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01 拾う。

 ぱちくり。わたしは大きく瞬きをした。

 今日はとても天気がよくて、森の中に入っても白い木漏れ日がよく道を照らしてくれた。

 唯一持ってきた籠の中は、摘んだ山菜や木の実でいっぱいだ。今はただの葉っぱだけど、調理すればおいしいご飯になるし、乾燥させて雑貨のアクセントにしても可愛い。休日ぐらい休みなさいとお隣さんには常々言われるけれど、これは趣味のようなものなので問題はない。

 日が少し傾いてきて、もう少しだけ摘んだら帰ろうと思っていた。この先に綺麗な花がたくさん咲いている場所を知っていたから、そこの花をいくつか摘もうと。

 すると、そこには先客がいた。

 先客は淡い色の花々の中寝ていた。短く整えられた黒髪の、男の子。

 一瞬、死んでいるのかと思った。けれど薄い胸が微かに上下しているのが見えて、ほっと息を吐く。

 わたしはそっと男の子に歩み寄り、傍にしゃがみ込んだ。

 顔を覗き込んでみたけれど、知り合いではない。むしろ全く見たことのない人だ。彼個人と言うよりは、わたしは彼のような容姿の人を見たことがない。

 まず、その身に纏う服が不思議だった。

 上着は半袖の白いシャツ一枚のようで、前には縦一列に同じく白いボタンが並んでいる。一番上のボタンは開けられていて、浮き出た鎖骨が僅かに覗く。

 襟の下からは藍色を帯びた黒の細長い布が伸び、やはり見たことのない結び方をされていた。

 胸にはポケットがあって、紋章らしきものが描かれている。特に動物や剣といった道具類が描かれているわけでもないし、何の紋章かはよくわからない。

 黒いズボンは彼の足をすっぽり覆っていて、こちらは探せば売っていそうな普通のもの。

 けれど靴が黒い革製のようなのに、見たことのないデザインをしている。不思議だ。手作りだとでも言うのだろうか。

 改めて顔を見てみる。

 肌の色が少し違う。日焼けしている風でもないのに、わたしたちのように白くない。黄色と白を混ぜて作ったクリーム色をしている。見てすぐにわかるというほどの違いではないけれど、ちゃんと見るとやっぱり違う。こんな色の肌の人は見たことがない。

 顔立ちは彫りが浅く、異国情緒たっぷりだ。見たところ十五歳くらいだろうと思う。

 わたしたちに比べなだらかな顔立ちは、この国よりずっと西に住んでいると言う少数民族の特徴と似ていた。

 だけど彼らはパンのような褐色の肌をしているはずで、目の前の男の子とは少し違う。

 それに、彼らは赤毛。けれど、彼は黒髪だ。

「……きれい」

 木漏れ日を受けてきらきら光る黒い髪は、ゆるい風が吹くと軽く揺れた。伏せられた長い睫毛まで黒い。生まれつきの色なのだろう。

 彼のどれもが見たことのないものだったけれど、わたしはこんなに綺麗な黒髪を知らない。

 黒髪の人なら何度か見た。だけどわたしの知る黒髪はもう少し茶味を帯びていて、こげ茶色を暗くしたような色だ。

 けれど、彼は黒。真っ黒だ。まるで夜空のような、美しい闇色。

 つい、と言うか、無意識に手が彼の髪に伸びた。

 その時、ぱっと彼が目を開けた。

「あっ」

 びっくりした。

 突然彼が起きたこともそうだけれど、それよりも、瞳まで黒いことに驚いた。髪と同じ、綺麗な黒だ。

 黒い瞳と視線が交わる。

 焦点がわたしにあうと、一瞬の後、彼は飛び起きた。

「ひゃっ!?」

 頭突きでもされそうな勢いに、思わず尻餅をついてしまった。

 彼を見ると、困惑しきった瞳でわたしを見つめ、地面に手をついて少しだけ後ろに下がる。それから何か思い出したのか、ハッと慌てた様子で自分の体をぺたぺた触り始めた。まるで何かを確認しているようだ。腑に落ちないのか、口をきゅっと結んで眉を寄せている。

「……ねえ」

 ほんの少しの勇気を振り絞って声をかけた。びく、と彼の肩が少し跳ねた。

 ゆっくりと、黒い瞳がわたしに向けられる。戸惑いを隠しきれないその瞳は、やっぱり綺麗だった。

「あなたはどうしてここにいるの? そろそろここを離れないと、森を出る前に日が暮れちゃいますよ」

 彼が異国の人なのは見て明らかだけど、見覚えが少しもないのだからこの近所に住んでいるという訳でもないだろう。決して小さな街ではないけれど、人がたくさん行き来するような大きな街でもない。彼のような人は目立つだろうから、一度見ればきっと忘れない。

 そう思っての言葉だったのだが、彼は僅かに眉を寄せてわたしをまじまじと見るだけだった。

 言葉が通じないのだと、すぐにわかった。

 どうしたものか。わたしは外国語なんて話せない。仮に話せたとしても、彼の民族の言葉は話せないだろう。存在すら知らなかったのだから。

 とりあえずわたしは彼の瞳をじっと見据えて、自分の顔を指差した。

「わたし、リリアン。リリアン・レイです。リ、リ、ア、ン」

 ゆっくりと、区切りながら名乗る。どんな状況下であっても、初対面なのだから何事も自己紹介から始まるはずだ。

 彼は何も言わなかったけれど、なんとなくわかってくれたかと勝手に結論を出し、今度は彼を指差した。

「あなたは?」

 こてん、とわかりやすく首を傾げてみせる。

 これが疑問の類を示すジェスチャーだと伝わっていなかったらどうしよう。彼の故郷とは文化が違うに違いない。そもそも指を差すという身振りからして伝わっていないかもしれない。ジェスチャーまで違ってしまったら、わたしはいよいよ彼との意思疎通の術を失ってしまう。

 彼は黙ったままわたしを見つめるだけ。まずい。非常にまずい。

「リ、リ、ア、ン。あなたは?」

 駄目元でもう一度挑戦してみた。わたしを指差し、彼を指差し、首を傾げる。彼は瞬きをしただけだった。

 やっぱり駄目か。肩を落としそうになるのを堪えて指を引っ込めると、彼が薄く唇を開いた。

「…………クサナギ、ルカ」

「え?」

 ぼそりとした呟きに、つい聞き返してしまった。

 思っていたより声が低い。変声期を終えた後なのだろうか。

 彼の仕種一つも見逃すまいと彼を見つめる。彼はまだ困惑を残した顔をしていて、ふいっとわたしから目をそらした。

「……クサナギルカ」

「クサ……、ギ……?」

 耳に慣れない音の集まり。それはきっと彼の名前だ。だけどうまく聞き取れない。発音の仕方からして違うらしい。外国人の名前はこんなにも難しいのか。

 様子を窺うように再び向けられた黒い瞳を見つめ、もう一度言ってくださいお願いしますと目で訴える。今こそ言葉の壁を超える時だ。首を傾げるのが伝わったのなら、これもなんとか伝わるだろう。

 彼は怒りも呆れもせず、やはりただ困った顔をして、わたしと向かい合った。それから、わたしがしていたように自分を指差す。

「ルカ。ル、カ」

「ル、カ……?」

 先程よりも随分と短くなった。何かしらを省いてくれたらしい。それでも自信が持てず、尋ねるような呟きになってしまった。

 不安で彼の反応を待っていると、彼は一度こくんと頷いた。

「ル、カ。ルカ。ルカ」

 確かめるように呟く。訂正が入らないのなら、これで間違いないのだろう。

 わたしは顔を上げ、彼に手を差し出した。

「ルカさん。おいで」

 とにかく森を出なければ。暗くなっては少々危険だ。灯りなんてないし、月明かりだけでは心許ない。

 まっすぐに黒い瞳を見つめる。

 伝わるだろうか。伝わるだろう。

 今のところ、ジェスチャーに関しては、彼の文化とあまり変わりないようだ。あとは、彼がわたしを信用してくれるかどうか。

 ルカさんはわたしの手のひらを見て、わたしの顔を見る。それから、恐る恐るといった様子で手を重ねてくれた。骨っぽい、男の子の手だ。

 だけど、彼は決して警戒を解いたわけではない。それは彼の瞳を見ればよくわかった。

 これ以上警戒させてしまわないように、わたしはにっこり笑う。

「行こう。ルカさん」

 先に立ち上がり、手を引いた。彼は一瞬躊躇っただけで、思いの外すんなり立ち上がってくれる。

 意外と背が高かった。そうは言ってもわたしより少し高い程度だけれど、細身だからわたしよりは低いだろうと思っていた。

 右手に彼の手、左手に籠を持ち、元来た道を戻る。彼は黙ってついてきた。

 誰かと手を繋いで歩くなんて久しぶりで、なんだかわくわくしてしまう。十七にもなって子供っぽい。でもきっと、今日が終わればまたしばらくないだろうから、どうせなら楽しんでしまおう。

 ちらりと彼を盗み見ると、彼は少し上を見上げて周囲を見回していた。黒髪が動きにあわせて微かに揺れる。さらさらしてるんだろうな。そう思うとまた触りたくなってしまった。

 ふるふると頭を振って変な考えを外へ追いやる。不思議そうな視線が降ってくるのがわかったけれど、気づかなかったふりをしよう。

 鳥のさえずりが聞こえる。木の葉も、早く帰りなさいと優しく囁いている。

 わたしたちは終始無言だった。

 言葉が通じないから仕方ない。そう割り切って、少しだけ足を速めた。



 森を出て少し歩けば、すぐに石が敷かれた道に入った。もう空はおいしそうな橙色に染まっている。

 家へ帰る子供たちとぶつかりそうになりながら、見慣れた街並みを突き進む。

 彼はやはりきょろきょろと周囲を見回していた。僅かに手を握る力が強まったのは気のせいではないだろう。

 様子を窺ってみると、少し顔色が悪くなったかもしれない。目覚めた時のような強い困惑の色が戻ってきていた。

 それがどうしてかなんてわたしにはわからなかったけれど、ただ見知らぬ街にいるという不安だけでは足りない何かが彼にはあった。もしかすると、彼は普通の迷子ではないのかもしれない。

 その可能性に至った時、わたしの足は少し駆け足になっていた。

 急に引っ張られて彼が驚いたのだろう、短い声が聞こえた。けれど彼はしっかりついてくる。……それは多分、初対面のわたしの他にこの場で頼るべきものがないから。

 家が見えた。隣の家では、植木鉢に水をやっているマルヴおばさんがいた。

 おばさんはわたしに気がつくと、水やりの手を止める。急いでいるのに、面倒な人に見つかった。

「リリィ、あんたまた森に行ってたんだろ! 休日くらいもっと遊びなさい!」

「充分遊んでます。わたしにとってはこれが遊びなんです」

 予想通り真っ先に飛んできたお決まりの台詞に、わたしもいつも通りの答えを返した。

 おばさんは親切で優しくて大好きなのだけど、少々世話焼きすぎる。わたしを実の娘のように大切にしてくれるのは嬉しい。けれど、やっぱり大きなお世話です。

「いい? リリィ。女は仕事と恋愛を両立して一人前なのよ! ……って、その子はどうしたんだい」

「拾いました」

「なんだって!?」

 おばさんが円らな目を見開く。

 質問攻撃が来る前に、わたしはそそくさと家に入った。パタン、と閉じた扉の向こうからはマルヴおばさんの声がする。

 ふと隣を見ると、彼は不安を滲ませた表情で立ち尽くしていた。見知らぬ家に連れ込まれればそれもそうだろう。

「ここ、わたしの家」

 床と自分を順に指差してそう言ってみたけれど、手応えはいまいちだ。まあ仕方ない。わたしは彼の手を引いて居間へ向かった。

 四つ椅子が並んだ机の前で足を止め、手を離す。さっさと灯りをつけ、彼の肩を優しく叩いた。

「ここで待っていてください」

 困惑顔の彼を残し、わたしは駆け足で階段を上がった。二階の突き当たりにある扉を開け、本棚に駆け寄る。勝手に両親の部屋を物色するのは忍びないけれど、非常事態なので許してくれるだろう。多分ここにあったと思うのだ。

 これじゃない。違う。これも違う。違う、違う。違う。……あった。

 背表紙を一つ一つ確認し、目当てのものを見つけるとすぐにそれを抱えて居間に戻った。彼は、出た時から少しも動かずそこにいた。

 彼の視線を受けながら、机の上で本を広げる。見開きのページ一杯にどこかの地図が描かれていた。

 わたしはパラパラとページをめくり、この街の周辺地域のページに辿り着くと、彼の注意を引きつけるようにトントンと紙面を叩いた。

「ここ、は、ここ」

 床を指して、地図上の『フルリア』の文字を叩く。

「……ルカさんは、どこ?」

 彼を見上げ、わたしは目を見開いた。彼の顔色が、あまりにも悪かったから。

 今にも倒れてしまいそうなほど青褪めた彼は本をひったくるようにして抱え、慌てた様子でページをめくり始めた。パラパラパラパラ。ちゃんと見ているのか怪しい速さで次々にページがめくられていく。

 旅行好きの両親が買った、世界中の地図が載っている本だ。それなりに分厚い。

 その本の最初から最後のページに行き着くまで、彼の手が止まることはなかった。

 彼は本を机に放り出し、口元を片手で覆う。その手は震えていた。

「……ルカ、さん?」

 言い知れぬ恐怖がぬるりと這い上がってきた。わたしの声まで震える。

 彼は机の上の本を見つめたまま、首を横に振った。力なく、けれど確かに、何度も振った。

 絶句した。

 だってこの本は世界中の地図が載っている。古いから、新しい街は載っていないかもしれない。

 だけど、彼の様子を見る限り、彼が知っている地域がない。彼が住む街、地方、国、そのものがここに載っていない。この世界に存在しない。

 そんなことがありえるのだろうか?

 だけど、どんなに小さくても国一つを漏らすなんてことは考えにくい。彼の様子も演技には見えない。

 両方を信じるなら、その可能性すら信じなくてはならない。

 彼は何も言わない。ただ震えた手で何かを堪えるように口元を押さえていた。本からそらされない黒い瞳はもはや困惑さえ映さず、恐怖に染まっている。

 信じるしかないと、思った。

 迷子だとか、そんな軽い話じゃない。

 彼は帰れないのだ。彼の故郷は、ここに存在しない。彼が帰るべき場所は、帰りたいはずの場所は、この世界のどこにもない。

「ルカさん」

 震える唇を開いて名前を呼ぶ。ふらふらと彼の視線が向けられた。

 彼の瞳を見た時、勝手に体が動いた。

 突然抱きしめたわたしに、ルカさんは体を強張らせた。悲鳴も文句も何も言わない。抵抗すらしない。……きっと、できないのだろう。

 わたしはできるだけ優しく彼を抱きしめ、広い背中を撫でた。びく、と僅かに彼の体が震える。

 何も言わない彼の心情を理解することはできない。

 言葉が通じない彼に慰めの言葉を吐くこともできない。

 初対面で、意思疎通もままならないわたしなんかじゃ、彼も安心などできないだろう。

 それでも、彼が絶望していることはわかる。触れ合うことはできる。彼に同情を寄せることだってできた。

 彼の瞳は、今にも壊れてしまいそうな危うさを孕んでいた。

 子供の頃両親にしてもらったように、優しく優しく背中を撫でる。彼からは嗅いだことのない匂いがした。

「ルカさん。……ルカ。ルカ」

 わたしが唯一知る、彼の故郷のもの。何を思ったのか自分でもよくわからないけれど、そう考えると自然と彼の名前を口にしていた。

 恐々と、彼の手がわたしの背に回った。彼の胸に押さえつけるようにぐっと力を加えられる。噛み殺しきれない嗚咽が聞こえ、わたしは口を噤んだ。

 彼が僅かに背中を丸め、わたしの肩に顔を埋める。服が湿っていくのがわかった。

 唇の隙間から漏れる嗚咽が、きりきりとわたしの胸を締め付ける。

 これが夢であればいい。

 彼はただのわたしの夢の登場人物で、目が覚めた時に消えてしまえばいい。そうすれば、彼は故郷を失わずにすむのに。

「……ルカさん。ごめんなさい、ルカさん」

 窓の外は薄暗くなっていた。

 わたしはただ、震える背中を擦ってあげるしかできなかった。

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