四、「呪われた本」
|七|
僕のおじさんは、大学の教授でした。よく知らないけど人類学をやっていたそうです。
……ああ。おとうさん、っていうのはさすがに呼び辛かったので、そう呼んでるんです。命の恩人に失礼かもしれませんけど。でも、おじさんはそれでいいと言ってくれたから。
僕が探していた本は、おじさんの著書です。
出回っている数がすごく少ないんです。ちょっとしか刷らずに絶版になったから。それで、もう何軒も古本屋を回ってその本を探していました。
そしたらあの桂木……いや、柏木さんに会って、その本なら持っていると言われたんです。
僕は彼があの事故のドライバーだとは気づきませんでした。でも、僕はおじさんの話もしたので、彼のほうではわかっていたんじゃないかな。自分が轢いた子どもが誰に引き取られたのか、くらいは知ってただろうし。
とにかく、僕は別荘までついていった。
彼はほんとうに本を持っていました。表紙しか見ていないけど、間違いないです。あれはおじさんの本でした。手書きの署名があったから、絶対に本物です。
どうやって手に入れたのかはわかりませんが。
そうしたら彼は言いました。この本をきみに売ってもいいと思っている。だがあまり安くはできない、と。
僕は断りました。その本が欲しかったわけじゃないからです。僕が望むのは彼が一刻も早くその本を手放してくれることだけでしたから。
彼は僕の要請に応じませんでした。遺された道は彼から本を買い取るしかなかったけれど、僕は無職で、彼の要求するようなお金はとてもじゃないけど払えません。
それで諦めて帰ったら、朝になってあの電話がきたんです。ああ、とうとうだめだったか、そう思って、とにかく本を回収するためにここに戻りました。またあの本が人手に渡らないようにしなくちゃいけないんです。
でも、別荘についてから気づきました。事件の遺留品として警察に引き取ってもらったほうが安全かもしれないし、部屋の中は砂だらけで、下手に入ったらいろんな跡が残ってしまう。そうしたらまた僕が疑われるだろう。
だから、本がどうなったのかは僕にもわからない。
あの本は呪われている。あの本を持っていると必ず殺されます。それも喉を絞められて。
……おじさんがそうだったように、ね。
|八|
カズトの言葉に七枝はぞっとしながらもうひとつの資料を見た。彼を引き取り育てた大学教授、古田今坂は、三年前に自宅で絞殺されている。容疑者としてカズトの名前も挙がっているが、本人は否認。証拠不十分で釈放されている。
最後の資料は、古田今坂と柏木のそれぞれの司法解剖の結果だった。一致している点が異常に多いことがぱっと見ただけでわかる。同一犯ではないかとの鑑識のコメントも尤もだ。
普通に考えれば、やはり一番怪しいのはカズトだ。
ただ。なんだかとても、嫌な感じがする。言葉にならないが、ぞわぞわと背筋を這い登ってくる、何か悪意のような冷たさが。
七枝は自分でも気づかないうちにくろを抱きしめていた。ぬくぬくと暖かい生物を抱き込んでいると少し落ち着いていられる。
なにこれ、ファンタジー小説でもあるまいし、本が呪われているなんてそんな、ありえない。
「にゃー……」(おさかな……)
くろが何やら腕の中でぶつぶつ言っている。お腹でも減っているのだろうか、しかしここには食べ物はない。
そうだ、普通に考えるなら、そんな非現実的なことがあるわけがない。カズトが罪を逃れるためにでっち上げたと考えるべきだ。それにしてはあやふやな話だが。
ちらと木崎を覗うと、彼もまた深く考え込んでいるようだった。少し意外だ。早く帰りたがっている若い男の刑事とくれば、馬鹿げていると一蹴するのがオチだろうと思っていた。が、そうでもなさそうだ。
するとそこで再び、木崎の携帯が鳴った。木崎はすみませんと一言残し、いそいそと部屋を出ていく。
七枝はひとまず須藤にいくつかの調べものを託した。これで残ったのは七枝とカズトのふたりだけだ。しいていえばもう一匹いるが。
カズトは頭を掻いている。
「やっぱり信じてくれないんだ、刑事さん」
拗ねたような口調で詰る青年は、見た目よりも少し幼く見えた。それにしても、この歳で二度も殺人の容疑をかけられるなんて、なんとも数奇な人生である。
それに彼の正体は誰にもわからない。それとも、彼自身は記憶を取り戻しているのだろうか? 自分がほんとうはどこの誰で、家族や親戚、友人がいるのかどうか。事故からもう十年以上が経っているなら、少しくらい思い出していてもよさそうなものだ。
「信じるも何も……」
「僕が犯人だと思ってるんだろ」
「そりゃそうでしょ、この状況だもの。それとも、あなたが真犯人の正体を知ってるっていうんなら、幾らでも調べてあげるけど」
もちろん呪いとか幽霊とかは却下だ。そういうのは警察じゃなく祈祷師とか神社仏閣にでも相談すればいい。
「……僕に関係することがらだ、ということはわかるよ」
カズトはおもむろに口を開き、そして窓の近くへ歩いていった。ここからは海岸が見えないが、代わりに貸し別荘がずらりと並んで見える。そのうちのひとつが現場だ。
そこへ木崎が戻ってきた。少し顔色が悪くなったように見える。カズトは木崎を一瞥すると、どうする、という表情で七枝を返り見る。七枝もまた視線で応える。
──話しなさい。
「僕が古田カズトになる前のことをね。
覚えていないんじゃないんだ、最初から記憶なんてなかったんだって、少なくとも今はそう思ってるんです」
話し始めたカズトの声音は、これまでよりも静かで落ち着いている。目線も穏やかに七枝……いやくろに注がれているようだ。
木崎が状況を飲み込めずにこちらへ視線を送ってきたので、とりあえず黙って聞け、と返した。
「おじさんは、学者でした。人類学っていったかな……僕にも何度か話してくれたんだけど、日本人の祖先について研究していると言ってた。
でも、おじさんのしている研究はメジャーなところから外れていたんでしょうね、きっと。学者としては不遇な人生だったように思います。自費出版で一冊だけ出したきり、二度と本は書かなかったから」
たった一冊しかない著書は、カズトにも読ませることがなかったという。だからカズトはそもそも本の表紙と装丁くらいしかし知らなかった。古田今坂の手書きの署名が唯一の目印になったという。
今坂が殺される前日、カズトは彼に著書を読ませてほしいと頼んだという。とくに深い意味があってのことではなかった。ただなんとなく、自分の親代わりの人間が書いたものを読んでみたかっただけ。
ところが今坂はそれを強く拒絶し、その翌日には冷たくなっていた。首には何かで絞めつけられた跡があり、死因は窒息死だった。
カズトはそのあとしばらく警察の取り調べや葬式などに追われ、今坂の研究室を調べることができずにいた。だからすぐに気づくことができなかったのだ。今坂の著書がなくなっていることに。
青年は唐突に理解した。
誰かが自分に、あの本を読ませまいとしている……。
そう考えると、逆に何が何でも読んでみたいという気になってしまう。そこでカズトは学校も辞め、バイトなどで小金を稼ぎながら放浪し、あちこちの古書店を覗いて回った。が、結局どこへ行っても本は見つからなかった。
そして先日、数か月ぶりにこのS県へ帰ってきたカズトは、仕事を探しながらもつい古書店を見かけると覗くようになっていった。何度か顔を出せばすぐ店主に顔を覚えられ、なりゆきで談笑していたところへ話しかけてきたのが柏木だった。
本が発見されたことはありがたかったが、自分と接触したことで柏木の身に危険が及ぶかもしれない。そう考えたカズトは柏木に本を手放すよう説得を試みた。
けれども本とカズトの関わりを上手く説明することができず、柏木は単にカズトがただで本を手に入れようとしているとでも考えたのか、金を出さなければ渡さない、と頑として言い張った。柏木のふっかけてきた金額はとてもカズトに支払える値段ではない。
諦めて一旦帰ると、憂慮は現実のものになった……。
「誰なのかは知りませんけどね。僕の前には姿を見せてくれないんです」
くろがまたもぞもぞと動き、七枝の腕を飛び出す。机の上を横切り、カズトの前に辿りつくと、そこでこてんと横になった。
はたから見ると目の前に居座る猫は邪魔っけそうだが、カズトは気にせずくろの頭を撫でる。
「でも気配みたいなのは感じます。たぶん女性です。たまに、ああ今見てるな、と思うことがあるんですよね。
今朝もダイニングにいたんじゃないかな、僕が来たとき」
「ふうん、で、本も彼女が持ち去ったと?」
「でしょうね。……あと、もうひとつ、とんでもないこと言っていいですか」
「今さら? もう既にとんでもないことのオンパレードだから大丈夫。ね、木崎くん」
「えっ俺ですか? あ、はあ、まあ、どうぞ手短に」
木崎の話半分な態度もちょっと気になったが、今はそれよりもカズトのとんでも発現のほうが大事だ。敢えて何も言わずに青年のほうへ向き直る。何故かくろと眼が合う。
黒猫は意味ありげに目配せをしてきた。
が、それを追求する前に喉をくすぐられて、まったり状態に移行してしまった。ごろごろ言いながら眼を閉じている顔はどこからどうみてもただの猫だ。
「彼女のこと、なんですけど。さっきは気配を感じるとか言ったけど、ほんとはちょっと違うんです。なんていうか、匂いとか空気みたいなのが変わるんですよ、彼女がいると」
「ほう。それで性別もわかるんだ?」
「そうなのかな……うーん、なんていうんだろう。
潮の香りというか、まるで海岸の傍にいるみたいな匂いがするんです。だから魚の妖怪か何かじゃないかと勝手に予想してたり……そして、今も僕を見ている」
魚の妖怪。
と聞いて、とりあえず七枝がぱっと思いついたのは人面魚だった。巨大な人面魚がこう、人間の首に巻きついて窒息死させようとしている光景を想像してみると、意外にも司法解剖の結果と会っている気もしてくる。
あの人の手やロープとは違った質感の、たくさんの切り傷を残す凶器の痕跡。尖った鱗のたくさんついた魚の尾で絞めつければ、あんな跡が残りそうな気がする。
とはいえ、科学と情報の現代日本でそんなファンタジーなことがあっていいのだろうか。これは殺人事件だ。実際に人がひとり死んでいるのに、そんな馬鹿げた解釈で話が通るというのだろうか。
改めて七枝はカズトの話を信じ始めている自分に気づき、なんとも言えない気持ちになった。そして、どうしてカズトこんな突拍子もない話を、たとえほんとうのことだったとしても、自分に話す気になったのだろう。
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