二、「第一発見者」
|三|
木崎明彦は早朝、ふたつの緊急連絡を受けて自宅を飛び出した。
ひとつは市内で殺人事件が発生、ただちに現場に急行せよ、というもの。そしてもうひとつは、半月前に入院した彼の最愛の妻がついに「その時」を迎えようとしている、というものだった。
悲しいかな、木崎には選択することができなかった。彼は泣く泣く妻の入院している病院を横目に通り過ぎ、更に職場とは逆の方向の、悲惨なる殺人現場へと急行しなくてはならなかった。辛いがこれも働く男の性である。
せめて、と木崎は携帯のバイブ機能を最大にしてポケットに突っ込んだ。連絡がきたらすぐにわかるように。
こんな最悪のタイミングで殺されてくれたはた迷惑な男は、凄惨な死に顔で木崎を出迎えた。少し調べてみたら彼が詐欺容疑で任意同行を求められた経験があることがわかり、その裏付けのために二課の刑事を呼んだところ、五十嵐という女刑事がやってきた。二課の五十嵐、という単語にどこか聞き覚えがある木崎だったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
一刻も早くこの事件を解決して、妻の元へ急がねば。
木崎の心にあるのはただそれだけだった。
「おい木崎。発見者の兄ちゃんはどうしてる」
「とりあえず別荘の管理小屋で待機してもらってますよ。須藤巡査が一緒です」
「現場は一旦鑑識に任せて聴取してこい」
「はい」
主任の高任警部は比較的大柄だ。殺人現場となった海岸近くの別荘は砂だらけで、現場保存のためには歩ける場所が限られているのだが、通行用に張ったロープの道の幅が狭いので窮屈そうにしている。
木崎は別荘を出て、ここから歩いて五分ほどの場所にある管理小屋に向かった。
ここ一帯はほとんど貸し別荘で、管理小屋にはすべての別荘の事務所が入っている。今回は現場となった別荘を貸し出している会社の事務所を一時的に借りているのだ。
向かう途中、車(パトカーではない)の傍で仏頂面のまま腕組みしている五十嵐七枝を見つけた木崎は、何気なく話しかけてみた。
「あの、五十嵐さん」
「ん? あ、はい。なんですか」
「なんだか暇そうですねえ」
「はあ。……私にもよくわかんないんですけど、待機命令が出たんで。……何か用でも?」
「俺、今から第一発見者の話を聞くんですよ」
「……はあ。」
七枝はあからさまに面倒そうな返答をする。しかし木崎は動じず、真面目な顔で続けた。そんなことに構っている暇はないのだ。
「いや、五十嵐刑事も連れて行ったほうがいいのかなーと。柏木の資料も必要になると思いますし」
「わかりました」
七枝は頷くと、車の助手席に放り投げてあった鞄を引っ張り出した。持ってこられるだけの資料を全部詰めたのですこぶる重い。
そのまま木崎と七枝は事務所のある管理小屋を目指して歩き始めた。といってもさしたる距離ではないが。周りに背の高い建物もないので、とりあえずその場からでも目視できるほどだ。
ちなみに、ふたりは気づいていなかった。七枝の車の下から這い出た黒い物体が、ふたりの後を追うように、背後についてきたことに。
|四|
事務所の入っている管理小屋は少し埃臭かった。業者もオフシーズンには人を置かないのかもしれない。したがって掃除もしない、というわけだ。
小屋には合計三つの業者の事務所が入っているが、そのどれもが無人だった。正確には、今回の殺人現場となった別荘の貸し主である「有限会社ミズイロホリデイ」にだけは刑事がひとりと第一発見者の青年がいるのだが。
木崎が扉を叩くと眠たそうな顔をした刑事が顔を覗かせる。彼は七枝を見て一瞬「おや?」という顔をしたが、七枝が睨みつけると即座に木崎に振り返り、いそいそと扉を開けた。
潮風がここまで届くのだろうか、扉は甲高い悲鳴を上げて軋む。
「須藤、こちら二課の五十嵐刑事」
「は、自分は捜査一課の須藤であります。そしてそこの彼がですね、第一発見者の古田さんです」
事務所には折り畳み式の机とパイプ椅子が幾つか、それから書類などをしまうキャスター付きプラスチック製のラックくらいしかなく、まさに殺風景といった感じだ。というか署内の取調室に似ている。少しだけ。
奥のパイプ椅子にはそれらしい男が一人、こちらを睨むような顔をして座っている。
「俺たちが来るまでに何か話してくれた?」
「それがその、先ほどまでひどい興奮状態で、名前を確認するので精一杯でした……」
須藤はしょげているようだったが、木崎はああそう、と軽く返した。繰り返すが、今日はそんなことに構っている暇はないのだ。
そのあと須藤はミズイロホリデイ本社に向かったので、事務所には三人が残された。
木崎と七枝は第一発見者を見遣る。まだ若い男だ。高任が「兄ちゃん」と表現したのも頷ける。大人しそうな風貌をしているが、須藤の報告ではさっきまで「興奮状態」にあったらしいし、表情はどこか暗い。
彼は一体何を見たのだろう。それを今から聞き出さなくてはならない。もちろんセオリーどおり、彼は現在重要参考人にも等しい存在である。
先に口を開いたのは、何故か七枝だった。
「名前と職業。」
青年は七枝をじっと見た。七枝も青年をじっと見つめ返した。よくわからないが木崎には、なんとなくドラゴンと虎が睨みあうという光景を想像した。そういうの、何かでなかったっけか。
ふたりの一触即発、いや沈黙はおよそ三分間に渡ったが、それを破ったのは青年のほうだった。
「……古田カズト、と言います。今は無職です」
「住所は」
「西月重市です」
「あ、わりと近いんだ。……って五十嵐さん、聴取とるの俺の仕事なんですが」
「ああそうだった。すいませんつい」
七枝はしれっとそう言って近くにあったパイプ椅子を引いた。古いものらしく螺子の周りが錆ついている。木崎もとりあえず座ることにする。
何やら足許にふわふわした感触があって気持ちいい。
でもこれは一体……と木崎が考えていると、七枝が机の上に一枚の書類を出した。柏木丈二の顔写真だ。これを見せながら訊けということらしい。
「古田さん、被害者と面識は?」
「昨夜、初めて会ったんですけど……」
「え、それはどこで?」
「霜坂町の古書店で……海菱堂という店です」
木崎は頷くと、手帳にシモサカ、古本、カイリョウドウ、と手早くメモをとった。隣で七枝が木崎の携帯を借りて、捜査本部に連絡をいれる。きっと高任が須藤あたりに調べに行かせてくれるだろう。
カズトは少しそわそわしながら、更に続ける。
「カツラギさんが……彼が持ってる本が気になったので、見せてもらうことになって……」
「カツラギ?」
「そう名乗りました。カツラギヤスシ、って」
「まあ偽名でしょうね」
ちなみに後で須藤から、柏木らしい男が「桂木靖史」という名前で別荘を借りていたとの報告が入る。詐欺師なら偽名をいくつか持ち合わせていてもおかしくはない。七枝の持っている資料によれば、他に「藤堂和夫」とか「木村保彦」といった偽名を使っていたようだ。
なお、柏木は金になるならどんな詐欺もするタイプだった。結婚詐欺に証券詐欺、とくに話術に優れていたので懐柔して振り込ませる手口はお手の物。
「……彼は犯罪者かなにかだったんですか?」
「ええ、まあ、逮捕されたことはないけど」
もしかしたら眼の前のこの青年も、何かしらの詐欺に遭おうとしていたのかもしれない。
「と……とにかく、僕に本を見せてくれると言って。それで、その本は別荘に置いてあるから、と……夕方ごろ、彼の別荘に行きました」
「初対面なのに随分と打ち解けたんですね」
「ああ……ええと、なんだか趣味が合ったみたいです」
カズトは少し恥ずかしそうに言う。何を照れているのかはよくわからない。
「じゃあ、それで本を貸し借りしようってことになった訳ですか? ……お金のやり取りもしたんじゃない?」
そこへずいと顔を押し込んできたのは七枝だった。二課の詐欺事件捜査に携わっている人間からすれば、確かにそれを一番確認したいのもわかる。柏木が偽名を使っていたのも怪しい。
木崎は果たして七枝を制したものか考えあぐねた。柏木がカズトを騙して金銭を奪おうとしていたなら、青年には柏木を殺す動機があると言える。しかしこの控えめな青年からそういう込み入った内容を聞き出すには、もっと時間をかけたほうがいいのではないだろうか。
……だが、しかし、今日の木崎にはあまり時間と余裕がない。今こうしている間も病院で妻がひとり戦っているのを思うと、いてもたってもいられないのだ。
「いいえ」
けれどもカズトの回答はシンプルだった。
「さすがに初対面でしたし、さっきも言ったように僕は今仕事がないんです。もちろんお金もない。何か買えとか言われても応じませんよ」
「あ、そう。じゃ続けてください、木崎刑事」
言葉尻にどこか納得がいかないようすを滲ませつつも、七枝はそれ以上追求せずに引いた。なんだかそのほうが後が怖い気がしたが、それで自分の仕事が早く終わるなら、と木崎も深くはつっこまないことにする。
カズトは少し安堵しているように見えた。ということはやはり何か後ろ暗いことでもあったのだろうか。それとも単に七枝が苦手なのかもしれない。少なくとも木崎自身は現在進行形でちょっと扱いに困っている。
二課の刑事と聞いて昔馴染みのあの人を期待していたことは、せめて黙っているけれど。
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