様だし、ずっと前からの決まりきったことで、だから注文を受ける前に先に作っておく。

 他の常連さんもそうだ。先に何が食べたいかや、必ず食べるものがあればその用意をしておけるので、メニューに載っていない料理も出す。それが先代から続く、フィーリアの経営方針である。

 市場で買ったばかりの新鮮な野菜を挟んだサンドイッチを、サム先生の前に置く。ついでにルカさんにはフルーツジュースを。口にあえばいいけれど。

 サム先生は頬杖をつき、重々しく溜息を吐いた。

「こいつ、本当にさっぱりわかんねえんだな」

「失礼な。少しはわかるようになりましたよ。ね、ルカさん。これは?」

 呆れ返った言葉にむっとしてしまう。彼の努力を認められないのは嫌だ。

 わたしはサンドイッチが乗ったものを指して、首を傾げてみせた。ルカさんは黒い瞳でわたしを見て、それを見て、もう一度わたしを見る。

「おさら」

「ほら! どうですか!」

「……長え道のりだなあオイ」

 胸を張ったわたしにサム先生はまた溜息。目元を押さえて、呆れを隠そうともしない。サンドイッチ食べてやろうか。

 むすっとしたわたしを気にも留めず、先生は頬杖をついたままルカさんを見遣る。

「まあいいや。大人に教えんのは面倒だが、子供は嫌いじゃねえ。よかったなルカ、ガキでよ。じゃなきゃリリィもさすがに拾わなかったろ」

「先生にはわたしがそんなに非道に見えるんですか? 大人でも拾いましたよ」

「……リリィ、お前はいい加減危機感を覚えろ。可愛いのは十歳までだ。十歳超えた男は獣だぞ」

「獣って。先生はともかく、ルカさんはせいぜい子犬でしょう?」

「オイおっさん。なんでこいつこんな馬鹿に育ってんだよ」

「いやあ、まだ早えかなって思ってたらいつの間にか十七だ。学校通ってりゃ違ったのかもなあ」

 わはは、とおじさん二人が笑う。みんなして馬鹿って。自分ではそんなに馬鹿なつもりはないのだけど、馬鹿は自覚がないらしいからやっぱり馬鹿なのだろうか。

 むくれていると、ルカさんが心配そうに眉を下げているのに気づく。言葉は通じなくても、わたしが何かしら標的にされているのはわかるらしい。ルカさんいい子。

「わたし、ルカさんなら何回落ちてても拾います」

「何回も落ちてるわけねえだろ」

「リリィ、ふざけたこと言ってないで仕事しろよー」

「わかってます!」

 感動のあまりルカさんの手をひしと握っていると、可憐に鳴るベルが誰かの来店を知らせる。

 広くはない店内に満ちる賑やかな声、楽しげな雰囲気。この時間が好きで堪らない。

 入ってきたお客さんに駆け寄って、わたしは笑顔で出迎えた。

「いらっしゃい」

 いつか、ルカさんにとってもこの店が楽しい場所になればいい。

 いつか、ルカさんも声を上げて笑えるようになるといい。

 今のところ、一番の願い事。

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