第42章:口論
宮下は前夜の家庭での確執を引きずりつつ、バイト終わりに会った二人は、将来や互いの身勝手さを巡って車内で激しい口論になる。
「せんせ?」
翌朝、カーテンの隙間から差し込む白い光のなかで、スマホの画面がピコンと小さく跳ねた。なるかからのメッセージだった。
「おはよ、大丈夫だった?」
「おはよ。頭痛いー。せんせは大丈夫?」
「んー、、まぁ」
私は気のない、どこか疲れた文字を打ち込んで返した。
「奥さんに何か言われた?」
「うん、それなりにね」
「そか、」
「今日せんせ、バイト終わりに会える?」
驚くほどまっすぐで、底抜けに無邪気なその文面に、昨夜のあのドロドロとした夜気が嘘のように思えてくる。彼女はいつだって、自分の感情に対して残酷なほど正直だった。
「うん、少しなら大丈夫だと思うよ?」
「じゃぁ少しでもいいから会おう!」
「わかった」
スマホをポケットにしまい、背筋を伸ばすと、昨日の夜の凍てつくような冷気がまだリビングの隅にこびりついているのが分かった。家の中を漂う空気は、どこか重く、淀んでいた。
「じゃぁ、行ってくる」
ダイニングのほうへ声をかけると、妻は食器を洗う手を止めないまま、背中を向けたまま答えた。
「いってらっしゃい」
その一言に温度はなかった。私はそれに重ねる言葉を持たず、逃げるように重い玄関のドアを閉めたのだった。
夕方、沈みかけた太陽が街を鈍い茜色に染め始める頃、ポケットのなかでスマホが細かく震えた。取り出した画面には、なるかからの短いメッセージが浮かんでいる。
「せんせ? 今日大丈夫そ??」
「うん、大丈夫だよ」
「よかった! じゃぁいつものバイト先横のコンビニに来て?」
「うん、わかった」
教員としての澱んだ義務感と、昨夜からずっと首を絞められているような家庭の重苦しい空気を脱ぎ捨てるように、私は車を走らせた。
指定されたコンビニの駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切る。静まり返った車内で、私は助手席の窓の向こうをぼんやりと眺めながら、なるかを待った。
しばらくして、アルバイトの締め作業を終えた彼女が、疲労を滲ませながらも小さく手を振りながらこちらへ歩いてくるのが見えた。助手席のドアを開けて、なるかは静かに滑り込む。
「せんせ、お疲れ様!」
「お疲れ」
なるかがカチリとシートベルトを締めたのを確認してから、私は黙って車を発進させ、いつもの静かな夜道をいつもの料亭の駐車場へと向かった。けれど、車内の空気は昨夜の余韻をそのまま引きずったように、どこか重く張り詰めていた。
「ねぇ、せんせ?」
「ん?」
「せんせはさ、家庭あるじゃん。私とこの先どうしていきたいの? 遊び?」
「遊びじゃないよ」
私はフロントガラスを見据えたまま、濁りのない声で真剣にそう答えた。
「そんな事言っても、結局せんせは離婚とかしないでこのままの関係を続けていくんでしょ。大人ってみんなそう、ほんとずるい! 結局せんせだってそうなんだよ!」
決めつけるようなその冷たい言葉に、私は胸の奥がチクリと逆なでされるのを覚えた。
「なるかは俺の事、そういう風に見てるのか。行く行くはなるかと一緒になる決意でいるし、そう思われてるのも凄く心外だよ」
「じゃあいつ?! 行く行くって一体いつなのよッ?!」
なるかもまた、いつになく鋭く真剣な表情を剥き出しにして私を捲し立てた。
「子供のこともある。それに、然るべきタイミングを見定めるより方法がないだろ」
「ほんとずるいよね!」
なるかはプイと窓の外へ顔を背け、吐き捨てるように言った。
「そんな事言ったら、なるかはどうなんだよ! マモルとずっと一緒にいて、別れるそぶりもないじゃないか!」
「せんせと大っぴらに付き合えないんだから、カモフラージュが必要だからやってる事に決まってるでしょ! そのくらい理解してよ!」
「なるかと俺だって同じことが言えるんじゃないのか? なんなら、状況としては俺は法的な婚姻関係にあるのに対して、なるかはフリーでどうにでもなるだろ!」
「全然分かってくれてないじゃん! 私の気持ちも! 私のことも! なにもかも全部!!」
「それはこっちのセリフだって言ってるだろ!!」
車内の空気が一気に沸点を超え、私たちは互いの心臓を抉り合うような言葉を投げつけ合った。
「もういい! 降りる!!」
激昂したなるかは、走行中のロックを乱暴に外してドアノブに手をかけた。
「ここから歩いて家まで帰れるわけないだろ! 送るよ!」
「いい!! もう一緒に居たくない!!」
私はそれ以上言い返す気力を奪われながらも、有無を言わさずハンドルを切り、彼女の自宅の方向へと車を走らせた。
「車止めてってば!! やめてよ!!」
しばらく走り、なるかの家のほんの一ブロック手前の交差点。赤信号で車がピタリと停止したその瞬間、彼女は自らガチャリとドアを開け、夜の冷たいアスファルトへと飛び出すように歩き出してしまった。
ここからなら、家までもう大した距離ではないはずだ。
追うべきか迷いながらも、尖りきった互いの頭をこれ以上冷やすことはできないと判断し、私は無理に引き止めることをやめ、そのまま静かに帰路へとハンドルを切ったのだった。




