五、「人間ではない何か」
|九|
彼女は今でも自分を見ている。と、眼の前の青年は真剣な表情で言った。
まっとうな人間なら、それを額面通りに受け取ることはないだろう。彼はきっと疲れているか精神的に病んでいて、ありもしないストーカーを妄想して怯えているのだ、とかなんとか考えたかもしれない。または自分にかけられた殺人の罪を誰かに被せることで安心しようとしているのだ、とも言えるだろう。
しかし木崎がそういう発想に落ち着かないのは、まず彼自身が特殊な人間だと自覚しているからだった。
五年ほど前、木崎は不思議な事件に遭遇した。捜査二課のとある刑事と知り合ったのもそのときだ。ある湖の周辺で、関連のない人びとが何人も行方不明になっていく、という事件。結局それは最後には計画的な連続殺人の様相をみせ、ついには真犯人を突き止めたが、犯行を立証することはできなかった。
なぜか? 犯行は、ある特殊な力を用いて行われたものだったからだ。水を媒介にして人の持つ「軸」を整えたり歪めたりできる、とても不思議な力『水鏡』。
そしてそのとき、木崎は偶然にもその力が自分にもあることを発見した。それは『月鳴り』といって、当時木崎を導いてくれた少女が今では彼の妻である。
妻は水鏡を代々継承する家系で、現在入院中。ひとりで苦痛に耐えていることだろう。先ほどの電話によれば運命の瞬間はさらに差し迫っているというのに、木崎はまだここを離れることができないでいる。
それはともかくとして、木崎にはだから、この世の中の奇妙な現象について否定することはできなかった。自分の力を肯定せざるをえないからだ。
魚の妖怪と聞いて、木崎は海中を蠢く怪しい存在を想像した。その正体はわからないが、性別は女性。暗い海の底からカズトをじっと見つめていて、彼が本に接触しようとすると、水底から這い上がってそれを妨害する。
はっとした。
今、カズトが背を向けている壁の、小さな窓に、水かきのついた手が見えた気がする。
考えすぎかもしれない。カズトは気づいていないようすで、黒猫をごろごろやっている。考えすぎかもしれないが、……でもどうして、そちらの壁だけじっとりと結露しているのだろう。今は乾燥しがちな秋だというのに……。
「木崎くん、どうかしたの」
「え、……あ、いやー、なんでもないですよ」
七枝に尋ねられてわかりやすく動揺してしまう。咄嗟に誤魔化すものの、もし思い違いでなかったら、自分と七枝はこの建物を出た瞬間に「彼女」に襲われるのかもしれないわけだ。ぞっとする。
それにしても彼女は一体何者で、どうしてカズトの邪魔をするのだろう。
「あの」
ここはいちかばちか、だ。
「俺からもとんでもない話をしてもいいですかね」
「え、なんで? 何?」
木崎は細かいことには答えずに、この管理小屋の給湯室へ向かった。できるだけ面積の広いトレーを探し、そこに水を張る。小さな湖のできあがりだ。
それを零さないように事務所へ持っていくと、カズトと七枝が不思議そうな顔で待っている。
「説明は省きます。見て理解してくださいね」
言って、「水鏡を開いた」。
これは言葉で説明するのは難しい。水に触れた瞬間から木崎の身体はこの水と一体になって、その中で己の持っている鏡を開く、という感じだ。少なくとも妻からはそう教わったし、実際その通りにやったら確かに何かが開いた感じがする。
問題は、木崎には肝心の鏡が見られないことだった。通常なら力を持っていなくても開いた鏡を見ることは可能なのだが、どうしたことか木崎には、開く力はあっても見る力がないのだ。長く訓練を積めばいずれは開眼するらしいのだが、なにぶん本業は警察官なので、修行している暇もない。
ただ、どうやら七枝とカズトには水鏡が見えているようだった。ふたりともトレーの水面を見て絶句していた。
木崎は手探りで目的のものを探す。
まず近くにいる人間。力強い鼓動を放っているのは七枝の軸だろうか。柔らかくしなやかなのはカズト。それから小さく機敏なの……は黒猫か?
そして少し範囲を拡げると、そこに、冷たく震えるものがあった。触れているだけで指先がびりびりと痺れ、痛くなる。
「なに、これ……」
「にゃーん」
猫までも興味深そうに水鏡を見ている。
カズトは声こそ上げなかったが、それでもじっとトレーを見ていた。いや、トレーの中で木崎が触れている、何者かの軸を見つめている。
「やっぱり建物の外に誰かいますね。それも、人間じゃなさそうな誰かが」
木崎はそっと手を離し、それから鏡を閉じようとした。
が、その手は止まる。高任の言葉を思い出した。早まるなよ、と事情をよく知っている上司は言っていた。いくら妻の容体が気になるからといって、人前でむやみに水鏡を開くなよ、と。
もう人前で開いてしまった以上、遠慮することはないのではないか?
そんな考えが脳裏をよぎる。今ここで妻のようすを確認できるだけで木崎は安心できるのだ。軸を少しだけ整えてやれば、それだけ妻は安全になるのだ。
木崎はもう一度手を伸ばそうとした。病院にはたくさんの気配があるからすぐわかる。その中から妻を探せばいいだけの話だ。だが、でも、しかし。
……やめよう。凶悪な妖怪を触った手で触るのは、よくない気がする。
「なんなの、あんた」
七枝が身構えながら聞いてきた。両手に黒猫を抱えて盾にしている。しかしまだ子猫の時代をすぎたばかりの小さい猫では防御力皆無である。
「にゃあ」
まさかのねこぱんち。幸い腕が短くて木崎には届かなかった。
「俺もよくわからないんだけど、そういう能力を持ってるみたいなんですよね」
「意味がわからないんだけど」
「五十嵐さんだって猫と会話できるじゃないですか。あれも充分超能力ですよ?」
「え、……そうかな、うちの兄もできるけど」
水鏡が家系に受け継がれていくものなら、猫との会話もそうなのかもしれない。そして、この世界には思っているよりもたくさんの不思議が、そこらじゅうに転がっているのかもしれない。それは少し楽しい想像だ。
ただ、それらが毎度のように凶悪事件を引き起こしてくれるのは、警察の人間としては困る。そういう類のものは立証も検挙もできない。
ところでカズトはまだトレーを見ていた。でも、もう鏡は閉じてしまおう。変な未練を断ち切るためにも。
|十|
管理小屋の外に人ならざる者がいることが、木崎によって確認された。そこまではいい。問題はそれによって七枝も木崎もここから出られなくなってしまった、ということだ。
いや。まだカズトと本を引き合わせたりはしていないし、何も襲われる理由はない。だが逆に絶対に襲われないという確証もない。
可能性を論ずる暇はない、と焦る木崎に、七枝はどうにかここを脱出する方法はないかと考えていた。
相手は人ではない。木崎や七枝はいち警察官としてある程度の武道は嗜んでいるが、果たして有効だろうか。しかし人外とはいえ女性なのだし、もしかしたらそこまで力は強くないのかも……いや、自然界では狩りをするのは雌だというし、よくよく考えたら相手は大の男を絞め殺すくらいはできるわけだ。
ところがふたりが悩んでいるのをそっちのけで、須藤が久しぶりに顔を覗かせた。
「高任警部にようすを見てこいと言われまして」
何も知らない須藤は、はい、とまた調べてきた資料を手渡ししてくれた。今度は古田今坂の出版した唯一の著作についてだ。所属していた大学のデータベースに書名だけ見つかったという。
その名も『古代日本の民と呪術』。
呪いの本にふさわしいおどろおどろしさだ。
「取り調べはこれで終わろうと思います。とりあえず調書をとって、高任警部にだけ説明しましょう」
「え、あの頑固そうな親父さんに?」
「警部はあれでこういうことには慣れてるんですよ。なにせ俺の結婚式で仲人やってくれたくらいですからね」
冗談めかして木崎は言った。実際、湖の事件とその原因になった事件とで、高任は水鏡に触れている。
調書は大まかな流れではカズトの証言どおりにまとめたが、もちろん本のことや妖怪の「彼女」のことについては触れていない。カズトのことはできるだけ偶然巻き込まれてしまっただけの青年であるかのように記述しておいた。
これでまた、迷宮入りの事件が増えるのか。湖の事件のときは辛うじて犯人が人間であったのと、いろいろあったので余罪が発生して、なんとか殺人未遂罪という形にまでこぎつけた。主に高任が。
だが、今回ばかりはそうもいかない。
「こんなものかな」
木崎は必要な書類をまとめ、手持ちのファイルに突っ込んだ。これで終わりだ。一旦現場に戻って高任に会わなくてはならないが。
恐る恐る管理小屋を出てみたふたりだが、とくに襲ってきそうな気配はなかった。後から須藤とカズトがのんびり出てくる。大丈夫そうだと感じたのか、七枝は大きく伸びをして歩き出した。やっぱり強い人だなと木崎は少し彼女を尊敬した。
最後にカズトに住所と連絡先を聞いて、今日はこれで別れることにした。とはいえ、これから何度会うことになるだろうか。
別れ際、カズトは七枝と木崎にだけ聞こえるように、何か言おうとした。
「あの、刑事さんたち」
須藤は先のほうを歩いている。カズトのほうでもそれをしっかり確認してから、もう一度口を開く。
「最後にもうひとつ、話してないことがあるんだけど」
カズトはうつ向いてまだ少し悩んでいるようだったが、やがて決意を固めたように顔を上げると、こう言った。
「じつは、たぶん僕も人間じゃないんですよ」
木崎と七枝は顔を見合わせた。
そしてもう一度青年のほうを見ると、そこにはもう誰もいなかった。
ただ潮風に吹かれて朽ちていく過程にある、オフシーズンの静かな別荘たちが、まるで棺桶のようにずらりと並んでいるだけだ。実際そのひとつには死体が入っていたわけだが。
地面は海岸に近いせいか雰囲気づくりのためか、砂が多くなっている。そこに残っているはずの足跡は、確かに彼のスニーカーのものだったが、途中から何かをひきずったようなぼやけたものに変わっているのだった。そうまるで、魚が尾を引きずっていったような跡に。
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