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03 奔走する。

 食卓に頬杖をついて、部屋の入り口を見つめる。扉のないその向こうには二階へと続く階段があって、わたしはじっとそこを見ていた。

 今日も朝からいい天気だ。外からは小さく鳥のさえずりが聞こえる。



 昨夜、サム先生から教科書を譲ってもらった後、ルカさんと二人で夕飯を食べた。彼はやはり半分ほど残した。

 ルカさんはお風呂に入ると、彼に宛がった部屋にすぐに引っ込んでしまう。無理もないと思う。だから、わたしは彼が部屋にいる間は近寄らないようにした。

 丸一日一緒にいても、彼の声を聞いたのはほんの数回だった。そのことがわたしの胸を締め付ける。

 よほど前向きな人でもない限り、右も左もわからない状況下で言葉の通じない人にベラベラ喋るというのも無理だろう。わたしもきっとできない。だけど、やっぱりなかなか打ち解けられないものなのだな、と勝手に落ち込んでしまった。

 わたしは学校に通わなかった。ある程度の読み書きはできるし、算術は物心つく前から店に入り浸って手伝いをしていれば勝手にできるようになった。両親やマルヴおばさんなんかは学校に行った方がいいんじゃないかと言ったけれど、わたしが首を振れば無理強いはしなかった。他国は違うようだが、少なくともこの国では人の意志は何よりも尊重されるべきものとされている。たとえそれが子供であっても、だ。わたしは勉強より店の手伝いをする方が好きだった。だから学校には通っていない。

 だけどそのお陰で、わたしに同年代の友達はできなかった。いつも大人ばかりが周りにいて、いつも甘やかしてくれた。大人は、初めて会ったその時から、わたしに対してとても友好的だった。

 だから、誰かに歩み寄ろうとするのはわたしにとって初めての試みだ。

 どうすれば心を開いてくれるのか。どうすれば彼を安心させてあげられるのか。何もかもがわからないことだらけだ。

 それでも、頑張ると決めたから。最後まで頑張り続けようと、それだけを思っていた。



 そうやって意気込んで朝を迎えたというのに、なんだか胸がもやもやする。ルカさんが起きてこないのだ。

 昨日も、わたしが起こしたわけではない。店のこともあって我が家の朝は早い。朝食の支度をして、しばらくしても起きてこないようだったら起こしに行こうと思っていた。だけど彼はちょうどいい頃に降りてきた。だから起こしに行く必要はないのだと思っていたのだけど。

 昨日は目元にうっすらと隈ができていたし、眠れなかったに違いない。その寝不足のお陰で、昨夜はぐっすり眠れているのかもしれない。そうだといい。多分、彼は昨夜も泣いていたから。

 だけどそろそろ起きてくれないと、折角の朝食が冷めてしまう。今日こそ店を開けないといけないし、彼を寝かせたまま出かけるなんてことはできない。少々忍びないけれど、わたしは席を立って階段を上がった。

 ルカさんの部屋は、両親とわたしの部屋の間だ。

 両親の部屋でもよかったのだけど、あそこの寝台は一人には大きすぎて逆に落ち着かない気がしたのだ。その点、あの部屋はちょうどいい大きさの寝台があるし、机や衣装棚も置いてある。使っていない部屋もこまめに掃除しておいてよかったと心底思う。

 コンコン、と扉をノックした。しばし待てども、やっぱりと言うかなんと言うか、返事はない。

「おはようございます、ルカさん。ご飯できてますよ」

 声をかけてみたけれど、返ってくるのは沈黙のみ。返事をしてくれることはほとんどなかったけど、無視されたことは一度もなかったのに。

 嫌な予感がした。ぬるりと這い上がる不安を打ち消すように、強めに扉を叩く。

「ルカさん、ねえルカさん。寝てるんですか? 開けますよ?」

 返事はない。物音すらしない。わたしは怖くなって、鍵のついていない扉を開けた。

 窓から白い光が差し込んでいた。灯りのついていない部屋をきらきらと照らしている。窓が開いていて、優しい風が頬を撫でた。

「……ルカ、さん?」

 黒髪の少年は、いなかった。

 少しも触れた気配のない家具。整えられた寝台のシーツ。綺麗に畳まれた、マルヴおばさんに借りたばかりの服。

 部屋の中を見回しても、誰もいない。彼がいない。

 彼が、いなくなった。


 ――おにいちゃん。


 頭の中で、幼い声が響いた。それは、ひどく頼りない、自分の声だった。

 ぐっと胸が苦しくなる。心臓を鷲掴みにされたようだ。血液がどくどくと音を立てて巡って、気持ち悪い。気持ち悪い。……怖い。

 きつく唇を噛み締めて、わたしは駆け出した。

「ルカさん! ねえ、ルカさん、どこ!?」

 両親の部屋。わたしの部屋。居間。食堂。お風呂場。洗面所。手当たり次第に家中を探していく。だけど見つからない。どこにもいない。

 食卓が嫌でも目に付く。仲良く並んだ二人分の食事は、わたしを嘲笑っているような気がした。

 もしかしたら、ルカさんは帰ったのかもしれない。

 本当は全部嘘で、言葉だって理解していて、自分の家に帰ったのかもしれない。あるいは全部本当だったとして、だけど自分の故郷へ帰ることができたのかもしれない。帰り道を見つけたのかもしれない。

 それなら、わたしが彼を探すのは彼を邪魔することになるのではないか。彼にとって、ここはなんでもない。ここにいたって何もない。探してあげない方が、彼の為になるのではないか。

 だけど。でも。だって。

 いくつもの言葉が浮かんでは消える。わたしの胸をぎりぎりと締め付けながら。

 わたしはぐっと拳を握り締め、家を飛び出した。真っ先に隣の家の扉を叩く。

「おばさん! マルヴおばさん!」

 反応はない。それもそうだ。まだ朝日が昇って数時間しか経っていない。ようやく起き始める頃だ。誰かが訪ねてくるには早すぎる。

 それでも殴るようにノックを続けていると、床を軋ませて近付いてくる足音が聞こえた。

「はいはい。なんだって言うんだい、まったく……」

 少し苛立ったように扉を開けたおばさんは、わたしを見て目を見開いた。わたしは構わず、必死に彼女に詰め寄った。

「おばさん、ルカさん来てませんか? ルカさんがいないの!」

「はあ? こっちには来てないけど、いないってあんた」

「わかった。ごめんなさいおばさん。わたし探してきます!」

「えっ、あ、ちょっと待ちな!」

 すぐさま踵を返すと、ガシッと腕を掴まれる。

 急いでいるのに。もどかしい気持ちで振り返ると、おばさんは溜息一つ零してわたしを見た。

「頼れって言ったばっかりなのに、あんたは……」

「え?」

「私も探してやるから。一人よりは二人の方がいいだろ」

 マルヴおばさんは一度中へ引っ込むと、簡単に身支度を整えてさっさと戸締りをしてしまう。

 いいのだろうか。だって、おばさんには少しも関係がないのに。わたしの我侭を許してくれているだけなのに。

 そんな心情が透けていたのか、おばさんは呆れたように眉を上げ、わたしの頭を撫でた。

「ほら。早く行くよ」

 その手があんまり優しいから、うっかり泣きそうになってしまった。



 マルヴおばさんは近所を廻り、ひとまずわたしは昨日ルカさんと行った場所を辿ることになった。

 彼はまだこの周辺の地理に詳しくないから、闇雲に探すよりは一度訪れた場所を探した方がいいというおばさんの助言によるものだった。

 時間が経つにつれて街は賑やかな声に包まれ始め、不思議そうにわたしを見る通行人の間を息を切らせて走る。立ち寄った店を一軒一軒訪ねて、いないことに落胆して、また走る。その繰り返し。

 だけど結局、彼を見つけるどころか、黒髪の人すらいなかった。

 家に戻った時には、既に日は高く昇っていた。

 膝に手をついて息を整えるわたしの背を、マルヴおばさんは優しく擦ってくれる。

「リリィ、ちょっと休みなさい。あんた、朝から何も食べてないんだろ?」

「わたしは、大丈夫……ルカさんを探します」

「そう言ったって、あんたが倒れたら意味ないだろ。私はこのまま探すし、騎士団にも頼んでみるからさ」

 ふるふるとわたしは首を振った。おばさんの溜息が落ちる。

 深く息を吐いて、もう一度駆け出した。

「リリィ!!」

 おばさんの声が聞こえても、立ち止まらなかった。

 ルカさんを拾ったのはわたしだ。ルカさんの面倒を見ると決めたのもわたしだ。わたしには、彼を見つける責任がある。

 彼はまた泣いているかもしれない。たった一人で、声を殺して泣いているかもしれない。

 一人で泣くのがどれだけ辛いか、わたしは知っている。

 絶対諦めたりしない。絶対見つけ出す。


『もう暗くなる。家に帰ろう』

『大丈夫。きっとすぐに帰ってくるわ』

『大人に任せて。リリィは家で待っていればいい』


 ……あの時だって、諦めなければ見つかったかもしれないのに。


 足がもつれて転んだ。元々体力には自信がない。体は限界を訴えている。

 それでも腕を突っ張って、立ち上がる。歪む視界の端に、優しい緑が見えた。

「……森……」

 ルカさんと出会った、森。

 わたしの足は自然と森へ向かった。心臓が痛い。破れんばかりに鼓動を響かせる。

 耳障りな鼓動も、耳障りな呼吸音も、全て聞こえないふりをして森の中へ入る。木漏れ日が照らす道を駆けた。

「ルカさん! ルカさん! どこにいるの!」

 彼を呼ぶ声はもはや悲鳴に似ていた。静かな森の中にわたしの声が虚しく響く。

 また転んだ。今度は膝を擦りむいた。痛い。苦しい。涙が溢れる。

 わたしは唇を噛み、頬をぐいっと強く拭った。重い体を叱咤して、また走る。

 がむしゃらに走っていたはずなのに、いつの間にか淡い花が密集している場所に来ていた。

 綺麗な花が寄り添って咲いている。

 ルカさんが、寝ていた場所。……けれど、やはり彼はいなかった。

 焦燥と、落胆と、とてつもない喪失感が渦巻く。目頭が熱い。わたしは振り切るように踵を返し、駆け出した。

 本当は、責任なんてどうでもよかった。

 彼が何を思っているかも、彼が何を考えているかも、二の次だった。

 わたしはただ、怖かったのだ。何も言わずに、彼が消えてしまうことが。

「なんで、どうして、どこにもいないの……? お願いだから、出てきてよ……!」

 涙が頬を伝う。

 痛い。足も、手も、胸も。体中が痛くて、苦しい。もう泣き喚いてしまいたかった。

 どこへ向かっているのかもわからないまま走る。木の枝に引っかかってワンピースが破けた。それでも構わずに走った。

 水の音が聞こえ始めた。川が近いらしい。

 周囲を見回しながら走り続けると、ずる、と足が滑った。

 あ、と思う。体が傾く。まずいと思った時には、わたしの体は斜面を転がっていた。石や枝が容赦なく肌を傷つける。

 ぎゅっと目を瞑ると、すぐに背中に衝撃が襲った。

「ッは……!」

 一瞬息が止まった。打ち付けた背中が痛い。だけど、生きている。わたしは運がいい。

 斜面を転がって、川のほとりに投げ出されたようだった。手をついた感触が土ではなく、細かい砂利になっている。川のせせらぎがすぐ傍で聞こえた。

 ずきずきと背中に響く痛みを息を吐くことでやりすごし、なんとか立ち上がろうと四肢に力をこめる。すると、ジャリッと石が鳴いた。

 近づく足音に顔を上げる。わたしを見下ろすのは、夜空のような黒い瞳だった。

「……ルカ、さ……」

 掠れた声で名前を呼ぶと、彼はゆっくりとわたしの傍に膝をついた。相変わらず戸惑ったような、泣き出してしまいそうな表情でわたしを見る。そこにほんの少し心配が滲んでいるのを、わたしは見つけた。

 ルカさんの大きな手がわたしを支え、そっと起こしてくれる。痛みにわたしが顔を歪める度、びくりと彼の体も強張った。ようやくわたしがしっかりとそこに座ると、服や体についた土を払ってくれた。

 けれど、それが終わるとすぐに、彼はわたしから目をそらす。居心地が悪そうなその表情に、忘れかけていた熱い激情がぶり返した。

「――ルカさんの馬鹿!!」

 びくっと彼は体を震わせた。大きく瞠目した瞳がわたしを映す。

 驚きだけに染まったその瞳に、更にむかむかした。

「どうして勝手にいなくなるの!? どうして何も言わずに出て行くの!? わたしがどんなに心配したか、わからないの!?」

 もう叫びすぎて喉も痛いのに、勝手に言葉が口から零れ落ちる。

 言葉が通じないとわかっているのに、彼を責め立てることをやめられない。

「わたし心配したのよ! 怖かったんだから! ずっと探してたのよ! 変な人に捕まってるんじゃないかって、馬車に撥ねられたんじゃないかって、ずっとずっと考えてたのよ!」

 怖かった。怖くて、怖くて、怖くて。恐怖に押し潰されてしまいそうだった。

 彼はもう帰ってこないんじゃないかって。

 わたしはまた、一人ぼっちになるんじゃないかって。

「ルカさんが、いなくなったらどうしようって……!」

 彼の顔が、泣き出しそうに歪んだ。彼の手が躊躇いがちに伸ばされる。

 あたたかい手のひらが頬に触れて初めて、自分が泣いているのだと気づいた。

 ぼろぼろと涙が溢れて頬を濡らす。彼はぎこちなくわたしの涙を拭ってくれる。

 更に涙が溢れた。

「ルカさんの馬鹿! 馬鹿、馬鹿! 馬鹿……っ!」

 嗚咽混じりに馬鹿と泣き喚くなんて、相当子供っぽい。だけど彼は言葉が通じないから、そんなことわからないだろう。わたしだって、涙の所為でもう彼がどんな表情をしているのかわからない。

 止まらない熱を持て余して泣き続けると、あたたかい何かに体が包まれるのを感じた。

 ああ、わたしはこれを知っている。このぬくもりは、この匂いは、ルカさんだ。

 あの日しがみつくようにわたしを抱きしめた手は、わたしの背をやはりぎこちなく撫でる。縋るように手を伸ばした背は、もう震えていなかった。

「……リ、リア、ン」

 ぽつりと耳元に降ってきた声に目を丸くする。

 初めて、わたしの名前を呼んでくれた。

「リリ、アン。リリア、ン。……リリアン」

 確かめるように、噛み締めるように紡がれるわたしの名前。覚束ない子供のような声は、何度もわたしを呼ぶ。

 ……まるで、「ごめんなさい」と言うかのように。

「ル、カ、さん」

「リリアン」

 都合がよすぎるだろうか。勝手な解釈だろうか。

 だけど耳朶を揺らす心地好い声に、胸が熱くなる。

 わたしは強引に涙を拭った。目元が腫れようがもうどうでもいい。

 背中を擦る手が止まる。ルカさんは少しだけ身を離して、不安げにわたしの顔を覗き込んだ。

「ありがとう」

 わたしは精一杯笑った。

 この気持ちがどうか伝わってほしい。優しくて、あたたかいこの気持ち。

「帰ろう。ルカさん」

 いつかのように、彼に手を差し伸べる。黒い瞳が丸くなった。けれどすぐにくしゃりと歪んで、それから、眩しそうに細められた。

 帰る場所がないと言うのなら、いくらでも作ればいい。わたしは彼を家族として、初めての友人として受け入れよう。言葉はわからなくても、一人ぼっちの辛さは痛いほどわかってあげられる。わたしは彼の為にいくらでも考え、いくらでも努力しよう。いつか彼が、あの家に帰りたいと思える日まで。

 彼の手が重ねられる。大きな手のひらが、包み込むようにわたしの手を握った。

 ぽつりと、彼が何かを呟く。耳慣れないそれに首を傾げれば、穏やかな色をした黒の瞳がわたしを見つめた。

 この時、ルカさんは初めて笑顔を見せてくれた。

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