02 お願いする。
白い光が窓から差し込んでいる。今日も気持ちのいい朝だ。
朝食の準備を進めながら、ふと食器棚を見遣った。昨日までとは食器の配置が変わっている。久しく使っていなかった食器がわたしのと並んで前に出ている。それらが、「みんな現実だよ」と静かに語っている気がした。
床が軋む音が微かにした。ギ、ギ、とゆっくりとした足音が近づいてくる。手を止めて振り返ると、黒髪の少年が食堂の入り口に立っていた。
「ルカさん、おはようございます」
わたしは努めて明るく微笑んだ。
彼は何も言わない。
食器棚から使う器だけを出し、彼の傍へ駆け寄る。彼は警戒しない代わりに、何もしなかった。
「ご飯できてますから。まずは顔を洗ってきてください」
伝わらないとわかっていながら、わたしは自分の国の言葉を話し、彼の背中を押す。昨夜案内したばかりの洗面所へ通し、蛇口を捻った。ジャアジャアと水が流れ出す。
それでなんとなく言いたいことはわかってくれたらしい。彼は水に手を通して、まず口をゆすいだ。
それを見届け、わたしは傍の棚に顔を拭く為の布を置いて台所に戻った。
昨日、男の子を拾った。
異国の人だった。それこそ、わたしが住む世界とは全く異なる世界にいただろう人。
言葉は通じない。だから彼が本当に異人なのかもわからないし、わたしの単なる勘違いかもしれない。
けれど、多分間違ってはいないだろう。帰りたい場所が存在するなら、彼はとっくにこんな家を出て行ってしまっている。
彼はルカと名乗った。
わたしが彼について知るのは、名前と、『外国人』ということだけ。
スープをよそった皿を食卓に並べていると、またゆっくりとした足音が聞こえて、彼が戻ってきた。
わたしは椅子を一つ引いて、手招きする。昨夜夕食を食べたのと同じ席に彼は座った。
「スープ。パン。お皿。スプーン」
目の前に並んだものの名前を、一つ一つ指差しながら呟く。彼は何も言わず、虚ろな目でわたしの指を追った。それも、昨夜と同じ。
わたしの言葉を押し付けるのは間違っているだろうか。わたしが彼の言葉を学ぶ方が彼にとって優しいのではないだろうか。
そうは思っても、ここにいる以上、この国の言葉を少しでも理解できた方がいいに決まっている。
一通り終えてから、わたしは「どうぞ」と手を差し出した。
スプーンを持ったわたしを見て、彼はようやくのろのろと手を動かす。胸の前で手をあわせて何か呟くのは、きっと彼の国にある食前の儀式のようなものだ。昨日もそうしていたから。
もそもそとパンを頬張る彼を見つめた。貸してあげられる服はなかったので、昨日着ていた服をそのまま着てもらっている。寝癖を直したのか、黒髪は少し濡れているようだ。黒い瞳は朝食をぼんやりと見つめていたけれど、目元はやはり赤く腫れていた。
あの後も泣いたのだろうか。泣いたのだろう。見知らぬ部屋で、たった一人で。
彼は半分ほど食べて手を合わせた。……それも、昨日と同じだった。
「リリィ。あんた、店は?」
朝食を終えて隣の家を訪ねると、マルヴおばさんはぱちくりと円らな目を瞬いた。
今日は平日だ。これでも一応わたしも仕事がある。大通りの程近い場所で食堂を営んでいるのだ。昨日も平日だったけれど、わたしの店では定休日だった。でも今日は違う。普段ならもう店を開けている時間にこんなところにいるものだから、彼女も驚いたのだろう。
急遽休みにしてその旨を書いた紙を貼ってきたことを伝えると、おばさんはぎょっとしたものの何も言わなかった。わたしの隣に立つ彼を見て、何かしら察してくれたのかもしれない。
「それで? その子、昨日拾ったとか言ってた子だろ。何があったんだい?」
「森で寝ていたので拾いました」
「あんたねえ、とりあえずホイホイ拾うのやめなさいったら」
呆れたと言わんばかりの溜息を吐き、わたしとルカさんにお茶を出しくれた。旦那さんはもう仕事に出た後らしい。
マルヴおばさんには二人の息子さんがいて、既に二人とも家を出ている。彼女は娘がほしかったようで、幼い頃からわたしのことを実の娘のように可愛がってくれていた。少々世話焼きすぎるのが鬱陶し……いろいろ大変なのだけど、わたしも彼女のことはもう一人の母親のように感じていた。
向かいの席に座ったマルヴおばさんは、ルカさんを不思議そうに見ている。彼女も彼のような容姿の人は初めてなのだろう。
ルカさんはカップを見つめたまま手をつけない。
とりあえず、彼を紹介しなくてはならない。きっと怒られるだろうけど。
わたしは一つ呼吸を置いて、重たい口を無理矢理開いた。
「彼はルカさん。外国人です。言葉は通じません」
「へえ? どうして森なんかで寝てたんだい」
「わかりません。家に帰れないようなので、帰れるまでうちで預かろうと思います」
「はあ!?」
おばさんが盛大に眉をしかめた。突然大声を出したものだから、ルカさんがびくりと身を震わせる。
ああもう、驚かせないであげてください。可哀想。非難の眼差しを送ったけれど、ギンと睨み返されてしまった。
「リリィ、あんた自分が何を言ってるかわかってるの!? 女一人の家に男を一晩泊めただけでも充分危険なんだよ!? それを住ませるなんて!」
「危なくありません。ルカさんは危険じゃありません。おばさんは、何もわからないルカさんを一人放り出せって言うんですか? そっちの方が危険です。きっと死んじゃいます」
「そんなの誰か大人に預ければいいんだよ! 今すぐ騎士に頼んできなさい! いい? おばさんの言うことはだいたい正しいんだから、早く!」
「でもわたしが拾いました。拾った責任があります。それに、これ以上環境が変わるのはルカさんにとってよくないと思います」
彼は夕食も朝食も、半分も残した。口にあわなかったのかもしれないけれど、それだけではないだろう。
彼の事情は複雑だし、言葉も通じない。騎士に頼んだとしても、彼の扱いについて決定が下るのは随分と先になるに違いない。その間にストレスで死んでしまいそうだった。
わたしが預かったからといって、ストレスが完全になくなるわけじゃない。今も彼の心はギシギシと軋んでいるだろう。わたしだって、彼にとっては『見知らぬ外国人』なのだから。
それでも、今手放して悪い結果になったら、わたしは後悔するだろう。
あの時わたしがちゃんとしていれば。
あの時こうしていれば。
きっとこんなことにはならなかったのに。
そんな不毛なことを考えて苦しむのは、もうこりごりだ。
「もしルカさんの身に何かあった時は、騎士の人に頼みます。でも、それまでは譲りません。わたしがルカさんを守ります」
彼女の目を見て、はっきりと告げた。
おばさんは難しい顔をしている。わたしは目をそらさなかった。
そのうち、はあ、と大きな溜息が落ちた。マルヴおばさんが肩に入った力を抜き、ひらひらと手を振る。
「わかった、わかったよ。私はもう何も言わない。あんたの頑固さは私が一番わかってるからね」
「ありがとうございます」
「ただ、ちゃんと大人を頼りなさいよ。私にできることなら、なんでもやってあげるから」
ふふ、と笑みが零れた。そう言ってくれると思ってました。
そんなわたしに、おばさんは怪訝そうな顔を作る。
「じゃあ、ルカさんに服を貸してあげてくれませんか? うちにはわたしの服しかなくて」
「ああ、なんだ、そういうことね。いいよ。ちょっと待ってな」
マルヴおばさんは席を立つと、さっさと居間を出て行った。
隣を見ると、ルカさんはきょとんとおばさんが出て行った扉を見ている。もう怖がってはいないらしい。わたしは彼に笑いかけた。
「ルカさん、服ですよ。ふ、く」
自分の服の胸の辺りを少し摘んで、見せびらかすように軽く引っ張った。黒い瞳からは何を思っているのか推し量ることはできなかったけれど、とりあえず「これを『ふく』と言うのか」程度には通じたようだ。
少ししておばさんが戻ってきた。両手一杯に服を抱えている。予想以上の量だった。
「あの人のは大きすぎるから、馬鹿息子の貸してやるよ。残しておいてよかった。ちょっと着てみな」
マルヴおばさんがルカさんの腕を掴み、立ち上がらせる。ぎょっとした彼が思わずといった様子でわたしを見るけれど、わたしはできる限り優しく微笑むしかない。
マルヴおばさんは困惑する彼をそのままぐいぐいと廊下に連れ出し、扉を閉めた。……おばさんはこっち側じゃないんですか。
ドタバタと物音がして、おばさんが持ち前のお節介を発揮している声が聞こえる。何をしているのか容易に想像できた。通じるかわからないけど、後で謝っておこう。
扉が開いた。おばさんに背中を押されて、ルカさんが入ってくる。
居心地が悪そうな、あるいは拗ねたような表情の理由は考えないことにして、わたしは彼を上から下まで見る。
彼にあわせて買った服ではないけれど、案外似合っている。ルカさんはわりと整った顔立ちをしていると思うし、他の服も結構似合うのかもしれない。
「うん、サイズピッタリですね。さすがマルヴおばさん!」
「どこがピッタリだ。ひょろっひょろの体して。リリィのおいしいご飯食べてもっと太りなさい!」
「ッ!?」
バシッとマルヴおばさんがルカさんの背を叩く。彼は背を丸めて労わるようにさすった。あれの痛さは身にしみて知っている。おばさんは力加減を知らないのだ。後で絶対謝ろう。
「そ、そうだ、おばさん。まだルカさんに自己紹介してないですよ。名前教えてあげないと!」
「ああ、そうだったね」
なんとかルカさんを説教から救い出すことに成功した。言葉が通じないのに説教をされては堪ったものじゃない。
痛みが引いてきたらしいルカさんの顔を覗き込み、おばさんは右手を差し出した。
「私はマルヴィナ。マルヴおばさんでいいよ。よろしく、ルカ」
ルカさんはきょとんと目を丸くする。通じなかったのだろうか。
わたしは彼の傍に駆け寄った。そしておばさんの丸いふくよかな顔を指差す。
「マルヴィナ。マ、ル、ヴィ、ナ」
「…………マル、ヴィ、……ナ?」
「そうそう」
覚束ない子供のような声に、大きく頷いた。
「リリアン。ルカ。マルヴィナ」
わたし、ルカさん、おばさんを順に指差していけば、彼は理解してくれたようだった。マルヴおばさんはこれからもきっとたくさんお世話になるから、早めに覚えてもらった方がいい。
よしよしと褒めるように黒い頭を撫でると、おばさんが深く息を吐いた。
「……大変そうだね、こりゃ」
昼食は適当な料理店でとった。
メニューに料理の絵が載っている店を選んで入ったけれど、ルカさんは食べたいものが見つからなかったようなので適当にわたしが選んで食べさせた。彼はやはり食べきれずに残した。
午後はブラブラと街を歩いて、彼の生活必需品を買い揃えた。
一人暮らしの家には客人用のものすらない。一応色やデザインは彼の要望を尋ねてみたけれど、伝わらなかったのか、あるいは興味がないのか、緩く首を振るだけで結局わたしが全て選んだものを買った。
そうして夕刻になって、遊びまわる子供たちが増えたのを見計らって近くの学校へ赴いた。
この国では、十歳から地域ごとに建てられた王立学校に通うことを許可される。年齢ごとに三つの学舎に別れ、オクテリア学舎、カンタリア学舎、ノクタリア学舎と順に上がっていく。王立なので学費は格安で、自由を奨励する国柄ゆえに強制的に通わされることはないけれど、周辺諸国に比べわが国の就学率は高い。
わたしは校内地図を確認しながら、オクテリア学舎へ進む。説明の仕方がわからずルカさんには何も言えていないのだが、もし彼の故郷にも学校があるなら、子供が多く集まるこの雰囲気でなんとなく感じ取ってもらえるとありがたい。
突然訪ねたら驚くだろうな。そう思って内心苦笑を零した。
「……あ? おい、お前リリィか?」
そんな時、ふと名前を呼ばれて足を止めた。振り返ると、ボサボサの髪に顎ひげを蓄えた男の人が不思議そうにわたしを見ている。
よかった、見つかった。そう胸を撫で下ろしながら「こんにちは」と微笑むと、彼は細い瞳を丸めたまま「よう」と返してくれた。
「お前、こんなとこで何やってんだ。店は?」
「今日はお休みにしました。ところでサム先生、先生にお願いがあるんですけど」
サム先生は僅かに眉間に皺を寄せ、わたしの隣に立つ男の子を見る。
彼は十歳から十五歳までが通うオクテリア学舎で教師をしている。放置した癖毛は好き勝手跳ね、ひげもちゃんと剃らない面倒臭がり。目つきは少し悪い。それでも子供たちには好かれている。わたしの店の常連さんだ。
サム先生は溜息を吐き、無造作に頭をかいた。
「とりあえず、場所移動するか。ついてこい」
ルカさんに行きましょうと視線を送り、背を向けた彼を追いかける。つれてこられたのはどこかの空き教室だった。
まあ適当に座れと言われ、近くの席に座る。ルカさんもわたしの隣の席に座り、先生はさすがに小さすぎるのか、机に腰を預けた。
「面倒臭いことはごめんだ。さっさと用件を聞かせろ」
「一番簡単な国語の教科書を貸してください」
「は?」
サム先生はぐっと眉間に皺を刻んだ。それから両手を挙げて、降参のポーズをとる。
「悪かった。悪かったよ。面倒臭がらないから事情を聞かせろ」
最初からそう言ってくれればいいのに。
わたしはにっこり微笑んで、昨日の出来事を彼に伝えた。マルヴおばさんには言わなかった、彼の故郷が存在しないらしいことまで全て。わたしが知る限り、サム先生が一番頭がよくて一番物知りだから。
聞き終えたサム先生は腕を組み、難しい顔を作る。
「ううん、一応わかったが、にわかには信じがたい事情だな。今までそんな事例は聞いたことがない。……事例じゃなければ、あるにはあるが」
「え、あるんですか?」
「小説だよ。なんらかのきっかけで、ある世界に違う世界の人間が飛び込むんだ。まさにそのルカとやらの身に起きていることそのものだ。もし全部本当ならだけどな」
「本当ですよ」
はっきりと告げたわたしに、サム先生の目が丸くなった。わたしはそれ以上何も言わず、彼の目を見つめる。
外からは子供たちの賑やかな声が聞こえた。しんと静まり返る教室に、小さく溜息が落ちる。
「わかったよ。リリィが言うなら信じよう。お前にはいつもうまい飯食わしてもらってるし」
「ありがとうございます、サム先生」
「それで、国語の教科書だったか? そいつに一から言葉を教えるのか」
わたしは頷いた。
ルカさんの生活はわたしが精一杯支える。お金も、食事も、住む場所も。
だけど、言葉がなくては誰ともコミュニケーションが取れない。いや、少しなら取れるけれど、彼は信用できる人ができないまま、孤独に生きることになるだろう。そんな不幸をこれ以上彼に味わわせたくない。
「先生は忙しいから、教材を貸してくれるだけでいいんです。貸し出しできないようなら、何かいい本を教えてくれるだけで。本屋で買いますから」
「まあ、普通に考えて部外者に教材を貸すってのはできねえな」
先生はガシガシと頭をかいた。やっぱりと思いつつも、落胆してしまう。
じゃあオススメを、そう口を開こうとして、彼の細い瞳と視線がぶつかった。
「だが、今年ちょうど新しい教材が全学年に渡って、今までのは不用になった。俺はいらねえもんを置いとくほど面倒臭がりじゃねえ。……さっさと捨てたもんを誰が拾おうと、俺には関係ねえよなあ?」
ニヤリ、サム先生が不敵に笑う。悪人が悪巧みをするような笑み。
けれど、わたしにはとても優しい先生に見えた。つい笑みを浮かべてしまう。
「はい。ありがとうございます」
「は? 何礼なんか言ってんだ。俺はなんもしてねえだろ」
「そうですね。なんだかお礼が言いたくなったんです」
「変な奴」
サム先生は欠伸をしながら立ち上がり、うんと背伸びをした。ゴキ、と首が鳴る。
「じゃあ俺はとっとと机の上を整理するとしますかね。この近くのゴミ捨て場はどこだったかな」
「わたしの店の近くにありますよ」
「お、いいねえ。じゃあそこに捨てるか」
くつくつと喉で笑いながら、サム先生は先に教室を出た。面倒臭がりだけど結局面倒見のいい人だから、子供にも人気なんだろう。
ルカさんを見ると、じっとわたしを見ていた。何を考えているのかわからない、黒い瞳で。
わたしは少し悩んでから、パラパラと本をめくるジェスチャーをしてみる。反応はない。うむ、無念。
「でも、大丈夫。ルカさんはわたしが守ってあげるからね」
綺麗な黒髪を撫で、骨ばった手を引いた。彼は抵抗もせず、何も言わず、立ち上がる。
大丈夫。まだ言葉は通じなくても、いくらでも思いを伝える方法はあるんだから。
大丈夫。今は不安だらけでも、いつか笑える日は絶対来るんだから。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
……大丈夫、だよね?