一、「兄と黒猫」
|一|
五十嵐七枝の一日は、まず兄の飼い猫を摘み上げるところから始まった。
兄と妹と、それからもう一匹とで暮らすこの家は、今は亡き両親が遺してくれた大切な財産だ。その財産に日々新しい傷と抜け毛を進呈してくれるこの生物を、七枝はあまり好きになれないでいた。
まず第一に彼女はペットとしては犬のほうが好ましいと考えていた。それもすらりとしたドーベルマンかシェパードのような賢い犬種がいい。というか警察犬みたいなのがいい。
そもそも、兄だって昔は犬が飼いたいと言っていたことがあったはずだ。両親から許可が下りなくて、結局は七枝が友人からもらってきたジャンガリアンハムスター数匹で我慢したのだった。ハムスターはそれなりにかわいかったが、景の遊び相手としては些か身体もスケールも小さすぎたので、彼はあまり喜んではいなかった記憶がある。
それが突然、猫だ。ことが起きたのは七枝が休暇に兄の車を借りて少し遠出してきた日のことだった。
帰ってきたら見覚えのない生物が兄と一緒に寝ていたのだ。他にもいろいろと怪しい点はいくつもあったが、兄に尋ねてもよくわからないことしか言わないので、七枝もそのうち追求するのが面倒になってしまったのだった。真実を突き止めるのは仕事のほうで手一杯だ。
とりあえず新しい同居人である猫の「くろ」は、七枝から発せられる負のオーラを感じてか、こちらに懐こうともしてくれないのだった。
「兄さん、ちゃんとくろの面倒見ててよ。さっきからそこの扉で爪とぎしようとしてるんだけど!」
「ストレス溜まってんだろ」
「なんかにゃーにゃー言ってるんだけど!」
「そりゃ猫はにゃーとしか言わねえよ……どうしたくろ、腹でも減ったんならはっきりそう言え」
「……兄さんこそめちゃくちゃなこと言ってるよね?」
不思議なことに、猫は兄の言葉を理解しているように見える。兄が呼べばすぐそちらに走っていき、言葉はすべて猫語とはいえ、何故か旗から見ていると普通に会話しているようにも見える。たとえば。
「腹が減ったか?」
「にゃあん」(うん)
「悪いが今日はカリカリのやつしかないぞ」
「にゃー、にゃーん」(えー、やだー)
「我侭言うんじゃねえ」
「にゃう」(ちぇっ)
……。いや。これは、猫相手に真面目に対応している兄のほうに問題がある気がしてきた。
ちなみに七枝が知る限り、兄の景は決して愛想のいいタイプではない。上司にゴマひとつ擦ったこともなく、部下に何か奢ってやったこともたぶん滅多になく、ある意味警察官には向いているかもしれない……いややっぱりそれはないか。
とにかく、猫に対して妙に優しい気がするのは何故なのだろう。彼なりに家族だと思っているのだろうか。
それならせめて猫にもう少し可愛げというものがあったなら、七枝としても納得がいくのだが。
「おい、さっさと飯食えよ。俺今日ちょっと早いんだ」
「え、そういうことは昨日のうちに言ってよ!」
兄の言葉に七枝は急いで朝食のハムエッグを口に詰め込む。幸いにも洗いものくらいはしてくれる兄であったので、片付けだけ手早く済ませて自室に戻った。七枝とて女子であるので、最低限の身支度はしなければ。
体裁を整えて戻ると、兄はもう玄関で待っていた。
五十嵐の家には現在車が一台しかない。七枝としては自分の出勤用に欲しいところだが、生憎駐車スペースが確保できないでいた。それで兄妹は毎朝一緒に出勤しているのだ。
いつの間にか猫がいないようだったが、兄がさほど気にしていないところを見ると、外にでも出したのだろう。あの猫が室内飼かどうか、七枝は考えたことはないが。
|ニ|
それから一時間後、七枝は車を走らせていた。
まるで示し合わせたように、署に着いた五分後に緊急連絡が入ったのだ。正確には一課への通報だったらしいのだが、七枝が呼び出しをくらったからには、何か二課にも関係のある事件なのだろう。
場所は県警管轄内だ。市内の臨海区。海岸線沿いは県内でも人気の高い居住エリアで、一部はいわゆる高級住宅街と呼んでもさしつかえない雰囲気を持っている。
今回はエリアの外れでそうお高い土地ではない。別荘地にされている辺り、だそうだ。
「捜査二課の五十嵐です!」
「あー一課の木崎です。やあ、朝早くからご苦労さま」
担当刑事のが右手をひらひらさせながら現れた。どう考えてもそっちのほうが朝早いだろ、と七枝は思った。
「ガイシャの身元、確認してもらえます? あ、足元すごいことになってるから、この線の間だけ踏んで下さい」
言われて見れば、現場となった建物の中は砂だらけだ。足跡でも探したいのだろうか、砂の少ない部分にだけ二本のロープが渡してある。そこを通れということらしい。
どうやらここは別荘のようだった。砂で汚れている点はさておいて、生活感がない。
アンティーク調の小ぶりな靴箱と、リゾート風の草で編んだ玄関マットしかないシンプルな玄関には、端のほうに黒い革靴が脱いであった。周りをロープで囲んである。被害者の靴だろうか。一課が担当しているのだから、もう死んでいるのだろう。
廊下は短く、すぐにダイニングへの入り口があった。
家具は最低限のものしか置いていない。籐のタンスに涼しげなガラスのテーブル、木製のチェア。カウンターを挟んで奥のほうに簡単な調理ができる台所があり、小さな冷蔵庫の頭がちょこりと除いている。
テーブルに視線を戻す。ガラス製の小洒落たテーブルには黄色い液体の入った丸いグラスがふたつと、焼き菓子を載せた小皿がひとつ。
「あ、そっちじゃないです。こっちこっち」
先ほどの木崎が手招きする。
どうやらダイニングのほうが現場で、遺体は別の部屋に運んであるようだった。
「司法解剖はまだなんですね」
「確認次第すぐ送る予定なんで……で、この人ですが」
ダイニングの反対側は寝室とシャワールームがあり、遺体は寝室のほうに安置されていた。とはいえベッドに寝かせてもらったのではなく、床に。
ブルーシートにくるまれているので顔は見えないが、身長からして男性だろう。七枝は緊張しつつも遺体を凝視した。……二課ではあまり遺体を見る機会がないので、慣れていないのだ。
木崎がそれじゃどうぞ、と言ってブルーシートをめくった。
「ひっ!」
七枝は思わず素っ頓狂な声を上げた。人生で初めて目にした人間の他殺体(たぶん)は、言葉にするのが難しいが、とにかくグロテスクなものだった。
「ひどい顔してるでしょ。絞殺ですよ」
木崎はほら、といって遺体の首元を指し示す。なるほど、首には絞めた跡が──あるはず、なのだが、七枝にはそれが人の手やロープのようなものの痕跡には見えず、とりあえず顔を逸らすことにした。あんまり、見たくない。
遺体は頭から首まで紫色のまだら模様に染まっていた。そのうえ、ところどころに切り傷のような跡があり、遺体自身の苦悶の表情もあいまって非常に不気味だ。遺体にきれいも汚いもないと思うが、自分だったらもう少しきれいな状態で死にたい。七枝はこみ上げてくる吐き気と恐怖心をどうにか押さえてもう一度遺体の顔を見た。これも仕事のうちだ、仕方がない。
ひどく歪んではいるが、なるほど見覚えのある顔だった。
すぐさま鞄から資料ファイルを取り出し、幾つかのページを改める。そして何ページも見ないうちに目的のものは見つかった。目の前で死んでいる男の顔だ。
「やっぱり、柏木丈二でしたか?」
隣から木崎がファイルを覗き込んできた。七枝は頷く。
柏木は以前から七枝たち二課が、詐欺の容疑で調査対象としてきた男だった。決定的な証拠や現場を押さえることができず、今まで逮捕することができなかった。
死んだ男は柏木だった。少なくとも顔の特徴は一致している。これで司法解剖に回せばもっとはっきりするだろう。
問題はその詐欺師が何故こんな別荘で死んでいるのか、だ。
ともあれ七枝の仕事は終わった。あとは帰って報告して、それから捜査中の案件を処理して……。
「あ、ちょっと、まだ帰らないでくださいよ」
七枝が忙しく今日の予定を確認し、背を向けたところで木崎に呼び止められた。
「なんでしょう?」
「もうひとりの五十嵐さんからご連絡です」
「はあ」
もうひとり、というのは兄のことだろう。連絡なら直接、七枝の携帯に入れればいいはずだが、わざわざ木崎を挟むとはどういうことだろう。七枝は訝りながらも携帯電話を受け取る。
『おう、どうだった。本当に柏木だったか』
「司法解剖が済むまでは断言できないけどね。整形した別人かもしれないし」
『そうか。で、警部から連絡なんだが、今日はそっちに詰めろってよ。資料は適宜こっちから送る』
「え、それどういうこと? あとなんで直接私のとこにかけてこなかったの?」
『俺は知らん。あと、おまえ携帯忘れてったんじゃねえのか。何回鳴らしても出ねえからこっちにかけたんだよ』
そこで兄はさっさと電話をきってしまった。だから言ったのだ無愛想なタイプであると。
そういうわけで、どういうわけだか、七枝は殺人現場に缶詰にされてしまったのであった。
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